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1999年5月号 正論
緊急インタビュー 広島の教職員組合、解放同盟県連にもの申す
参議院議員 亀井郁夫(「広島県教育を考える国会議員の会」事務局長)
聞き手 大島信三(本誌編集長)
 
《広島県立世羅高校の石川敏浩校長は卒業式を翌日に控えた二月二十八日、広島県御調(みつぎ)町の自宅の物置で自殺した。五十八歳であった。国旗・国歌をめぐる教職員組合などとの交渉で何があったのだろうか。
 この痛ましい事件が報道されて以来、本誌編集部には手紙や電話で、広島県教育の現実についてもっと踏み込んだ論文なり、インタビューを掲載してほしいという読者からの要請が相次いだ。大半は広島県の読者からである。手紙は一通を除いて、住所も名前も書かれていなかった。
 消印でしか広島県からと判断できないが、いずれも切々と現状を訴え、「是非、真相を明らかにして下さい」と、まるですがるような文面ばかりである。そのうちの何通かに、「それができるのは貴誌しかありません」としたためてあるのを見ると、内心忸怩(じくじ)たるものを禁じ得なかった。「広島問題」を追及してきた上杉千年氏(歴史教科書研究家)は再三、核心にふれる論文を本誌に寄せたが、掲載に踏み切れなかったからである。
 遅ればせながら、長く地元教育界の正常化に取り組んできた「広島県教育を考える国会議員の会」事務局長の亀井郁夫参議院議員にインタビューし、読者の要望に少しでも応えたいと思う。なお亀井静香代議士は氏の実弟である》
 
 
 ――卒業式の国旗掲揚・国歌斉唱で教職員組合の同意を得られないまま校長が自殺するという出来事は、亀井さんにとって大変な衝撃だったと思います。
 亀井 ついに犠牲者が出たか、という思いでしたね。一番心配していたことです。ほんとに痛ましい事件で、早速弔問に参りました。納棺する前ですけれど、奥さんの悲しんでいる姿を見ますと、一言もいえなかったですね。
 石川先生は、身近な人には「しんどい」とか、「もうだめだ」といった言葉を漏らしていたようです。
 そのあと地元の教育問題に熱心な方が、「ぜひ会いたい」というので、広島空港でお会いしたんです。「石川先生の死を無駄にしないために、私の町でも石川先生を偲ぶ会を開いて教育問題を考えようと思っています。そのときは亀井さん、ぜひ来て下さい」と、ほんとうに真剣な表情でした。
 
「こうなことは、口が裂けても言われんけぇえのう」
 
 
 ――三月二日の告別式で友人の広島県立三原東高校長、東風上(清剛)先生が読んだ弔辞は参列者に強い印象を与えたようですね。
 亀井 ええ。(立ち上がって、鞄からぺーパー二枚を取り出して)これが弔辞の内容です。
 ――ずいぶん長い弔辞ですね。「石川さん、悔しいのう」「石川さん、ごめんのう」と呼びかけた東風上先生の言葉は、自殺した石川校長の無念さを代弁していると思われます。
 
