2002/08/05 産経新聞朝刊
【正論】作家 曽野綾子 奉仕活動をどう発展させるか
◆人間の面白さと素晴らしさ
中央教育審議会が、児童生徒の奉仕活動を単位として選定し、入試の評価対象にもすることを求める答申をしたことについて、意見を求められたが、私はいつも反応が遅いので、数日考えていて即答もできなかった。私が二年前の教育改革国民会議の答申の中で「奉仕活動を義務づける」ことを提案したので、こういう質問があったようだが、今度の決定は義務化ではなくてよかった。
このごろ、私は「人間のことを決める」には、柔軟な考え方が何より必要だ、と思うようになった。
昭和二十年の戦争末期に、激戦場と化した沖縄の南部では、野戦病院が撤退する時、壕の中の瀕死(ひんし)の重傷患者に、致死量のモルヒネを打った。現代の人は何も経緯を知らないからすぐ「それは殺人行為ではないですか」などと言うのだが、外へ出れば艦砲射撃で逃げ場もない。患者を運ぶ車輌もない。苦しみをなくすためには、貴重なモルヒネを打って安らかに眠らせることが最善のことと思われたのである。
事実その注射で息を引き取った人もいたが、中には信じられない幸運を得た人もいた。致死量のモルヒネで深く眠った兵の中には、気がついた時には米軍の野戦病院にいて、充分な手当てを受けていた人もいたのである。
致死量と言われる薬を打っても、死ぬ人と、ぐっすり眠り込むだけの人とがいる。それが人間のおもしろさであり、すばらしさなのである。
◆試行錯誤をためらうなかれ
奉仕活動も同じで、当然のことだけれど、おもしろかったという子と、もうあんなことまっぴらだという子ができるだろうと思う。その双方が出ることが、人間として当然の帰結なのである。
おもしろかったという要素にもさまざまあるだろう。奉仕活動でもいいから教室で勉強するよりいいという怠け者や、体を使うと後が気持ちいいという体験派まで、理由は無限にあるだろう。もうあんな労働はまっぴらだ、とこりた子は、それによって一つの選択眼が養われたので、以後は人生をこの嗜好に従って構築するだろう。
普通の生活をしていても、体験には、自ら選ぶものと強いられるものと双方がある。どちらも、よくて悪いのである。それが人生というものだ。
人生には予測だけで決める場合もあるけれど、やってみなければわからない部分も多い。私は今財団で人道的な目的に沿った仕事をしようとしているが、人間相手の仕事は、スタートの時、細部まで決めることはなかなかできない。やってみるとあちこちにさまざまな齟齬(そご)が出ることもある。それを注意深く拾って行って、悪いことはすぐ撤退し、いいことは少しずつ補強する。そのいい意味での試行錯誤、小回りの利いた柔軟な朝令暮改の姿勢こそ、人に仕えさせてもらう仕事の基本姿勢だと思っている。
◆完全でない人生に対処する
奉仕活動は一部の学校や地方自治体では、もう既に始められているということは前から聞かされていたが、それをどのような形に発展させて行くかにも、多分同じような、柔らかで、のんきで、温かい対応が必要だと思う。そのためには、人生がどの地点ででも、決して完全ではあり得ないという真理を認識する叡知(えいち)が必要だろう。むしろ完全でない人生をいかに対処して行くかを学ぶことが、大切な過程なのだ。
空調のない現実の暑さと寒さを味わうこと。大勢と起居を共にすること。車ではなく長く歩くこと。自分の好みではなくて与えられたものを食べること。したいことを我慢できる心の強さを持つこと。こうしたことは、すべて大きな意味を持って人間を創る。
途上国には電気もない広大な地域が残されている。国連の援助機関が配ってくれる粉と油で食いつなぐという生活が、好きなものしか食べない人間にどうしてわかるのだ。平和を構築するということは、隣にいる好みも生き方も違う人の存在に耐えることしかない。それをいやだと言うなら相手を殺す他はない。
奉仕活動をしたかしないかを、入試の評価対象にすることが、すなわち強制だという人もいるだろうけれど、それは臆(おく)病(びよう)者の感慨である。
人は嫌なことには全身で抵抗すればいいし、それもまた現代の日本では命や健康を損なわずにできる。少し損をするだけでたいていの自由は得られるのだ。人はあらゆる行為に対して、もともと代償を払うべきものだ。損をするのが嫌なら、妥協もまた一つの凡庸な選択だと知って納得するのも教育である。(その あやこ)
◇曽野綾子(その あやこ)
1931年生まれ。
聖心女子大学卒業。
作家。日本財団会長。
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