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2001年4月号 世界
「教育改革国民会議報告――教育を変える一七の提案」を批判する
佐藤 学
 
 
(1)独善と愚策
 
 これほど独善と愚策に終始した論議が他にあっただろうか。小渕首相の私的諮問機関として昨年三月に発足した教育改革国民会議は、小渕首相の逝去後は森首相の私的諮問機関として継続し、昨年末の一二月二二日に「教育改革国民会議報告―教育を変える一七の提案」を公表して任務を終了した。その間の審議の内容は『分科会の審議の報告』(七月)、『中間報告』(九月)およびインターネットで公開された全体会と分科会の「議事録」によって概要を知ることができる。何はともあれ一連の文書を見ていただきたい。『分科会の審議の報告』とその前後の議事録を読んで、私は「飲み屋談義」(『朝日新聞』、二〇〇〇年八月一二日)と、独善と思いつきが連続する議論の展開を酷評したが、最終の報告書を読んでも、品位を欠いた言葉で批評した私の言葉が過激ではなかったと思う。それほどお粗末な議論なのである。「報告」は、奇妙な危機感で充満しているが、子どもたちの将来と日本の未来を決定する「報告」自体のお粗末さに危機の本質があることに、教育改革国民会議の方々は無自覚であり無頓着である。(本人自身が危機的であることに無反省で無頓着な点で、森首相のような「報告」なのである。)。
 まず「報告」は現状認識が情緒的で曖昧であり、主観的で独善的な理解から出発している。「このままでは社会が立ちゆかなくなる危機」と述べながら、危機認識を裏づけるデータは何一つ示されていないし、驚くべきことに一年間にわたる議論の過程で子どもや親や教師の声は一つも登場していない。河上亮一が「現場の教師」として何度も意見を述べているが、河上の主張の中心は「義務教育段階でも教師に反抗する子どもは退学処分にすべきだ」という点にあり、執拗に繰り返される彼の発言は子どもたちや大多数の教師たちを暗澹たる気持ちにするだけである。二六人の委員の中で唯一、教育学者の藤田英典が随所で専門家としての良識にもとづく意見を表明しているのだが、そのすべてが無視されている。全体のトーンを支配しているのは、民主主義と平等の教育に対するルサンチマン(恨みと憎しみ)と、子どもや教師や親に対する不信感である。たとえば「報告」で「子ども」が登場するのはわずか一ヶ所であり、次のように表象されている。「子どもはひ弱で欲望を抑えられず、子どもを育てるべき大人自身が、しっかりと地に足をつけて人生を見ることなく、利己的な価値観や単純な正義感に陥り、時には虚構と現実を区別できなくなっている。また、自分自身で考え創造する力、自分から率先する自発性と勇気、苦しみに耐える力、他人への思いやり、必要に応じて自制心を発揮する意思を失っている。」
 この危機認識から「報告」は、「人間性豊かな日本人の育成」「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する」「新しい時代に新しい学校づくりを」という三つの視点を立てて、「教育を変える一七の提案」を提起している。議事録をたどれば明瞭であるが、この「一七の提案」は二六人の委員の思いつきを列挙しているに過ぎない。しかも、どの一つの提案についても十分に議論されているとは言いがたい。議事の進行を見ると、モノローグの連続でしかない。質問もなければ討議もなく、ばらばらの意見がばらばらに投げ出され、そのまま議事が進行する。さすがに世論の関心を集めた「教育基本法の改正」や「奉仕活動の義務化」については多様な意見が交流されているが、それらの意見は拡散し分散して何一つ合意を得ないまま、それでも「報告」では「提案」として成文化されている。
 こんな乱暴な議論で教育基本法が改正されたり、全国の小学校、中学校、高校の奉仕活動が共同生活で義務化され、近い将来すべての一八歳の青年の奉仕活動が義務化されるとすれば、そら恐ろしいことと言わねばならない。しかし、そのそら恐ろしいことが、現実のものになろうとしている。森首相は、会期中の通常国会を「教育改革国会」にすると述べ、「教育改革」を参議院選挙の票稼ぎの目玉にする方針である。
 
