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1985年3月号 正論
新学校教育論 いま求められている学校とは
加藤 寛◎慶応義塾大学教授
 
一、教育の自由化とは
 
 自由という言葉に人々は多くの意義を含ませている。そこで、京都座会が「学校教育の自由化」を提言した時、様々の批判がこの「自由化」という言葉に集中したのはもっともなことである。
 しかしいまここで自由について、とくとくと論ずるつもりはないが、概念上の混乱を避けるために、その主旨だけは述べておかなければならない。「学校教育の自由化」という考え方について批判の多くは、大別して二つになる。
 第一は、「自由化」をするということは、力のあるものが常に優位に立ちエリート主義そのものにほかならないというものである。第二は、今の日本の教育は自由化したことによって混乱し荒廃したのであって、もっと厳しく統制すべきであるといった考え方である。
 批判の手紙の原文を掲げさせていただく。
 第一の意見
「まず全体として七つの提言は、先進国日本の教育の在り方を示したものとして大変結構ではありますが、何のための自由化か、あるいは自由化の目標が奈辺にあるのかということが欠如しているため、結局エリート主義となり、優秀な芸術家やタレント、果敢なベンチャー・ビジネスマンの輩出を狙いとしているように感受され、果ては一種の世紀末を招来しはせぬかと懸念されるのですが、いかがでしょう。一種の自然主義イデオロギーではないかと存ぜられるのです」(昭和5年京大卒、大学教授M氏)
 第二の意見
「みなさんは教育の中に競争の原理をもち込もうとお考えですが、これは子供にかえって悪影響を与えるだけでなく、管理を根本から大きく破壊しかねず、教育の場にあってはならない『混乱』と今以上の『荒廃』を招くものです」(職不詳、Y氏)
 この二つの意見は一見あい反するようにみえるが、実は自由を自由競争と解していることでは同根である。たしかに自由競争は自由の一側面ではあるが、それは誤解を招きやすい見方である。自由化すなわち自由競争。それは過当競争に導びかれ、弱肉強食の原理であると、私たちはいつも思いがちである。しかし自由は決してロビンソン・クルーソーのような孤島におけるものではなく、社会秩序によって存在し得るものである。自由とは法を無視することでもなければ、あらゆる倫理を否定してよいことでもない。自由は社会的概念としてそれに必要な社会的条件が整備されてはじめて存立し存続することができる。したがって自由は単純な自由放任ではない。自由の存立・存続のためには「法による支配」が不可欠であり、「人による支配」ではないということである。
 A・ファーガソンによれば、「公正で有効な政府の存在は、市民社会において自由の存立にとって不可欠である。政府がその成員を保護してくるだけの力をもち、同時にその政府が権力を乱用することを防ぐよう十分に制約されている度合に応じて、自由があるということができる」(Principle of Moral and political Science, 1792)
 このように自由という言葉を理解していただけば、自由化が誤解をひきおこすはずがないのである。
 第一の見解は、「何のための自由化か」という疑問を提起しているが、自由とは、個人の自発性と創造性を高めることであることはいうまでもない。批判者はそれがエリート主義になることを懸念しているようだが、すぐれた才能をひきだすこと自体は少しも悪いことではない。それこそが自由の意義である。問題はそのエリートへの道が、単一頂点思考でおこなわれるから弊害をひきおこすのであり、多様な価値観が広汎化している時代になればなるほど自由化がエリート主義につながる条件はなくなってくる。むしろ官民格差の存在が、官僚尊重の偏向を作りだしたり、勲章にランクをつけ政治家優位のムードを作りだすことが、多様化する価値観を、むりに単一化しようとする保守・反動的思考なのである。
 それ以上に大切なことは、自由放任的自由化は、エリートを養成するために非エリートを切り捨てていくという選抜的考え方をすることになるが、真の自由化は、多様な価値観を認めることに自由化の意義を考えるので、エリートと非エリートの選別ではなく、多様な分野にそれぞれエリートを作りだそうと考えるのであり、またエリートでなく非エリートになることも一つの価値観として評価しようというのである。このようなことが可能になるためには自由化を保証するための法が必要なのである。
 第二の見解は、自由化は混乱をひきおこすという誤解である。すでに私たちが自由について共通の理解をもつなら、自由は新しいルールを求めているのであって、古い強制から脱し新しい秩序作りをしていることが判るだろう。現在の荒廃が、新しい時代の変化についていくことのできない古いルールのためにおこっていることに気がつけば、自由化が荒廃を招くものではないということが明らかになろう。
 たとえばいま子供たちは、人生をいかに豊かなものにしていけるかと新しい目標を求めているのに、一つの価値観――いい学校に入って、将来安定した就職をといった――をおしつけられては反撥したくなるだけである。専修学校や放送大学のような自由のきく学校が人気の高いことからもそのことは明らかである。それは通信教育でも同じことであっていいのだが、一般に世間が通信教育を正規の学校と認めない風潮のあるために、つまり新しい時代に対応しない古い意職があるため、正系とか傍系とか差別することが不満・混乱を生む原因になる。そんな差別をやめようというのが自由化であり、それは混乱や荒廃を招くどころか、むしろ多様な道があることを是認し安定化することである。すべての道がローマに通じていれば、誰もあわてて混乱する筈がない。一つの道しかないと思うから混乱し、だめなら荒廃してしまうということである。
 この第二の見解に属するものとして、私学はもうけ主義だから学校設立を自由化したら、どんなことになるか判らない、むしろ設置基準を厳しくせよという意見がある。それと類似のものとして、教師が立派な人ばかりならいいが、教育内容を自由化したら何教えるか判らないではないかという。
 前者についてはたしかにそういう例がしばしば新聞紙上をにぎわすことはあるが、しかしそれは自由化をしたら増えるというものではないし、自由化しなければうまくいくということでもない。むしろ自由化すれば学ぶ側の選択はより厳しい目をもつトラになるであろうし、いかなる私企業も社会的責任をもたずに永続することはできず、学生を集めることもできなくなり、子供の数の多い時ならともかく減少する時代にはそうした悪徳企業は成り立たなくなる。自由化とは設立だけでなく廃校も自由になるということである。
 後者の場合は、よりいっそう自由化の必要性を証明することになる。かつて京都で偏向教育が問題になった時、教育委員会が寺院を借りて偏向教育の学校と対立して、子供の選択にまかせた結果、結局、偏向教育派は敗れたという例がある。自由化されていればそうしたことはもっと自由にやることができるから、よい教育内容が選ばれることにならざるを得ないのである。
 