 《東風上校長の弔辞はつぎの通りである。
 〈石川さん、私が今ここであなたの弔辞を読んでいることが、現(うつつ)のこととは信じられない気持ちです。夢が覚めて欲しい気持ちです。(二月)二十五日の昼、三原東高校の校長室でコーヒーを飲みながら話し合ったのが、ついさっきのことのように思い出されます。あのとき、「今日はこれから学校にかえって会議よ、たいぎい(注・しんどい)の」と言って別れたのが最期になりました。
 石川さん、私は二十七日の夕方から、何かおかしい、いつもの石川さんとは違うと感じていました。二十七日の夜も、あなたがまだ家に帰らない、と言う奥さんの話を聞いて、世羅高校の近くにいるうちの職員に学校の様子を見に行ってもらったり、來山さんに心当たりを探してもらったりしましたが、結局、一時を過ぎても連絡がつきませんでした。二十八日の朝八時に電話をしたら、奥さんが昨夜帰ってきましたと言われたので、「ああ、なんでもなかったんか」と安心しましたが、電話口に出ようとしないあなたに、私は心配で、不安でたまりませんでした。あとから思えば、早く走ってくればよかったと後侮ばかりです。
 石川さん、あなたと私は御調高校以来の同級生で、同じように広島県の教員になり、学校は違っていましたが、ずっと同じ尾道地区で一緒に過ごしてきました。同じ時代を同じように生きてきました。
 あなたの最初の赴任校は世羅高校でした。私は世羅高校の三和分校でした。私が尾道東高校に転勤してから、あなたは尾道北高校に転勤してきました。そして母校の御調高校には、あなたの方が先に帰りました。数年遅れて私が転勤し、御調高校では一緒に頑張りましたね。沢田さんと三人で、どうやったら御調高校が良くなるか、話し合ったものです。職場体験学習も、みあがり踊りもあのときに考えたものでした。石川さんはみあがり踊りが好きで、上手でした。森鳩や、山崎に踊りを教え、それを生徒に教え、運動会には保護者が一杯見にきてくれました。あのときは石川さん、うれしかったのう。
 同じように喜び、同じように悩み、同じように行動してきました。教頭になり、校長になっても、いつもあなたとは一緒でした。あなたは久井高校の校長から忠海高校の校長になり、百周年記念式典を立派にやりこなしました。あのとき壇上で式辞を読んでいた石川さんは、堂々として輝いていました。「オリーブの香り、エデンの海」と言っていたのが、ついこの前のように思えます。
 去年四月に世羅高校に転勤になりました。石川さんにとっては、青年教師として青春時代を過ごした、思い出の世羅高校です。あと三年を残しての転勤で、「これが最後の勤務校になるのう。駅伝をガンバラサにゃいけんのう」と意欲的に言うあなたに、われわれは、「はじめと終わりが一緒じゃけ、ええじゃないか。幸せじゃ思え」と言いましたが。石川さんは幸せじゃなかったのう。
「学校をやめたら沢田さんと一緒に泊まり込みでゴルフにでもいこうで」といようたのに残念です。スキーが好きで、カラオケが好きで、風呂が好きで、そして、なによりもまじめで、責任感が強く、だれにも優しく、親切で、人に怒っているのを見たことがないほどです。
 そんな石川さんが、私は好きでした。私は石川さん、兄弟のように思っていました。
 それでも二十七日には、なんにも言うてくれんかった。隠さんでも良かったのに、辛かったんだろうと思います。石川さんが口癖のように言っていた、「こうなことは、口が裂けても言われんけぇえのう」を思い出します。
 石川さん、悔しいのう。石川さんは言わんでも、石川さんの気持ちは、われわれ尾三(尾道市と三原市)の校長会(広島県公立高等学校長協会尾三支部)のものは、みんないたいほどわかるよ。どの学校でも、どの校長も、みんな同じようなことを経験してきたんじゃけぇ。
 石川さん、ごめんのう。一番大事なときに、力になれんかって。奥さんが、「先生、はようきてえ」いうたんが、耳からはなれません。
 石川さん、もう今は楽になったじゃろう。なにも心配せんでもえぇ、悩まんでもえぇようになったのう。もう学校のことは忘れて、心静かに過ごして下さい。
 私たちは、石川さんが死んだとは思っていません。ゴルフのスイングのことでも考えて上手になったら、また一緒に行って、しょうぶをしょうでぇ。本間のクラブをこの前買い替えたぼかりじゃのに、かわいそうにのう。
 石川さん、ちょっとの間だけ、さようなら〉》
 
 ――石川校長の口癖だったという、「こうなことは、口が裂けても言われんけぇえのう」というのは、広島県教育のブラックボックスを象徴する言葉ですね。
 友人の異常に気づいたのに駆けつけなかったことに対する自責の念。友人の悩みを知っていながら、あからさまにできないもどかしさ。そういうものが横溢する、やるせない別れの言葉ですね。
 亀井 東風上校長は石川校長の友人で、校長会の支部長でもあるんです。それで常時連絡をとっておられた。前の晩は学校に連絡をとったけれども、おられない。学校へ様子を見に行ってもらったら、灯が消えている。ほかの場所で交渉をやっておられたんですね。ある情報を伝えようと思ったけれども、結局、連絡がつかなかった。
 翌朝、東風上校長が電話したら、奥さんが出られて、様子がおかしいという。それで出先の教育委員会の指導主事に連絡して、その人が自宅を訪れて石川校長と三十分ほど会って話しています。それから指導主事が県教委の教育部次長に電話して、一緒に話そうということになりました。
 世羅高校では午前十時から職員会議を予定しておられたようですけれども、その指導主事が次長を迎えに行っている三十分間、ちょっと留守にされたんですね。
 ――その間に命を絶った。
 亀井 (再び鞄からぺーパーを取り出して)こういう石川校長の直筆がみつかっています。日にちは書いてないが、「何が正しいのかわからない。管理能力はないのかもしれないが、自分の選ぶ道がどこにもない」という文面からみて遺書と思われます。
 ――八方ふさがりだったんですね。
 亀井 ほかに日記もみつかっています。
 
