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2002/01/30 産経新聞朝刊
【正論】慶應義塾大学教授 榊原英資 文部科学省「教育改革」の欺瞞
 
◆これでは現場は戸惑うだけ
 文部科学省は、一月十七日、遠山文部科学大臣自らが「確かな学力向上のための二〇〇二アピール『学びのすすめ』」という具体的方策を示し、二〇〇二年四月からの学習指導要領実施に対する各方面からの批判に応えようと試みた。
 批判に対応したといっても、授業時間を大幅に削減しておいて、「学びのすすめ」なるアピールを出したところで、一体、何が変わるというのか。
 学習指導要領は最低基準だというならば、その基準を超えた指導をどう行うのかを、文部科学省は示すべきである。詳細な内容を示してもいいし、学科、教科については自由化するという方針をとってもいい。表面的には、後者をとっているようなふりをしているようにもとれるが、それなら、学校教育法の二十条、三十八条、四十三条等を抜本的に変更しなくてはならない。教科に関する監督権をしっかりと維持した上で、最低基準を上回るものを自由にといわれたところで現場はとまどうばかりである。
 より大きな問題は、美辞麗句で糊塗しようと努めているが、この新しい学習指導要領実施の基本にある文部科学省の「教育改革」が、決して「学びのすすめ」等ではなく、むしろ「勉強否定論」とでもいえる哲学と原則をもったものであるということについて、文部科学省に全く反省がないことである。
 
◆学力低下に一片の反省なし
 「…『過度な受験競争』が教育をゆがめているという認識に導かれ、教育改革は、学業成績を基準とした競争の圧力を教育の世界から取り除く事に全力をあげてきた。偏差値の追放も、推薦入学や『AO【admission office】入試』の拡大も学力競争を避ける心情に支えられてきた。少子化の影響も混じりあいその結果は…受験競争の圧力を弱め、教育の世界で競争を否定する価値を広めた。すなわち、受験競争が維持してきた、個人の外側にあって、やる気を引き起こす誘因、すなわちインセンテイブを見えにくくしてきたのである。」(苅谷剛彦「階層日本と教育危機」、有信堂、二〇〇一年)
 受験競争の否定→競争一般の否定→勉強のインセンティブの低下→学力の崩壊という教育危機の急速な進展は、実は「教育改革」の基本理念によってもたらされたものである。それに対する一片の反省もなく、「学びのすすめ」と題したアピールを急遽(きゅうきょ)発表する文部科学省の神経は、というよりは基本的ものの考え方は、一体どうなっているのか。自らの哲学や原理の問題点を全く分析しないで、又、難題を全部、現場に押しつけているのである。
 
◆「競争イコール悪」なのか
 「水戸黄門ワールド(寺脇研氏をイデオローグとする文部科学省主流派=筆者注)では必ず悪者は代官と決まっている。『上』は悪くない。『中間』が悪いのだ。読者が子供の教育に悩む親なら、『代官=教員』『代官=学校』となる。読者が教師なら、『代官=校長』『代官=教育委員会』となり溜飲を下げるのだろうが、本質的な問題は何も解決されない。」(森口朗「偏差値は子供を救う」、草思社、一九九九年)
 この競争イコール悪というイデオロギーにもとづいた文部科学省の教育のとらえ方は、戦後日本社会に特徴的な見方であり文部科学省のみを批判するのは多少酷かもしれない。
 苅谷氏によれば、競争を否定し、結果として知育、勉学を否定するにいたったこの教育をとらえる認識の枠組みは、戦後「日本社会に出現した、社会的、文化的、歴史的な産物」であるという。
 戦後日本の平等主義的ものの考え方、社会民主主義的システムは少なくともたてまえとしては、この五十数年で日本に定着し、様々な制度がこうした考え方にしたがってつくられていった。筆者が今の日本がある種の社会主義国家であるとしばしば発言するのは、こうしたことを念頭においているからである。
 しかし、過去の日本(少なくとも八〇年代までは)は「社会主義」的制度にもかかわらず成功した。そして、簡単にいってしまえば、成功の大きな原因の一つは、「社会主義」的ものの考え方、制度にもかかわらず、本音ベースでの厳しい競争が存在したからである。企業間の競争、出世競争、受験競争等々である。受験競争を目の敵(かたき)にした文部科学省の「教育改革」は実はこの成功を根底からひっくり返し、日本滅亡への第一歩になってしまっているのである。(さかきばら えいすけ)
◇榊原 英資(さかきばら えいすけ)
1941年生まれ。
東京大学大学院、ミシガン大大学院修了。経済学博士(ミシガン大学)。
大蔵省入省後、国際金融局長、財務官を経て退官、現在、読売新聞調査研究本部客員研究員、慶応義塾大学教授、慶応義塾大学グローバル・セキュリティ・リサーチ・センター(GSEC)ディレクター。


 
 
 
 
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