(2)混迷と混乱
 
 「一七の提案」の内容を検討しておこう。「一七の提案」のすべてが支持できないわけではない。私個人は二つの提案には賛同している。一つは「教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を」の提案である。国家財政が逼迫している現状において、未来のインフラの整備にあたる教育予算に応分の財源を確保するためには「教育振興基本計画」の立案は不可欠である。
 私が賛同するもう一つの提案は「リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機能を強化する」提案である。法律実務、金融、教育、公共政策などの分野の専門家の養成を行う大学院である「プロフェッショナル・スクール」の整備は、二一世紀の社会が高度に複合化された知識社会であることを考えれば必須の事業と言えよう。特に「国家公務員や教員については、原則として修士号取得を要件とするなど、特に文科系大学院に対する需要の増大をはかる」措置は重要である。
 教職の専門職化を推進するために、教育系大学院を充実させ、早急に大学院段階の養成教育を準備し大学院における現職教育を拡張する必要がある。フランスではすでに大学院で教師の養成を行っており、アメリカではほとんどの校長が教育学博士を取得した専門職であり、一般の教師も在職七年もしくは十年で終身雇用の契約を結ぶ要件として修士号の取得を義務づけられている。二一世紀の早いうちに先進諸国の教師教育が大学院段階にシフトすることは必至であり、日本においても早急にその準備が進められる必要がある。具体的には、官僚的な年功序列の中に回収されている現行の校長職を大学院教育によって専門職化する措置が講じられるべきであり、一般の教師に対しても在職十年以上の教師に一年間の大学院での研修を保障する制度を導入すべきである。この二つの措置によって学校改革は、子どもの質の高い学びと教師の自律的な専門性を保障する大きな礎を獲得することができる。
 この二つの「提案」を除く一五の「提案」は、いずれも教育改革に混乱と混迷をもたらし、教育の危機を助長し増幅してしまう危険な提案である。一つひとつの「提案」について検討しよう。
 まず「教育の原点は家庭であることを自覚する」は、教育改革の提言と言うよりも、保守的な家父長制モラルによる「お説教」でしかない。そもそも「家庭は『厳しいしつけの場』であり、同時に会話と笑いのある『心の庭』である」という「お説教」は、子どもや親が直面している現実に対する無理解の表明でしかない。十年ほど前まではイタリアと並んで世界で最低であった日本人の離婚率は、現在、アメリカほどではないにしても、フランスやドイツと並んで世界で最高のレベルヘと急激に変化している。昨年の統計によれば、七五万組のカップルが結婚しているが、離婚した夫婦は二五万組に達している。しかも、かつてと比べて学齢期の子どもをもつ夫婦の離婚が急増している。「お説教」に終始している限り、精神的、経済的な危機にあえぐ子どもと母親は増加する一方である。
 「学校は道徳を教えることをためらわない」という「提案」も、学校の混乱と混迷を助長するものである。小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」という「教科」を設置すると「報告」は提言しているが、道徳の「教科」を新設するということは、検定教科書を準備し、専門の教員免許状を準備し、成績を「評点」で評価することを意味している。「修身」の復活である。
