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2003年11月号 中央公論
学力低下論争・ゆとり教育・階層化
教育問題は民主主義の練習問題
 
対談
苅谷剛彦(かりやたけひこ)(東京大学大学院教育学研究科教授)
和田秀樹(わだひでき)(精神科医)
 
構成・解説 中井浩一(なかいこういち)(国語専門塾「鶏鳴学園」代表)
 
 昨年四月から、いよいよ三割削減の新学習指導要領と週五日制が実施された。しかしその直前に遠山敦子文部科学大臣は緊急アピール「学びのすすめ」を出した。「確かな学力」「学力向上」が強くうたわれ、もはや「ゆとり」の言葉は見られない。
 この文科省の政策転換に大きな影響を与えたのが、この四年間ほどの「学力低下論争」である。攻める「学力低下」論者と守りの文科省。本対談の苅谷と和田は、「学力低下」論者を代表する論客。
 論争は、西村和雄(京大)たち日本数学学会のグループによる、大学生の「学力低下」のデータ提示からはじまった。「ゆとり」教育の失策がその原因だという。そこに「受験界の神様」和田秀樹が参戦した。
 苅谷剛彦は「ゆとり教育」が階層間の格差を拡大する可能性を指摘する。文科省が学力の実態調査を行わなかったこと、人・物・金などの具体的な条件整備を議論していないことなどを批判する。
 「学力低下」論者を迎え撃ったのは、業者テストを追放して有名になった「ミスター偏差値」寺脇研(当時は文部省政策課長)。彼の「学習指導要領はミニマム(最低線)」との発言は教育現場を騒然とさせた。
 論争は二〇〇〇年には大きな盛り上がりを迎え、文科省は守勢に回るようになった。この論争は、たんなる教育論争ではなく、時代の転換点で行われた、「時代を問う」ものだったようだ。広範な問題がそこで議論された。
 首都圏などでは、公立と私学の対立が深まった。文科省と首相官邸や他省庁との熾烈な綱引きもあったようだ。一方で地方分権の流れが明確になった。文科省の全国一律の画一的教育システムは変わりつつある。愛知県犬山市のように、教育課程編成権を行使するところも出てきた。東京都品川区では小中で「学校選択制」を実施。学区の自由化や少人数学級など公教育のさまざまな規制緩和が全国で進んでいる。
 大学改革では「遠山プラン」が発表され、再編統合、国立大の法人化、「トップ三〇」(後に「二一世紀COEプログラム」)が行われている。(中井浩一)
 
教育論争を振り返る
 
和田 この四年を振り返ると、教育に関しては、きちんとした論争が湧き起こって、日本を挙げて議論されたというふうに思います。僕は並行して医療の問題も追いかけていて、高齢社会を迎えるにあたり、大学医療から地域医療型に変えていかなければ国はもたない、と主張してきているのですが、こちらは盛り上がりに欠けます。
 それと比べますと、教育の問題が非常に盛り上がったということに、とても驚きました。
 また、苅谷さんの影響が大きいと思うのは、いろんなことを考えるようになったことです。階層分化の問題や、社会学的なバックグラウンドを考えなくてはいけないということを、改めて認識させられました。
 僕も、苅谷さんの書かれるところの「下の層」に逆転をしてもらおうと思って書いた受験指南書が、買ってくれる層が恐らく「上の層」なので、よけい差を広げるという・・・。
 
苅谷 皮肉な現象になる。(笑)
 
和田 その皮肉な現象が起こるということも含めて、次の段階で考えなくてはならないですね。論争が盛り上がっているほうがいいなと思うのは、相手からのレスポンスがあったり、援軍が現れると、自分の考え方が変わってくることですね。医療の問題は盛り上がらないおかげで、僕の言ってることが五年前と、ほとんど同じなんです。
 苅谷さんの考えには、僕は大体賛成です。しかし、ではどうしたらいいのかという手の内を見せてくれませんよね。よりましな不平等論(注1)を唱えておられるでしょう。でも、そのためには、どうすればいいんだということが、わからない。
 
注1―苅谷は、階層化や不平等の進展自体は避けられないと考えている。問題は、その「不平等」を納得して受け入れられるような「よりましな不平等」のルールづくりだとする。苅谷著『なぜ教育論争は不毛なのか』(中公新書ラクレ)参照
 