二、義務教育も
 
 さて、このことと関係して、次のような批判がでてくるのは当然かもしれない。
 自由化ということが、エリート教育という弱肉強食でないことは判ったとしても、それを高等教育ならまだしも、義務教育の段階でやることがはたして正しいのであろうか。そもそも義務教育は最低限の教育なのだから公教育が当然であり、したがって無償の原則で機会均等をはかるべきなのに、自由化をすれば経済差別をもうけることであり、公教育の否定ではないかという。この立場からすれば、「憲法の『義務教育無償』の原則はいかなる場合においても破るべきではないと思われます。現在この原則を無視して、教育基本法は無償とは国公立校に限られるとしていますが、これには疑問が残ります。しかも基本法第二条で『教育の機会均等』をうたっているのですから、授業料を徴収する義務教育の存在は矛盾しているといわざるを得ません。従って『教育に志ある者はだれでも自由に学校を設立できる』ようにするとしても、義務教育の場では、設置者は受益者に負担を負わすべきではないと思うのです。」(PTA関係M氏)
 ここで憲法論議はさておいて、「普通教育を受けさせる義務」(第二十六条)はたしかにそうであるが、それは学校という供給形態でなくても、あるいは私的供給であってもよいはずである。しばしば、公共的な需要だから公共的な供給でなければならないという考え方が一般的だが、公教育は決して公的供給である必要はないし、公的供給として無償であっても需要側がそれを拒否あるいは権利放棄して私的供給に頼った場合、そのコストを負担するのは当然のことである。
 さらに義務教育という概念はどの範囲までを指すのか必ずしも定まっていない。「教育を受けさせる義務」が「義務教育」と同義に使われることに混乱が生ずる。アメリカの例をみても、州ごとに教育年限は多種多様であり、日本のように六・三制ということには決まっていない。それどころか、六・三制をアメリカからの押しつけという伝説が流布されていたが、最近の国立教育研究所の調査によっても、六・三制はむしろ日本側からアメリカに適合させた(あるいは表現はよくないが迎合した)とさえみられるという。
 したがって義務年限を自由化させることは少しも不当なことではないし、義務制によってかえって学校教育にしばりつけておくことこそが教育を荒廃させてしまっているのだとすれば、自由化は教育を受けさせる義務を学ぶ側から刺激することになるだろう。
 つまり自由化は、子供たちの競争心をあおるのではなく、子供たちが行きたい学校に行く自由を認めよということである。いじめっ子がいるから登校拒否もでてこよう。いやな先生がいるから学校を休みたいという経験は誰でももっているはずだし、もちろんそれに対応して生きていく努力をするのも社会訓練の一つであることはまちがいない。あるいは学区制があるから地域内のつながりができるというのも大切なことである。しかしそれは正義を守る学校の秩序がたもたれ、暴力から保護されるという条件があってこそのことであり、それがないところで嫌な学校や先生でも義務教育だから拒否できないというのでは、子供は登校拒否しかできないことになる。
 別言すれば、どんな学校秩序であっても、どんないいかげんな教師であろうと、絶対に逃げていく子供がいない以上、それで成りたつことになる。もし自由化されて、いやな学校から子供が逃げていくとなったら、学校も教師もいいかげんなことはしていられなくなる。現実に、子供たちにしても遠い学校に通うことは大変だし、自由化されたからといってどんどん転校するわけでもない。しかし自由化の大切な意味は、子供たちに選ぶ自由が認められることによって、学校・教師側に安易な気持ちがなくなるということなのである。それは大学であろうと小学校であろうと同じことであって、学ぶ側に選ぶ自由があれば教える側は選ばれているし、また選ばれなければならないという意欲をもつようになる。
 それは製品の選択でも同じことであって、選択されねばならないから、各メーカーとも懸命の努力をするし、だからといって一社に集中することもない。それはすべての会社が努力しなければならないから品質が向上し、結局、選択も分散され安定化するものなのである。
 