 このような重大な改革が、教育改革国民会議の会議の中では何一つ検討されないまま、「提案」として成文化されている。「提案」として成文化された以上、文部科学省は政治家の圧力のもとで、道徳の「教科」を新設し、道徳を専門とする教師の免許状を準備し、道徳の学習指導要領を作成し、教科書の検定を準備しなければならなくなる。当然、道徳の教育内容をめぐってイデオロギー闘争が学校の内外で激化し、子どもも教師も親も混乱と混迷の中に組み込まれることとなる。教育改革国民会議の委員の人々は、こういうリアルな認識と想像力が欠落している。独善と思いつきの「提案」によって苦境に立たされるのは、文部科学省の政策担当者と学校の教師たちであり、その被害をもろにこうむるのは子どもたちである。
 日本の学校に欠落しているのは道徳の教育ではなく、自由と連帯を基礎とする市民性(シティズンシップ)の教育であり、民主主義にもとづく公共的なモラルと倫理の教育である。そして、多くの教師たちがその欠落に気づき、現在、各地の学校で環境学習や人権学習や平和学習によって市民性と公共的な倫理の教育に着手している。その新しい芽生えを「提案」による道徳教育は摘み取る危険性さえある。
 「奉仕活動を全員が行うようにする」という「提案」については、すでに多くの人々が的確な批判を展開している。小学校と中学校で二週間、高校で一ヶ月の「共同生活」による「奉仕活動」は、教師と子どもに無用な負担とストレスの多い歪んだ体験を強いるだけである。一八歳の青年に一年間の「奉仕活動」を強制する方策は、民主的な市民国家の根本原理に背いている。
 この「提案」の基盤には、子どもや青年に対する大人の不寛容と敵意がある。子どもの異変が過剰に語られるが、むしろ大人の異変のほうが過激である。少年犯罪は凶悪化しているわけではないし、子どもや若者のモラルは昔と比べて低下しているわけではない。急激に変化したのは、むしろ子どもや若者の否定的な現象に対して不寛容になり敵意を剥き出しにしている大人たちのほうである。「あいつらを何とかしろ」という大人の集団ヒステリーが「奉仕活動の義務化」の推進力になっている。事実、新聞の世論調査を分析してみると、「奉仕活動の義務化」に喝釆の拍手を送っているのは六〇代以上の高齢者であり、一〇代、二〇代の子どもと若者は大多数が反対している。当事者の子どもや若者が反対している改革が良い結果をもたらすわけがない。
 私は「奉仕活動の義務化」は「強制労働」であると指摘してきた。言葉の正確な定義から言って、義務化された奉仕活動のことを「強制労働」と言うのである。「ボランティア」と「奉仕活動」は根本的に違うし、「奉仕活動」と「義務化された奉仕活動=強制労働」も根本的に違う。この区別が、教育改革国民会議の多くの委員には、まったく理解されていない。子どもたちや若者たちが求めているのは、彼らの自主性を尊重したボランティア活動の支援であって「強制労働」ではない。
 「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない」は、一人の委員(河上亮一)の執拗な主張によって実現した「提案」である。彼の主張は、義務教育段階でも教師に反抗する児童・生徒は退学させる措置の導入にあったのだが、「提案」では「出席停止など適切な措置」に緩和されている。私は、この問題の解決は、中学生と高校生の市民的自由の保障と並行して市民的義務を要求する解決策しかないと思っている。具体的には、学校内であっても市街地と同様の市民的自由を中学生と高校生に保障すると同時に、暴力行為が生じた場合は学校内であっても警察に依頼して市街地と同様の処置を行うのが望ましい。
 「有害情報等から子どもを守る」の「提案」は、表現の自由を規制する危険性のほうが大きい。テレビや映画の影響と子どもの暴力と犯罪との相関を説得的に実証する研究が存在するわけではない。「有害情報」は禁じれば禁じるほど魅惑的に作用して有害になるという逆説も考慮しておく必要がある。女性のヌードや暴力的な性描写が、子どもが出入りする書店の本や車中で読まれるスポーツ紙や週刊誌やテレビに氾濫する日本の状況は異常としか言いようがないが、その解決は女性と子どもの人権を擁護する課題として取り組まれるべきである。
 