苅谷 みんなそれを聞きたがる(笑)。僕は、今回の論争が盛り上がったひとつの理由としては、現象として起きていることが問題になっただけでなくて、政策の選択という問題が絡んでいたからだと考えています。つまり、ある意味で今、日本の社会自体がいろいろな場面で政策的なチョイスを迫られている。
 その例として、学習指導要領の改訂が象徴的ですよね。われわれがどういうプロセスで選び取ったのかということが不透明なまま、選択の結果として、もう決まったこととして出てきました。一九九八年ですね。
 僕が最初の頃に言っていたのは、階層の問題と、データ不在論ですよね。つまり、政策の論拠、根拠は何なのかということを、しつこく言っていた。何を根拠にしてその選択をしたことになっているのか、と。
 そのときに、今の「よりましな」というところなんだけれども、これは僕は答えがないと思っているんです。本当にね。ただ、階層化という論点を持たずに政策論争を行ったならば、論争自体がどこまできちんと深まったかということは疑問だと思っています。
 つまり、理想論や「べき」論に傾きがちな教育学的な教育改革論をやっていても、社会の問題に繋がってこない。だから、盛り上がりに欠けたと思うんですよ。その意味で、階層というのは今の時代状況ではわかりやすい論点だと思う。その視点を持つことによって、公立学校の役割は何か、義務教育としてやるべきことは何なのか、という問題が見えてくる。
 結果的に、もっとお金をつけようという動きも起こっているし、少人数学級の動きが加速したのだって、こういう論争があったからです。それから、指導要領の改訂がまたありそうだけれども、上限規定をやめるというように教科書の作り方が変わる可能性も出てきた。
 こうしたことは、最初から僕の頭の中にあったわけではない。議論を通じて、みんなで決めていけばいいことであってね。
 
和田 しかし、最終的には、地方分権をして、いろんな試みをしてみて、結果的にいいところも悪いところも出てくるでしょう。そのうえで、基本的にはアメリカの流れのように、いいところをまねするということに、たぶんなるでしょうね。
 
苅谷 僕はそれしかないと思っています。ただそのときに、ふたつ問題がある。ひとつの問題は、分権化をどの単位でやるのかということ。県レベルか、市区町村レベルか。それから、もうひとつの問題は、国という単位で教育政策を決定するときに、どこまで一般の国民の意思や、選択が係わってくるか。国レベルでは民主主義的なプロセスが、入ってきにくい。だけど、市区町村まで降りてくると、市民が係われるんですよね。市長選や区長選がありますからね。
 
和田 おっしゃるとおりで、いちばん大事なポイントというのは、分権化のテストケースにしうることだと思っているんです。
 介護保険の保険者は市区町村になったのに、福祉や医療ではフライングするところが現れませんでしたが、教育のほうがフライングするところが多いですよね。品川区がいきなり学校選択制を実施したり・・・。政策的にはとてもおもしろいと思います。
 
苅谷 ですから、今回の論争は、一見学力や教育という狭いところの論争に見えるけれども、そうではなく、これは将来の日本社会のチョイスに係わります。どういう未来の社会を選ぶのかということに対する練習問題、応用問題のひとつだと考えるとよいと思っているんです。
 
選択と競争と
 
和田 確かに世間で言われているように、僕は競争というものの力に幻想を持っていますからね。受験競争をしていた頃のほうが、学力も総じて高かったと思うのです。ただ、競争に金がどのぐらい絡むかということが問題だと思っています。
 たとえばアメリカでは公教育であっても、税収が多い金持ちの住む地域というのは、いい教育を受けているわけですね。日本でも、どちらかというと金持ちは塾に行かせて、それから中高一貫教育を受けて、ということになっている。
 しかし、教育の場合は社会でのスタートラインを規定するものだから、競争するのはいいんだけれども、誰もが参加できるようにしなければいけないんじゃないかな。
 