三、教える側の活性化
 
 そこで京都座会は、教える側の質的向上こそ学校の荒廃を救う第一の条件であると考えた。そのためにどうすればいいかという答えが、自由化なのである。つまり自由化は、子供たちの競争心をあおるのではない。教師たちに教えること、教え方の競争をしてもらおうということである。自由化というと、直ちに自由競争、それは子供たちの競争、エリート心を強くさせるから好ましくないという反論がでてくるが、これは誤解であると同時に、こうした反論をいう人たちの中に、すべて平等に差をつけないことが教育でありそれがいたわりのやさしい心をはぐくみ、連帯を作ることだという考え方を潜ませている場合が多い。
 これは自由競争という意味が判っていないばかりでなく、自由競争について語る資格もない。人類の創造力を否定する考え方である。といっても私は人類の創造力を完全無欠のものだと思っているわけではない。人類の創造力が今日に至るまでの諸々の困難を切り拓いてきたことを讃えながら、それが人類の破滅や混乱に導くことのないよう常に創造力のもたらす弊害に留意すべきものだと考えており、教育はそうした心を育むことだといいたい。
 しかし、創造力そのものを最初から否定する教育は誤りで、創造力を発揮できるような条件を常に整備していくことが教育の第一歩であり、その反面をいつも考えていくことに心の豊かさがある。そこでたとえば運動会で、徒競走をやらせることは子供たちに競争心を植えつけることになるから反対だといった学校があったときくが、これほど誤った考え方はない。運動会には多様な種目がある。それぞれ自分が好きな、あるいは得意な種目に参加すればいい。たとえそこで差がつけられたとて、自ら選んだことで負ければそれでいいというのが教育である。それを全員徒競走に参加することを義務とするから走ることの嫌いな子供が可哀想になる。そこで差をつけないようにしようとする、誤った平等主義教育が生まれてしまうのである。差のつくことが努力の心を生む励ましであり、競争のないところに進歩はない。しかもその競争への参加は、多様な種目が用意され、自分の最も好む種目へ参加することが平等なのであり、機会の均等こそ教育であり結果の平等は向上心を損なうものに他ならない。
 ただもちろん競争は努力の結果によって差がつくのだから、それはルール違反によって差をつけてはならない。それが公正な競争である。時には一回限りの競争で失敗する不運もある。そんな場合でも再参加できる敗者復活のチャンスで努力の結果を発揮できる保証があれば、機会の平等はより高まることになる。このように、機会の平等、そして努力による結果の差、それらをルールによって保証している社会が「公正な自由(競争)社会」なのである。
 ところが、戦後の民主主義の潮流は、いつのまにか、自由と平等という二つの理念が意義を失い、平等だけが主張されるようになってしまった。その理由についてはここでは詳述しないが、政治・経済・文化のあらゆる分野から説明することはできる。しかしもし一言でいえというなら、よくいわれるように、欧米では民主主義が専制君主制の恣意的な権力を抑制し、権力を一般大衆のものにしようとする自由への闘いの中から生まれ、民主主義こそは自由を生みだし守ってくれるものだという意味をもっていたのに対し、日本では、軍・専制主義を倒してくれた「自由」への闘いは外部の民主主義であったが故に、国内の民主主義は「平等」を保証してくれるものとしてしか受けとめられなかったということであろう。
 こうして、民主主義は「多数の幸福」を望ましいとするよりも「少数者の保護」が正しいという偏向を生んでしまった。現在、問題となっている、国会の定数不公平問題をはじめ、地域エゴ、健保負担是正、官民格差、郵貯過保議、地方ローカル線廃止反対、整備新幹線早期着工など、姿はちがっているが、すべて戦後民主主義の誤った平等主義から発している。