(3)学校と大学の解体
 
 「一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する」という「提案」は、誰もが賛同する心地よいスローガンで表現されているが、「一七の提案」の中でもっとも危険な内容をはらむ提言の一つである。たとえば「少人数教育」の提言はその一つである。「少人数教育」ならばいいではないかと思われるだろうが、この提言は四〇人学級の解消を意味しているわけでない。事実、文部科学省は、四〇人という学級定員数を改善する意志はないと繰り返し明言している。では「少人数教育」とは何なのか。
 「少人数教育」については、教育改革国民会議の「報告」の前に文部省(文部科学省)が受け皿を準備しており、小学校では算数と理科、中学校では英語と数学と理科で二〇人の集団を指導する方法を提起している。文部科学省が提唱するのは、専任教師の定員のポストで非常勤講師を雇用する方式の導入である。定員ポストを使って非常勤講師を採用すれば、一人のポストの予算で三人から五人程度の非常勤講師を雇用することができる。この措置によって、小学校も中学校も高校も、特定の教科に限って「少人数教育」が可能になるのである。
 この措置については隠れた背景が二つある。一つは退職校長の利権である。あまり知られていないが、現在、ほとんどの県で退職校長は公共施設等において再任用の特権を得ている。しかし、来年度から導入される情報公開と地方自治体の財政難によって、この退職校長の再任用の特権は脅かされている。そこで退職校長の再任用の期待を受けて準備されたのが、この定員ポストで非常勤講師を採用する方式であった。もちろん、定員ポストをどう活用するかは各県の教育委員会に委ねられており、必ずしも退職校長の再任用として利用されるわけではない。しかし、教師の平均年齢が高齢化する中で一人でも多くの若い教師を採用する必要があるにもかかわらず、定員ポストを非常勤講師に当てる措置は、たとえ退職校長の再任用に利用されなくとも好ましいことではない。
 もう一つの背景はもっと危険である。定員ポストによる非常勤講師の採用は、将来の学校と教師のリストラの準備となる。定員の教師の生首は切れないが、非常勤講師に活用された定員ポストならば容易にリストラが可能である。この危惧は杞憂ではない。一九九五年に経済同友会が公立学校の機能を三分の一に縮小する「合校論」を提唱して以来、「公教育の民営化」は新自由主義の教育改革を標榜する人々の一貫した改革構想である。昨年の一月に公表された小渕首相の私的諮問機関の「二一世紀日本の構想」懇談会の「報告」においても、「義務教育三日制」という過激な「公教育の民営化」構想が打ち出されていた。「少人数教育」という美名の裏側に危険なリストラが準備されていることを見過ごしてはならない。
 そもそも学校を非常勤講師で埋め尽くす政策は、決して支持できるものではない。すでに文部省は企業のリストラ対策として、全国の小学校と中学校に一校あたり三人もの教員免許を持たない企業のリストラ社員を講師として引き受けている。これに加えて「少人数教育」を非常勤講師で実現するとなると、学校は、教師の半数近くが非常勤講師で占められる状況になるだろう。たとえ「少人数教育」が実現しなくとも、定員ポストは若い教師の新規採用にあてるほうが、教育の水準を維持するためにも、公教育の将来を擁護するためにも重要であることを銘記すべきである。
 この「提案」のもう一つの危険性は「中高一貫教育校が全体の半分ぐらいになるよう、思い切った支援策を講ずる」という提言にある。教育改革国民会議において、中高一貫教育の拡大は、一八歳まで二度も受験を経験する状況を克服し、私立の中高一貫校のように「ゆとり」のある教育を実現しようという趣旨で提案されていた。学校制度の現状に疎い人が、そう発想したとしても理解できないわけではない。しかし、中高一貫教育校を中学校や高校の半分に導入することは、現行の高校の序列に応じて中学校を序列化し、教育機会の差別的な構造を義務教育段階まで下ろしてしまう結果を導く。中高一貫教育を導入するとすれば、高校受験を全廃した上ですべての中学校と高校を接続する制度へと移行しない限り、高校の序列化された構造に中学校を巻き込み、学校格差と地域格差を一挙に拡大する作用をはたしてしまう。