《石川校長の日記の断片をお伝えする。一部イニシアルにした。
〈一月七日、国旗国歌の件で分会長と話、中々厳しい状況。一月十日、国旗国歌の件でK校長へ相談電話、気分重し。一月十三日、昼前尾北へ出発、組合の動向を聞く、指導課、校長会より連絡がくる、君が代に関する件。一月二十二日、卒業式、日の丸君が代についての通達の件でS氏に相談。一月二十七日、通達文について職会で伝達、不穏な動き多し、話し合い続行のことを残して終わる。二月十三日、四時より三原隣保館で話、要望書を書くことに決定。二月十七日、日の丸・君が代の取り扱い八方ふさがり、全く希望なし。二月二十日、S次長来校、国旗・国歌の件。二月二十一日、世羅郡同教が甲山であり出席。二月二十二日、生徒指導のことで遅くなり帰宅〉》
 
「八者懇談会合意文書」と「二・二八文書」
 
 ――広島県の高校生の学力は、昔とくらべて落ちているとか。
 亀井 これまでは大学のセンター試験も十九位、二十位ぐらいにいましたが、つるべ落としに落ちてきまして、昨年は全国で四十五位というところまで落ちました。
 ――広島東部の秀才の中には岡山に行く生徒が多いそうですね。
 亀井 福山のほうの備後の中学校を出た子の三割近くの生徒はJRに乗って岡山の金光学園などに通っています。岡山県の私学の相当数が広島県の子なんですね。
 ――県出身者の広島大学への入学率も落ちています。
 亀井 われわれのときは広島大学の入学合格者の七割から八割が広島県出身だったのが、いまは三割を切っています。
 しかし、広島県の大学進学率は日本でもトップレベルで、五番を下がったことはありません。二番になったり、一番になったり、三番になったりしています。教育県広島≠ニいわれるだけあって、教育には熱心なんですよ。
 ――広島高等師範といえば、かつては全国の教育界に逸材を送り出したところです。
 亀井 ところが大学進学率はトップクラスでも、成績はBクラスで、希望する大学に入れない子が多い。広島県の子供がとくに頭が悪いわけじゃないんです。他県並みに教育してもらおうじゃないか、ということです。
 それに広島県は、刑事事件を起した非行少年が非常に高い。千人当たり何人かというのを割り出しますと、一番悪いのが大阪府で二十七人、二番目が広島県の二十六人です。
 ――広島県の公教育がおかしくなったのは、いつごろからですか。
 亀井 昭和四十年代以降です。一番問題になったのは昭和六十年の秋です。当時の木山広島県会議長が、解放同盟広島県連に介入されている教育の現場を直さなきゃいけないと問題提起をされました。これに対して解放同盟(県連)から相当の抗議が加わってきたんですね。
 それで、当時の竹下知事が間に入って、いわゆる「八者懇談会合意文書」が出たんです。
 それからは解放同盟広島県連が教育現場に入ってくるようになった。教育問題について堂々といえるようになったわけです。
 