 教育分野では、この誤った民主主義が戦前の軍事化へ傾斜していった画一的教育思想と奇妙に合体してしまった。戦時中教育の典型とされる国民学校は名称を変えてそのまま戦後の教育界に定着してしまった。それは、「結果の平等」という戦後の理念と、「戦争のために全国民画一化」という戦前の理念と一致する面があったからであろう。しかしそれだけではない。敗戦の混乱の中で、当時の各界のリーダーに共通していた考え方は、「敗けたのではない、占領されたのではない。何とか日本の伝統を残したい」という純粋な気持ちで理念の継続を求めていたからであった。
 経済界の場合は、まだ激しく変化する社会に対応しなければならなかったから、たとえ名前が三井・三菱・住友と戦前の財閥に戻っても、実態は自由主義経済の波に洗われていった。ところが教育界は、そうした実社会と遮断されているが故に、新時代の変化に対応がおくれたばかりか、古き画一主義が平等という名のもとに生き残ってしまった。最も文部省の画一教育に反対する日教組が平等主義という画一性を強調するのはまことに奇妙である。だから京都座会が自由化を提言したとき、文部省画一主義を批判する意味では賛成しながら、自由化という言葉が画一主義を否定するのではないかと警戒しているのは滑けいでさえある。
 別な見方からすれば、画一主義の発想は官僚、親方日の丸と結びついていることが多いようである。「天下に忌緯多くして民いよいよ貧し」(老子)、「国のまさに亡びんとするや規制多し」(春秋左伝)の歴史が示すように、時代の変化に対応することのできない場合、とかく規制による画一化がおこなわれ、それが自由な国民の活力を失わせ、国を滅亡させることになる。官僚や親方日の丸の組織は、現状がもっとも自分にとって望まし利益を生むのだから変革を好まず、それ故変革を抑制するための規制を多くする。彼らは自由こそが進歩の源泉であることを考えたがらない習性がある。
 京都座会が教える側の自由化を主張したのは、それなくして教育の進歩はないと考えたからである。ところが反論者の中には「学校設立の自由化」「学区制の自由化」などしなくても教師の質を高めればいいという意見があった。しかしそれは教育の現場を知らないからである。理想に燃えて教師になった人々がどれだけ失望してサラリーマン教師に堕してしまっているだろうか。親方日の丸の社会では、ぬきんでて働くことは仲間から外されることである。官僚に行政改革が求められたのも親方日の丸意識からの脱却のためであったし、官僚も自ら新時代への対応のために行政改革を必要としたからあるていど実施されつつある。ところが教育界はそうした必要を直接感じないから、行政改革とは別世界のところにあると安住している。ここに臨教審がどうしても必要になった理由がある。それは文部省の改革も含めて教育改革を、教育界の親方日の丸意織の脱却をしなければならないからである。
 そのためには、教師の良心に頼るばかりでなく、親方日の丸ではやっていけない条件を作ること、教師の向上を刺激する研修の開発、教師資格、免状の自由化などをおこなうだけではなく、できるなら、すべての学校を法入化し、官主私従でなく、私主官従の教育制度を作りだすことが望ましい。そして教育の内容はそれぞれの校長に一任し、校長・学校・教師の実態を常に公表して世の批判を受けるようにすることが、自由化である。そうなった時、現在、偏差値万能で指弾されている予備校も私塾として誤った競争主義を排し、子弟の教育に熱意をもった教育機関になるだろう。
 こうした考え方から、もちろん現在の入試制度の改革も必要になる。大学の入試はいわゆる一発主義の筆記試験だけでなく、面接・論文・推薦などあらゆる方式で多様化した方がいい。もちろんそれは学校独自で考えるべきで、入試というのは落ちこぼれを作るためにやるのではなく、自らの学校で教育し育成できる人物であるかどうかに目的がある。その判断は学校の自由であり、共通一次試験でふり分けるなど愚の骨頂である。もちろん、その意図が入試の地獄を改善し、バランスある教育をねらったことは判るが、それをするために画一主義であることが誤りなのである。