 この数年、文部省(文部科学省)は、中高一貫教育を担う中等教育学校の選択的導入を中心的政策の一つとして推進してきた。しかし、莫大な予算と時間を都道府県の教育委員会による立案と設置に費やしてきたにもかかわらず、いまだに公立の中等教育学校は宮崎県に一校存在するのみである。序列化され差別化された中学校の設立を、どの地域の住民も望んではいないのである。その反対を押して「提言」が述べるように、中学校と高校の半数を中等教育学校に改編するならば、学校教育における民主主義と平等の原則は根こそぎ崩されてしまうだろうし、地域の文化格差は著しく拡大してしまうだろう。教育改革国民会議の委員の中で、この点について正確でリアルな認識を持っていたのは教育学者の藤田英典だけであり、藤田は再三反対の意向を表明し危険性を指摘したにもかかわらず、ほとんど議論されることもなく「報告」に盛り込まれ提案されている。
 「記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する」という「提案」も、現実的な機能を考慮しない提言である。「報告」は、大学入試において「合格ラインに近接する一定の割合の受験生を暫定的に入学させ、一年間の勉学の成果によって改めて合否を判定し、定員まで学生数を減らす方式」を提言している。この「暫定入学制度」は、要するに補欠として一年間を過ごす方式である。「学生に挑戦の機会を与える」と記されているが、むしろ入学後一年で突然入学を取り消される学生はたまったものではない。
 「暫定入学制度」にせよ、一つ前の「提案」で提唱されている「飛び入学」や一つ後の「提案」(「大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する」)で示されている「大学院へは優秀な学生が学部の三年修了から進学する」制度や「修士号は最短で一年、博士号は三年で取得」する制度にせよ、それらの制度が現実にどう機能するかについて認識しておく必要がある。教育改革国民会議は、エリート教育を推進することを期待しているが、これらの制度が別の作用をはたすことは明瞭である。一口に「大学」と言っても、六百近い四年制大学と六百近い短大が存在している。「暫定入学制度」や「飛び入学制度」や「学部の三年修了」の制度や大学院の期間短縮の制度を導入するのは、どのような大学だろうか。もっとも歓迎するのは、トップレベルの大学ではなく、受験生の募集が困難な大学や経営が困難な大学であるというのが、もっとも現実的なシナリオである。したがって、これらの制度はエリート教育に貢献するどころか、大学教育や大学院教育の質を低下させる危険がある。ちなみに、トップレベルの大学が「飛び入学」や「学部の三年修了」や大学院の年限短縮などを導入する可能性は少ない。今日の学問は高度化し複合化しており、いわゆる「一芸に秀でた能力」の選抜や「飛び入学」や「学部の三年修了」では、到底、最先端で独創的な研究を推進するエリートを、養成することはできない。スペシャリストとしてエリート教育を行う時代は終わっている。総合的な教養教育の充実がエリート教育の基盤として重視されるべきなのである。
 「職業観、勤労観を育む教育を推進する」という「提案」は、その前提の事実認識が誤っている。「報告」は、「定職に就かない者や就職してもすぐに辞めてしまう者の増加」の原因を「若年層における職業観、勤労観の希薄化」と「仕事に対する職業人としての責任感、使命感の欠如」に求めている。しかし、この認識は本末転倒であり、子どもと若者が直面している最大の危機についてまったく理解していない。経済のグローバリズムとポスト産業主義社会における若年労働市場の解体である。一九九三年に一六四万人であった高卒求人数は一九九九年には三七万人にまで激減している。わずか七年間に八割の若年労働市場が消滅したのである。若者たちが渇望しているのは「職業観、勤労観」のお説教ではなく、社会に参加できる就労の機会と学びの機会の保障であり、何度挫折しても何度も挑戦できる未来への希望である。
 