苅谷 市場化とか、競争という話をするときには、個人間の競争と学校間や地域間の競争の話を区別するべきだと思うんです。
 教育というものが、個人間の競争を伴っていることは否定しにくい。生まれた家庭や、親から受け継いだ財産によって直接職業が決まったりするよりは、本人の能力や業績によって決まったほうがいいとも思います。
 受験競争が悪いという見方はずっとあるけれども、じゃあ他の競争でその地位を決めろといっても、他にはなかなかない。そう考えると、個人間の競争はある程度合理性を持っている。
 次に学校間の競争という話が、品川区の例を挙げたりして出てきますが、僕は、これもすぐには否定しないんです。そこから何が生まれてくるかということや、実際それがどういう成果を生み出すのかということについて評価しながら考えたい。
 もしも、学校選択制が点取り争いだけの激しい競争になって、教員たちが辛くて逃げ出すようになったら、いくらなんでも住民がストップをかけますよ。選挙で区長が代われば、教育長も代わるのですから。これは原則ですよ。
 それに、仮に子どもが集まらない学校が出てきたら、そこにどうテコ入れするか、ということが重要なんです。課題を大きく抱えたところに他の学校以上にテコ入れすることも選択制に含めて考える。
 しかしいずれにせよ、それぞれの学校の質が高くなるのであれば、それによって利益を得るのは子どもたちになる。そういう競争にすればいい。
 
和田 しかしこういう問題では、地域間の違いを考える必要がありますね。
 
苅谷 そうです。たとえば、品川区の場合は、東京都内ですから、厳然と私学という存在があるわけです。私立の中高一貫校を抜きにして、公立だけの話をするならば、競争原理の悪い面は云々・・・という話ができますが、一方で、どの公立学校を選ぶかという選択肢の前に、すでに私学という選択肢を持っている一群の人たちが二十何パーセントいるわけです。
 
和田 品川がなぜああいうことをやらざるをえなかったかといえば、私学が圧倒的なシェアを占めていて、公立側に危機感があったからですよね。
 ところが、逆に私学というチョイスがない地域で、選択ができないというのは、よく考えてみたら、もっとひどいわけです。つまり、品川区では、私学という選択肢を持っているにもかかわらず、公教育まで選択ができると。ところが、私学という選択肢を持たないところで、公教育も選択ができない地域がほとんどである、と。
 競争の怖いところは、駄目なところが競争の仕方を知らないものだから、よけい駄目になってしまうということではないかと思うんですよね。
 
苅谷 選択のための各学校の情報が公開されても、その情報を読み取ったり、処理する能力に、家庭環境の違いだとか、親の側のいろんな階層的な影響が出るから、そこのところをどうやって行政がフォローするかということが、大事だと思います。
 
和田 それに、今の親たちは、彼らの一世代前とか二世代前の親たちと比べると、教育に対する思い入れや期待感など、いろいろなものが違ってきていますし、親そのものも、知的階層の分化が進んでいますから、情報の読み方に関して差があると思うんです。
 しかしながら、みんなが馬鹿になっているから、情報なんて公開しなくていいんだというふうになると、これはもっと危ないわけです。情報の読み方を親に教育するようなことをしたうえで、情報公開をしないといけない。そういう時代がきているのではないでしょうか。
 
苅谷 それから、選択と競争とを分けて考える必要もありますね。チョイスの多様性というのは、結果として競争を引き起こす可能性もあるけれど、もともとは選択肢を増やせ、つまり違いを出せという政策です。
 だんだん落ち着いてくれば、厳しい競争状態ではなくなってくる可能性もある。時間が経てば、特色というものが表に出てくるようになるわけです。
 たとえば、勉強の得意でない子向けの教育を熱心にやる学校という特色を出す。うちは「ボトムアップ型」、つまり、学力の低い子どもをいかに高めてあげるかという点に力を入れます、と。塾に頼らなくても、うちに来れば基礎的な教科の力がしっかりつけられますよということが特色になって、そこに人が集まるということだって、ありえるわけですよ。行政がそれを十分支援してあげることも必要です。
 こうやって進めていくと、だんだん、たとえば東京の二十三区で、ここはうまくやって、ここはやっていないというのが、わかってきますからね。そうすると、「この区の教育委員会は何をやっているんだ」という話になってきますよね。
 
和田 そういう意味で、情報公開といったときに、教育というのは結果で評価すべきものだから必ず追跡調査をやらなくてはいけないですね。
 
苅谷 今おっしゃった「実証」がすごく大事です。たとえば品川区なら品川区で、どういう制度がいいのかということについては、イメージで語るのではなく、実際それが何を生み出して、どういう成果をもたらしているのかという情報が提供されないかぎりは、選択できないわけですよね。
 