《八者懇談会合意文書「広島県における学校教育の安定と充実のために」はつぎの通りである。
〈今日、本県学校教育の安定と充実は、すべての県民の願いである。これに応えるために、教育に係わるわれわれは、お互いにそれぞれの立場の尊重と相互信頼の上に立ち、教育基本法第十条の精神である教育の中立性を尊重し、つぎのことを基本に置いて、更に教育の健全化のために、それぞれの役割を尽くすものとする。
 1 教育の質的向上と青少年の健全育成のため、教育関係者は学校教育問題協議会(三者懇)の場などを通じて、懸命に努力し、関係者はこれに協力する。
 2 学校においては、子供の教育を基本に置いて、校長をはじめ教職員が一体となって努力し、民主的で秩序ある学校体制が確立されるよう努める。あわせて、父母、地域社会の意見を謙虚に聞き、学校の運営に全力を尽くす。
 3 われわれは、教育諸条件の整備を一体となって進め、適切な教育環境づくりに努める。
 4 同和教育の推進に、われわれは一致して努力する。差別事件の解決に当たっては、関係団体とも連携し、学校及び教育行政において、誠意をもって主体的に取り組み、早期解決に努める。また、激発する差別事件の現実に鑑み、社会啓発に全力をあげる。
 5 全国的に見られる生徒の自殺事件、いじめなど人間疎外の状況、校内暴力など荒れの現象、更に喫煙、シンナーなどに見られる自暴自棄の現象については、その緊急性に鑑み、本県における教育健全化対策の重要な課題として位置づけ、生命・人権の尊重と主体的な生き方の確立を目指して、積極的に取り組む。
 6 今後、われわれは、適宜話し合いの機会を持ち、相互理解と意志の疎通に努め、本県教育の推進のために努力する。
昭和六十年九月十七日
広島県知事
広島県議会議長
広島県教育委員会教育長
部落解放同盟広島県連合会
広島県教職員組合
広島県高等学校教職員組合
広島県同和教育研究協議会
広島県高等学校同和教育推進協議会〉》
 
 ――「八者懇談会合意文書」に加えて平成四年二月二十八日に当時の菅川健二教育長(現在参議院議員)が出した「二・二八文書」があります。上杉千年さんがこの文書を本誌で痛烈に批判しています。
 亀井 「二・二八文書」は、国旗・国歌に対して厳しい批判が書いてあります。菅川さんが好んで書かれた文書ではないと私は思っています。
 ――奇しくも二月二十八日は、石川先生の命日になりました。心ならずも書かざるを得なかったのかどうか。菅川さんは、いまは政治家でもありますし、当時のいきさつを明らかにすべきだと思います。
 
《菅川健二教育長が解放同盟広島県連の中島敏彦委員長にあてた「二・二八文書」はつぎの通りである。
〈日の丸・君が代については、学習指導要領が存在しているので、これを遵守しなければならない立場にある。
 指導要領の原則からすれば、日の丸・君が代ともに、掲揚・斉唱するのが筋であるが、君が代については歌詞が主権在民という憲法になじまないという見解もあり、身分差別につながるおそれもあり、国民の十分なコンセンサスが得られない状況もある。
 また、教育内容に深くかかわる日の丸の掲揚についても、これを画一的に実施することは、教育原理からみると問題があるが、他県の動向・県内の状況から掲揚をしないままでいるということができない状況にある。
 日の丸は、天皇制の補強や侵略、植民地支配に援用されたこと、これからもそのあやまちを繰り返すおそれを、日の丸のもつ問題として二一世紀の国際社会に生きる児童生徒たちに教育内容としてもりこまなくてはならない。その教育内容の補完があって、日の丸の掲揚ができるものと考える。その教育内容については、校長を含む全教職員が創造するものであり、何人も介入してはならないという基本認識にたつ。そういう観点で考える時、日の丸・君が代にかかわる広島県教委の各地教委、校長へのこれまでの対応には、ゆきすぎもあり、教育内容をふまえての取り組みが不十分であったと反省せざるを得ない。
 以上の基本認識にたって、各地教委、県立学校の校長にも対応する〉》
 
 亀井 菅川さんだって、こんな文書を書きたくなかったと思います。問題は書かざるを得なかったという状況ですね。それはいまでもあるわけで、高等学校の校長先生方も同じような状況に追い込まれているわけです。
 いま、教育委員会に対して国旗・国歌の問題については、従来の同和教育の延長線上では考えられない。これについてどう解釈するのか、というような文書を教育長宛に出すようにと校長先生方は強制されているわけです。その文書の雛形もあります。
 