 しばしば文部省は、改革について正しい事実判断をしながら、その政策が画一主義になることが多い。もちろんその場合、通達・指導によって画一主義を排するという方法をとっていることがあるが、それは問題になった時の弁明クッションのようなもので、実際には末端にいくほど画一的規制になっていることが少なくない。時折、地方によっては教育委員会や校長が独自の判断をすることがあるが、それは現状では「勇気ある行動」であり、決して出世コースのメリットではないから、稀といわざるを得ない。
 少なくとも国立大学の中で共通一次に不参加を表明する大学があってもいいのではないか。私の考えは、共通一次をやる学校があってもいいし、別な方法で(たとえば信州大学)合格をきめてもよく、それは学校の独自の判断でよいということである。大学がそうなれば高校も入試一本槍という単一頂点主義は弱くなってくるし、高校入試も多様な工夫がでてこよう。そして大切なことは、臨教審や文部省が多様な工夫の内容をいわないことである。自由化の方針だけを闡明にして、具体的方法は各自の工夫に任せることが画一主義を脱する条件である。
 京都座会が、教師の研修を提言し、飛び級制の導入などを提言すると、とかく、司法制のような研修制にせよとか、飛び級は子供に差別感を与えるとかいった批判がでてくるが、こうした発想が画一主義なのである。司法制の研修が三年間も親方日の丸であることによって、どんなことになっているのか。司法界という一般には口の出しにくい世界であるだけに実態は判らないが、裁判官の判断の時折みられる生活常識との開き、あるいは裁判官の奇行・奇言など学界と同じ厳しい象牙の塔の勉強と無縁とは思われない。しかもそれが親方日の丸で保護されていては学界以上に弊害が大きいといわざるを得ない。それと同じことを教育研修におこなうなど無意味である。手弁当の研修こそ真の研修である。
 飛び級制度にしても何も画一的にする必要はない。まして親が自慢の種にするなど単一頂点志向の考え方にすぎない。広中平祐氏によれば、数学のできる子が飛び級で大学に出席することで、かえってその子自身が差別感をいだいたという。しかし学年制もあるていど自由化することによって、大学入試の受験のチャンスが増えることは、敗者復活の可能性が多くなって悪いことではないものの、それが本人にとっていいかどうかは選択の問題にすぎない。
 しかしなお残る反論の中に、自由化を認めるとしても、それによって義務教育段階で学区制を廃止したら、みんないい学校に行きたがって混乱がおこるし、格差を生むのではないかというのがある。
 いい学校ということ自体単一評価基準の発想だが、それはともかく、たとえば永田町小学校に殺到してもいいではないか。そうなって二部授業にでもなれば、みんなそんな教育はいやだといいだすだろうし、あるいは第二永田町小学校を作ればいい。さらには教師を異動させればいい。永田町という名前がいいのか、それとも教師がいいのかよく判るだろう。それでもうまくないなら私立小学校がどんどん必要になり公立小・中学校はすたれるだけである。
 そんなことをしたら、混乱が生じ、経済的格差がつき不公平だという意見がある。現実には通学距離からみても地域的制約からみても混乱が生ずるほど学校選択はおこらないし、そうなれば、学校の質的水準は教師側の競争によって上昇し結局はどこでも同じになってくるからいいのだが、地域格差・所得格差はどうするという反論にはもう一度自由の意味を考えていただくしかない。教育はタダではない。誰かが負担しなければならない。だから、公立学校があるのだが、その質的向上は供給側の水準を高めればいいのである。義務教育段階でむしろ、国公私の区別がむずかしいので、いずれはすべて学校法人にすべきであろう。そうなれば経済的負担は平等化されることになる。あとは学校に対する国民の基礎的負担をどのような方法にするか(奨学金とかバウチャー制とか地域助成など)を工夫すればよいのである。現在でも、初・中等教育は地方自治体でやっているのだから、現在も地域格差があるとするなら、自由化によって地域格差が発生するなどというのは、理想と現実との混同でしかない。
 