和田 おっしゃるとおりです。「教育は評価ができない」という議論がありますよね。その教育を受けた子が大人になる十年後、二十年後まで待たないと、評価ができないんだからという意見が一方ではありますが、どうお考えですか。
 
苅谷 確かに、最終的には子どもが大人になった時点の評価が、教育では大事なのですが、その前に、たとえば、教師がどちらの仕組みのほうが働きやすいか、という問題もありますよね。どちらのほうが、思い切った実践ができるか、とか。そういう評価は今だってできますよね。
 たとえば愛知県犬山市の教育委員会。そこでは学校の教師たちに、補助教材づくりの一環として指導要領を研究させて、自分たちでカリキュラム編成をさせています。
 理科と算数・数学から始まって、国語でもやっている。それによって、教師たちは考える。今までは全部与えられて、「こうやりなさい。この教科書どおりにやりなさい」と言われていたのが、今度はどうも違うらしい、うちの教育長は、文部省にも県にもさからって、自分たちで作らせてくれる・・・ということで、すごくやる気を持つわけです。
 
和田 そうでしょうね。
 
苅谷 そうなると、隣の市と比べてどちらがいいのかは明らかでしょう。住民たちのチョイスのために、その情報が与えられればですよ。
 
特区方式では変わらない
 
和田 特区については、どうでしょうか。
 
苅谷 特区の評価は難しいですね。まだ始まったばかりですから。何か風穴を開けようと、いろいろな取り組みをまずはやってみるという意味ではいいのかもしれませんが、本当は特区に限らず、もっと自由に教育を編成できるほうがいいんですよね。
 同時に言っておくべきことは、国として、最低限のことを保証したうえでの話だ、ということです。
 それから、英語で教えるとかいう特殊なことはマスコミで取り上げられやすいんだけれども、本当はルーティンの部分、つまり教科の指導などの日常的な活動がいちばん重要なのです。
 
和田 僕もそこが大事だと思っています。総合学習にしても、まずテスト校でうまくいったかどうかということがよく言われます。でも、テスト校というのは、たとえば国立の附属の小学校だったりすると、教師のレベルが高い、マンパワーが多い、それから親が熱心な人が多い・・・。
 苅谷さんがおっしゃるみたいに、ルーティンの中でやっていかないとだめですよ。国立の附属でうまくいったことだから、これは全国でやって大丈夫なはずだ、と考えるのは危険です。
 
苅谷 イベント方式や特区方式などは何か目立つところだけ取り出して、「やってますよ」というときにはいいんだけれど、本当に全体を変えるということにはつながりませんよね。
 
財務省と経済産業省からの外圧
 
和田 意外に大事だと思うのは、たとえば財務省であれ経済産業省であれ、よその省が教育に関係してくることだと思うんです。医療に関して言いますと、今の厚生労働省と文部科学省だけでは改革は絶対に無理で、今後恐らく金がなくなってきて、財務省が出てくるという状態にならないかぎりは、変わらないと思っているんですよ。
 その点教育では、今回学力論争が盛り上がったおかげかもしれませんが、やっとよその省の人たちも、教育について考えるようになってくれた。特区の中に、教育も選ぼうということになっただけでも、画期的なことだと思うんです。
 
苅谷 財政が厳しいから、そういう意味ですごくリアルに議論するようになりましたよね。今は、子どもの数が減っていて、教師が高齢化してるから、子ども一人当たりの教育費というのは、ほうっておいても年々高くなっているんです。
 そのような状況ですから、財務当局からは、教育改革がめざす路線は本当に税金に見合う実現可能な政策なのかと問われる。これが、文部科学省がきちんと政策官庁として自立できる、政策立案能力を持つ機関に生まれ変わる機会になればいいと思います。
 
和田 外圧をかけなければ、日本の役人って動けないでしょう。基本的にセクショナリズムですからね。教育問題について、よそはつべこべ言うな、俺たちはプロなんだ、みたいなところが文科省の役人にはある。審議会でも、こんなにプロを集めているじゃないか、という話になりますよね。
 でもよく考えると、何度も問題にしてきたように、教育というのは結果で判断されるものですから、お前らが勝手な教育をしたら、こんな人間ができてきて困っているよというような働きかけがやはり必要なんですよ。
 