(4)迷走する改革
 
 「報告」は、学校改革に関して「教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる」「地域の信頼に応える学校づくりを進める」「学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる」「授業や子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする」「新しいタイプの学校“コミュニティ・スクール”等の設置を促進する」という五つの「提案」を行っている。その特徴は、学校と教師に対する「外部評価」と「学校選択」によって競争を組織し、学校経営に「組織マネジメントの発想」を導入して「企業家精神」による「教育の活性化」をはかっている点にある。
 今日の学校が硬直化し、校長のリーダーシップが発揮できない状況にあるのは確かである。しかし、学校の硬直化は「組織マネジメントの発想」が欠落していることによって生じたものでもなければ、校長のリーダーシップが「企業家精神」によって発揮されるわけでもない。むしろ「提案」で提唱されている「外部評価」や「組織マネジメント」や「教頭複数制」は、学校の硬直化を助長するだけだろう。
 学校の硬直化の主な要因は、学校経営に浸透した官僚主義と企業モデルの経営による分業主義にある。今日の学校は通常、二〇人程度の教師の規模の学校であれば、三〇から五〇の校務分掌や委員会で運営されている。恐ろしく官僚主義化した組織と複雑に分業化した機構によって組織され運営されているのである。しかも、教育行政における官僚主義の浸透によって、およそ教師の四分の一が教室で授業を行っていない。中間管理職が拡張し、行政の事務と校内の管理業務に従事する教師が増えているのである。「提案」が提唱する「組織マネジメント」や「外部評価」や「教頭複数制」などは、ますます学校の機構を官僚主義化し教師の仕事を分業化し雑務を増大させて、学校を硬直化させるだけである。
 学校は、企業体になるのではなく、専門家の共同体になることによって、自律的な責任と創造的な実践を展開することができる。教師に対する評価は必要であるが、その評価は子どもや親や市民による「素人の評価」と校長や教育委員会による「行政の評価」に解消されるべきではない。この二つの評価に加えて、教師や教育学者による「専門家の評価」が尊重されなければならない。「専門家の評価」を中核にして「素人の評価」と「行政の評価」がそれに付加されるとき、学校と教師の評価は、学校と教師の創造性と自律性を高める効果を発揮することができる。「報告」は、教師を専門家として尊重し、学校を専門家の共同体として承認する見方を欠落させている。
 「報告」が提唱している「学校選択」と「コミュニティ・スクール」は、教育の公共性を私事化し、公教育制度を内側から解体させる危険がある。「コミュニティ・スクール」は、「地域独自のニーズに基づき、地域が運営に参画する新しいタイプの公立学校」と規定されているが、その方式はアメリカで実施されているチャーター・スクールと言ってよい。チャーター・スクールは、公費によって運営される私立学校であり、「報告」が述べているように「有志による提案を市町村が審査して学校を設立する」方式を意味している。公費で設立された事実上の私立学校をいくら設置しようとも、教育の公共空間の私事化を促進するだけで、公立学校全体の改革を促進することにはならない。むしろ、地域の教育格差や学校の格差を拡大する結果をもたらすだけである。学校教育に企業経営の方式と市場競争の原理を導入することは、教育の公共性と民主主義を破壊し、学校現場の混乱を助長するだけだろう。一人ひとりの教師の創造性と個性、専門性と自律性を尊重して、子どもと教師と親と市民が学びの連帯を築きあげる学校改革を粘り強く展開する必要がある。
 以上のように、教育改革国民会議の「報告」は、あらゆるところでボタンを掛け違えている。その最たるものが「新しい時代にふさわしい教育基本法を」の「提案」であろう。教育改革国民会議の議事録を読んでも、教育基本法を改正する必要性について何一つ説得的な根拠は見出せない。また、何をどう改正すべきかについて、教育改革国民会議は何一つ合意を形成しているわけでもない。
 委員の一人である梶田叡一は、教育基本法の改正を「敗戦ショック」から立ち直る「ショック療法」と述べている。なるほど、高齢者の一部には、今なお「敗戦ショック」から立ち直る「ショック療法」が必要なのかも知れない。しかし、高齢者の自己満足的な癒しのために、日本の将来を決定する基本政策が決定されるとしたら、それほど愚かなことはない。「敗戦ショック」からの「ショック療法」など、未来を探りながら生きている子どもや若者には関係のない事柄である。復古主義の亡霊にとりつかれて迷走する人々に、未来を生きる子どもや若者を委ねてはならない。
◇佐藤 学(さとう まなぶ)
1951年生まれ。
東京教育大学卒業。東京大学大学院修了。
三重大学助教授、東京大学教育学部助教授を経て、現在東京大学大学院教育学研究科教授。


 
 
 
 
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