四、教育の理念につながる改革
 
 このように論じてくると、自由化がいかに現在の教育にとって重要であるかが判っていただけると思うが、現実には画一主義はすでに薄れ、自由化され多様化されているという反論がある。しかしそうだろうか。たとえばいま授業を受けもっている時、この時間は、自分の友人がもっと自分よりうまく教えられるからと、その友人に代講してもらえるだろうか。学科主任、校長、教育委員会の許可なくしてできるはずがない。多くの場合、黙認という方法しかないだろう。だから京都座会は教える内容は教師の判断として自由にし、免状も極力自由化すべしと提言した。教師の向上は免状の高度化ではないと考えるからである。教育実習も意味のあることとは思えない。むしろ社会経験を重視すべきであろうが、それよりも、研修の成果を発表することを評価して免状に差をつけることの方が望ましい。
 こうして教える側の自由化をすることは、決して教育の大改革を意味しない。六・三・三制の改革など私も必要かもしれないと思っているが、教育は未来からの留学生(香山健一)を預かっているのだから、大改革には長い時間をかけて慎重である方がいい。しかし、京都座会の提言は蟻の穴から大きな改革をはらんでいる改革である。新学期を九月にするということは私も賛成だが、せっかくできた臨教審だからそうした小手先の改革だけでなく、ぜひとも教育の理念につながる改革を提言して欲しいものである。
◇加藤 寛(かとう かん)
1926年生まれ。
慶応義塾大学経済学部卒業。
慶応義塾大学経済学部助教授、同教授、総合政策学部学部長を経て現在、千葉商科大学学長。


 
 
 
 
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