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1995/08/07 産経新聞夕刊
【教育直言】河上亮一 集団学習のメリット
 
 新入生の学力低下がはげしい。国語の教科書が満足に読めない生徒、漢字はおろかひらがなもきちんと書けない生徒。くりあがりの計算ができない生徒、九九の暗記が不十分な生徒……基礎学力の低下は驚くばかりである。
 小学校では新しい教育課程が実施されて6年。新入生は教育改革の申し子と言っていい。「新学力観」では、生徒の興味や関心を最大限に尊重することが強調され、教師は「教える」立場から「援助者」への変身を迫られた。おしつけは否定され、生徒がやる気をおこすまでじっくり待つことがよしとされた。「つめこみ教育」などもっての他というわけである。
 新入生の学力の低下が、このような「新学力観」による学校の改革とどう関係するのかまだハッキリしない。しかし、強制なしに自分から進んで勉強しようという能力のある生徒はごく少数である、という現実から出発しないといけないのではないか。
 さて、教育改革では、生徒個々の能力に応じた学習が強調されている。コンピューターを使った個人学習はその最先端と言える。しかしこのような個人学習に耐えられる生徒は全体の5%ぐらいではないか。あとの大多数は、一人ではじっくり課題にとりくむなどとても無理である。具体的なA先生が教えるということ、さらには、40人の生徒といっしょに学ぶという中で初めて学習が成立するのである。やる気のない生徒も、他の生徒が授業に参加しているからがまんすることができるし、集団の中での教えあいは、教師の力をこえることが多い。そして、クラス集団を前提とした授業は、クラスの生活や行事の中で生かされる可能性がでてくる。
 こうして生徒たちは、自分の能力が何のためにあるのかを知るチャンスがでてくるのである。一人でやっていたら、自分の能力は自分だけのためにあると思うのは自然である。個々の能力に応じた学習の強調がクラス集団を基礎とした一斉授業を否定するとすれば、問題は大きいと言わねばならない。
 学校が直面する問題に立ち向かうために、能力主義と自由主義の導入はどうしても必要なことである。しかしそれが、これまでの学校を全否定するところまで行ってしまうとすると元も子もなくなるのではないか。明治以降の日本の学校教育がはたしてきた役割を総括して、新しい社会の中でどんな学校が必要なのかを考えていかねばならない。
◇河上亮一(かわかみりょういち)
1943年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
埼玉県川越市立高階中学校教諭、同城南中学校教諭、同初雁中学校教諭、2004年退職。教育改革国民会議委員を歴任。


 
 
 
 
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