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2000/08/05 産経新聞朝刊
【正論】ノンフィクション作家 上坂冬子 思いつきの教育改革に異議あり
 
◆「共同」では教育効果なし
 小中学校で二週間ほど共同生活をしながら農作業や清掃活動につかせ、高校生は一カ月ほど介護の仕事を経験させたうえ、高校を卒業したらすべての国民に一年間ボランティア作業を義務づける教育改革案が出されたという。
 冗談じゃない。
 一億総ボランティアを目指すことが、どうして教育の基本につながるのであろうか。折しも東京都の調査として、都内の公立小学校の児童の間に「おしゃべり、暴れる。指示にしたがわず」、いわゆる学級崩壊の傾向が続いていると発表された(七・二八付読売)。
 何に向かってどう生きればよいか、その手がかりすらつかめていない子供たちが社会に飛び込んだ場合、ハタ迷惑な存在になりはしても本人たちにとって得るものなどあるはずがない。
 特に納得できないのは「共同」でという点である。「個」として方向のつかめていない子供を集団のまま社会に放り込むという、この投げやりな方針から何かを期待するのは無謀としか思えない。成人式すら集団で静粛に耐えられないからと、廃止に踏み切った地方自治体があるのはよく知られている通りだ。
 その昔、ある修養団体で会員に個人の資格で地域内の見知らぬ家庭を訪問させて、便所掃除をさせてもらってこいと義務づけたところがあった。もし奉仕活動による教育効果を狙うとするなら「共同」ではなく、あくまで「個」に役割を課した場合のみであろう。
 
◆未経験は足手まとい
 共同で農作業に従事すると聞いて私の年代で反射的に浮かぶのは、戦時中、女学校時代に農家の稲刈りや田植えの補助要員としてかり出されたときのことだ。男たちを戦地に送り出した農家は、文字通り猫の手も借りたい状況だったし、私たち少女は国家の一大事に参加しているという使命感にみちてもいた。もちろん食糧難時代に農家で出される握り飯も目当てだったことはいうまでもない。需要と供給がこれほどはっきりした中での奉仕活動だったにもかかわらず、結果として翌年は農家から“勤労奉仕”辞退の知らせがあった。
 要するに必要とされている場所では、未経験者は足手まといになって何の役にも立たなかったのである。もし、必要とされていない場所で共同作業に従事して教育効果を上げたいなら、受け入れ側に教育に対する余程の理解がなければなるまい。つまり、あえて未熟な奉仕活動を迎え入れるという“奉仕”の精神が要求される。いまの日本社会に、次世代の育成のために現場を提供し協力を惜しまない姿勢が整っているか。
 かつて、カンボジアがすさんでいたころ、心ある人々は老いも若きもボランティア活動と称して現地にかけつけた。だが、私が見たかぎり実際に成果を上げていたのは、国連から派遣されたプロ(実務を研修し、報酬を保証された人々)のみであった。満員の列車の窓から降りる難民に手をさしのべて、払いのけられた素人ボランティアもある。余計なお節介するな、そこをどいてくれという態度がありありと示されていた。ボランティアは、受け入れ側と参加する側に厳然たる信頼関係があって成り立つものであり、無定見に善意にすがった発想は多くの場合、互いを毒する。
 成人前に一年間の奉仕期間をもうけろというけれど、教育の基本はあくまで“個”の完成にあり、本末転倒の奉仕活動は徒労に終わるだろう。
 
◆屋上屋を架す行為だ
 教育改革の案として、一億総ボランティアの呼びかけは昨今の風潮として人目を引くかもしれない。しかし、私には自己を失った子供たちにとっても、それを迎え入れる社会にとっても、いまの段階で教育改革の本流に奉仕活動を導入することは、基盤整備を手ヌキして屋上屋を架す愚に思われる。「共同生活にもとづく奉仕活動」というのは、主体性を失った個人と社会にとって新たな混乱を招くのみだからだ。一つまちがえば両者に全体主義の亜流にも似た陶酔を抱かせるおそれすらある。
 高校を卒業するとき恩師が十八歳の私たちに与えた一言は、生きる指針として今も私の頭にこびりついて離れない。
 「諸君の前途に、どんな人生が待っているかわからないが、一人で幾日ほうり出されても退屈せず、こころ楽しく、機嫌よく暮らしていける自分であってほしい」
 他人への献身は、一人で耐えられる自分がつかめてからだ。逆は必ずしも真ならず、現状からみて他人への思いやりが自己を取り戻すきっかけになるというのは幻想というべきだ。
 幸か不幸か社会は少子化に向かっており、雑然としたバブル時代に育った現職の教師らのあとに、多少なりとも不況や就職難を体験した教師がつづいている。いま、条件として“個”を掘り下げる好機にさしかかりながら、論点をぼかし関心を分散させるような思いつきの教育改革案には、はっきりノーの意思表示をしておきたい。(かみさか ふゆこ)
◇上坂冬子(かみさか ふゆこ)
1930年生まれ。
ノンフィクション作家。


 
 
 
 
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