苅谷 今の政府のレシピを見ていると、基本的な方針やビジョンがあるようには思えません。独立法人化がいちばん典型的ですが、付け焼き刃的に反応したときには、むしろしばらくの間はマイナスのほうが大きくなりますよ。
 今回も、経済産業省のような動きは政策を変える力にはなったと思うのですが、何を原則としているかがわからない。だからつまみ食い的に、あるところを悪しきエリート教育の方向へスーッと持っていかれたりする。その流れが、むしろ出てきているような気がしますね。
 
和田 僕は階層化は絶対によくないと思っている立場ですが、経産省は、階層化に関しては、むしろ是認の方向ですよね。少なくとも産業界、経済界というのは、階層化しないと日本というのは生き残っていけないんだ、ということを言っているわけだから。
 教育という問題を考えるときに、われわれに課されている選択は、日本をどんな国にしていくのか、ということだと思います。欧米型の階層分化した社会なのか、これまでの日本型社会なのか、本当はその選択のもとで教育政策が出てこないといけないという気がします。
 
苅谷 それが教育については、まともに議論されてなかったんですね。いまだに「結果の平等論」が、運動会の手をつないでゴールする例でしか議論されないじゃないですか。実際には階層差は昔からあって、日本の教育は結果不平等(注2)ですよ。それなのに、教育の世界で平等論と言うと、運動会の例で、画一教育は結果の平等を強く推し進めすぎたせいだと言うけれど、あれは嘘っぱちですよね。
 
注2―東大の入学者の大半は、一部の私立中高一貫校出身者が占めており、その傾向は年々強まっている。ここからもうかがえることだが、富裕な階層が教育を通じて、その地位を再生産している側面がある。苅谷著「大衆教育社会のゆくえ」(中公新書)参照
 
大学改革の困難さ
 
和田 基本的に日本では、初等中等教育は外国よりはうまくいっていて、高等教育は非常に問題がある、と思っています。特に僕は医学部という、教育に不熱心な人たちが集まっているところにいましたからね。
 
苅谷 今回の論争で、どうして大学生の学力低下から、「ゆとり」教育批判という小中高の問題へ議論が移ったかというと、日本の初中教育は確かに優れているけれど、大学での教育はというと、それはもうお粗末極まりない。ですから、初中教育までがおかしくなったら危ないと思ったからなんですよ。
 僕は八○年代にアメリカで大学院生時代を送っていたのですが、ちょうど日米逆転の時代でしょう。日本では、日本の教育が受験教育だと悪く言われていた時代に、アメリカという外へ出れば、みんな褒めていたんです。
 和田さんもアメリカにいらっしゃってたから、たぶんそれが見えてたんだと思います。外からの目で見ているか、見ていないかで、つまりトータルに教育制度全体を、大学まで含めて見てるか、見てないかで、この議論に対する係わりが違ってくる。
 
和田 そういう危機感は強くありましたね。それにしても、今回もやはり大学教育を棚上げにして温存したまま、比較的よかった初等中等教育がこてんぱんにやられてしまう。根本的な改革をしようという動きが、あまり見られません。
 遠山プランをとってみても、たとえば「二一世紀COEプログラム」では結局教育の実績ではなく、論文の生産性などの研究実績に重きを置いているわけでしょう。
 
苅谷 そうした批判に対して、今年度から「特色ある教育支援プログラム」が用意されました。研究ではなく教育の分野で、いい試みをやっている大学にお金を出そうというものです。悪い試みではないと思いますが、あまり有効だとも思えない。なぜかと言うと、結局は教育の評価が非常に難しいからです。教育を評価する専門家がいないし、授業の評価というのは非常に難しいですよ。
 
和田 ですから財界に腹を括ってもらうしかないと思っているんですよ。つまり、東大よりいい大学を、財界に作ってもらうしかない。社長経験者だとか、それこそ政治家だとか、いろんな人間を教師として集めて、いい生徒も五百万、一千万の奨学金で集める。
 
苅谷 もうひとつのやり方は、大学入試より大学院入試の比重を大幅に増やす。そうして大学院の入試のところで、大学教育の評価ができるようにすること。
 たとえば、これから増えていくであろうロースクールとかビジネススクールなどで、きちんと大学教育の成果が見られるようなことをやって、そこにいい人材を送り込むことが大学のプレステージになれば、大学教育も変わりますよ。
 
