かねがね皇室、日の丸、君が代に反対の姿勢を取り続けていた新聞社が発行した週刊誌の表紙が、一面を埋め尽くした日の丸の旗の図柄だった。もちろんサッカー場の光景である。もっとも乱視の私は一瞬なんの模様だかわからなくて、強いて言えば溶いた卵にトマトを入れて炒めたウイグル料理(私たちが通常トマ玉と呼んで新疆ウイグル自治区にいる間中、毎日のように食べていたもの)かと思った。
卒業式場に掲げた日の丸を引きずりおろして、踏んだり焼いたりして新聞に報道され、時には英雄扱いになった人たちは、どうしてこういう社会状況に黙っているのだろう。国旗を掲げることに反対した日教組色の強い先生たちは、生徒たちに今回、国旗を振るようなサッカー会場には行くな、見るな、と信念をもって言ったのだろうか。今回の全世界を挙げた国家色の波を批判することもできなかったのなら、国旗に反対だなどと軽薄に口にするものではない。
再び言っておく。「日の丸は戦争の血によって染まった旗だ」というなら、次の事実を確認すべきだ。大東亜戦争の死者は三百万人前後。戦後の人工妊娠中絶数は一億以上。大東亜戦争三十三回分の人の命を、私たち日本人は中絶で奪った。国旗が血塗られたのなら、それは戦後だ。
今回ワールドカップに参加したアフリカ、南米、東欧などの国々の中には、貧しく、経済的にも社会的にも不安材料を抱えている国がある。ゲリラや麻薬を一掃できない国もある。しかしそれでも彼らはその国の人として、その国を愛して生きている。私たちがあたかも男性か女性のどちらかとして生きるのが安定がいいように、誰もが国家に属し、その国民であることを必要としている。性同一性障害という病気に悩む人たちの苦しみは、国家のない国民に似ている。
私は愛国心というものは、鍋釜皿並みの日常必需品で、別にインテリがいかように持つべきかを議論することではない、とここ数年思うようになった。国家か部族に帰属しない人間は、世界中、どんな土地にもいないのを知ったのだ。帰属しなければ生きていけない、今よりもっと暮らしが悪くなることが見えすいているからだ。世界市民などという空虚な身分は、百年先には可能かもしれないが、今の時代に住む平凡な人間の私たちには、持ち得ない観念である。
私は今財団で働いているが、考えてみるとその中心にある思いは(体裁よく言えば)愛国心としか呼びようのないものだ。誰に仕えるかというと、不特定多数の日本人としか言いようがない。私はたくさんの何十年来の友達がいるが、イジワルな私は、親友のためなら決してこんなにただ働きはしてやらないことがわかっているのである。
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