和田 これもね、やっぱり競争しかないと思っているんですよね。研究者と教育者を分け、それぞれを別の基準で評価するとか・・・。
 
苅谷 大学院重点化ってありましたね。実際には中途半端でしたが大学院生の比重をもっと大きくして、学部の比重をすごく少なくする。研究者養成が目的の大学院教育だったら、多少先生の教え方が下手だって、一緒に研究しながら、研究者を育てていけばいいのですよ。
 
和田 そういうところが、もっともっと現れてこなきゃ駄目ですよね。
 
苅谷 はい。そして学部ではそれこそICUや東大の駒場キャンパスをモデルに一種のリベラルアーツ大学(注3)を増やしていく。
 たとえばですが、東大や京大が大学院特化大学になって、学部生をまったく採らないとか、それぐらい思い切ったことをやらなければ変わりませんよ。
 
注3―教養教育重視の大学。四年間、専門教育は行わず、リベラルアーツ(教養=基礎学術)教育を行う。アメリカではリベラルアーツ大学卒業後、大学院で専門課程を学ぶことが多い。
 
国立大学法人化の危険性
 
和田 僕は国立大学の法人化には賛成です。いわゆる公務員的なぬるま湯に大学がいることは、よくないと思っているんですよ。教授会でしか教授を選ばないというかたちだと、学校経営ができないじゃないですか。
 
苅谷 制度的には、法人化によって大学の執行部が経営方針を決められるようになります。ただし、今度は財政の問題が出てくるから、ある程度の学生数を受け入れないといけない、という問題が出てくるかもしれないですよね。
 それに、結局、先ほど出た画一教育とか、日本的平等主義が絡んでくるわけですよ。東大、京大だけ特化するのはけしからんとか。
 
和田 そうですね。多様化ができないのは、横並びでやろうということに、結局なってしまうからですよね。
 
苅谷 そこまで特化できるのであれば、税金を出す意味もあるんですよ。つまり、大学院特化大学は研究のためにあるのだ、と。そういうふうにすれば、国立のままでいいんです。法人格だけ与えて。
 ですが今の法人化では、変な意味の競争原理が入ってきて、学問領域間の競争を引き起こすんですよ。お金を持ってこられる学部や学問ほど、学内の発言力が強くなる。
 
和田 医学部の中にも、心臓の研究をしていたら教授になりやすいとか、心の問題なんてやっていても、教授には絶対になれない、みたいな露骨なところがあるわけですからね。
 そういうことは、危険です。研究や教育に対して、本当に何が必要なのかということを考えないかたちでの法人化というのは、危ない面がありますね。
 
苅谷 大学や学部などの機関としては評価されても、大学の先生って、個人にインセンティブとして還元されなければ動かないんですよ。だから、一部の人は熱心にやるけれど、全体は動かない。
 法人化もそうですが、こういう改革で何が問題かというと、有能で忙しい人が、さらに忙しくなって研究や教育ができなくなるということなんです。でも、この仕組みを変える仕組み自体がないんですよ、日本には。
 
和田 大学改革でいちばんものが言えないのは、内部の大学の教官ですからね。僕がたまたまフリーターだから発言できている部分というのが、すごくあると思うんですよ。僕だって、ひょっとしたら医学部にいて、大学助教授だったら、こんなに言いたいことを言えないかもしれない。
 しかし、日本は、大学の先生より偉い人がいない国になってしまっているから、審議会の委員も大学の先生ばかり。僕自身、評論家的な扱いは受けているけれども、審議会の委員になってくれと言われることは、絶対にないわけですよ。そのうえ、大学の先生は大学の先生が決めると法律で明示されている。
 そう考えると、大学改革なんて半永久的にできないだろうなって、思ってしまいますよね。
◇苅谷 剛彦(かりや たけひこ)
1955年生まれ。
東京大学教育学部卒業。米ノースウェスタン大学大学院修了。
東京大学教育学部助教授を経て現在、東京大学大学院教育学研究科教授。
◇和田 秀樹(わだ ひでき)
1960年生まれ。
東京大学医学部卒業。
東京大学医学部付属病院精神神経科助手を経て現在、一橋大学経済学部非常勤講師、東北大学医学部非常勤講師、川崎幸病院精神科顧問などを務めるかたわらマスコミにて積極的な言論活動を展開している。精神科医。


 
 
 
 
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