みんなが勇気をもって
 
 ――産経新聞が詳しく報道していますけれど、世羅高校は数年前から韓国に「謝罪修学旅行」をしていました。ソウルの独立運動記念塔前で生徒が謝罪文を朗読していたそうで、これには驚きました。昨年十月、石川校長を団長に引率の教員十三人、二年生約二百人が参加したとか。
 これも「教育内容の補完」の一つなんでしょうか。
 亀井 世羅高校には、「謝罪修学旅行」に熱心な先生が何人かいると聞いています。そういう先生方の動きに反対できない空気があったというのが、広島県の実情ではないかと思います。
 参議院の予算委員会で広島県の先生を参考人に来てもらおうと思って話を進めかかったんです。ところが、その先生は勇気を出して応じようとされたのですが、そのことを周りの人が知ったとたんに、先生は出ることが出来なくなりました。
 ――周りの人が知ったとたんに?
 亀井 私も驚いたんですが、「自分が参考人として国会に出席することを周りの人が知った以上、今度はその人たちがなぜ止めなかったかと、徹底的に糾弾されます。自分の出席があとでわかるのはいいんです。しかし事前にわかったら、周りの方々に迷惑をかけるから、とても出るわけにいきません」といわれるんですね。
 それを聞いた周りの先生や父兄が、「私たちのことは心配しないで、国会でありのままを話してきて下さい」ということにならない。
 ――昨年四月、参議院予算委員会で広島県教育の実態を明らかにした福山市の中学教師、佐藤泰典先生は勇気がありました。
 亀井 佐藤先生は、だれにもいわない、だれにも相談しない。一人で決断され、極秘に上京したんです。佐藤先生の話が大きな衝撃となって昨年五月、文部省による異例の調査が行われ、是正指導が行われました。
 ――それをうけて昨年十二月十七日、県教育長は各高校の校長に、「国旗・国歌の取り扱いが学習指導要領に基づいて適正に行われるように」と通達を出しました。これが石川先生の負担になったと一部マスコミは報道しています。草葉の陰で石川先生は苦笑していると思います。
 ところで佐藤先生に、いやがらせはなかったのですか。
 亀井 東京から帰られたあと、相当攻撃されました。「学校の恥をさらした」と。おかしいですよね。
 本来なら問題提起された勇気ある行動を父母の側が称えて、「そんな学校だったのか。何も知らなかった。佐藤先生のいう通りなのか調べて、みんなでちゃんとしようじゃないか」と、父母は立ち上がってやらなきゃいけないのに、逆に糾弾したんです。やれ転勤させろとか、やめさせろとか、激しい動きが続きました。しかし幸い、それはおかしいよと一部の人たちが立ち上がり、私たちもバックアップしました。
 ――保護者側も動かない。
 亀井 大かたの父母の方々も総括されて、学習会という名前で呼ばれて糾弾されるのをおそれている。
 しかし、佐藤先生の発言を契機に、広島県内でも教育問題に対する関心が高まっています。各地で教育問題を考えるグループがつくられていますが、そうした力を集中しようと「広島県教育会議」(発起人代表・増岡博之元厚相)の結成が進んでいます。また、国会においても広島県選出の自民党国会議員を中心に超党派で「広島県教育を考える国会議員の会」(会長・谷川和穂衆議院議員)をつくり、地元での実情調査や提言を行っています。
 ――三月十日、参議院予算委員会に岸元(學・広島県公立高等学校長協会会長)先生が参考人として出席され、広島県教育の実情を明らかにされました。
 亀井 岸元先生の勇気ある行動を心から称賛したいと思います。私も予算委員会に出席していましたが、広島県の教育をなんとかしなければならないという先生の思いを直接感じることが出来ました。
 議員の皆様も岸元先生から直接お話を聞き、驚かれるとともに近々に参議院として調査団を派遣しようということになっています。
 また、当日の予算委員会で宮沢喜一大蔵大臣(広島県第六選挙区選出)が、この問題について四十年来の地元の問題であるが解決できなかったことに責任を痛感する、と率直にお話しになりました。宮沢先生はまた、解放同盟広島県連などから、差別問題≠ニ批判されることを恐れてマスコミが報道しなかったため、県民が事実を詳しく知ることが出来なかったことなどをあげられ、今回の事件を契機にこうした問題についてオープンに話し合えるようになったことは喜ばしいことであり、全力をあげて解決に努力したいと答弁され、深い感銘をうけました。
 
《三月十日、参議院予算委員会で自民党の矢野哲朗議員の質問に答えた岸元会長の発言からいくつか抜粋してみよう。
〈石川校長は二月二十四日から先生が自殺される直前の二十七日まで、連日連夜八回にわたり校内、校外で一日約五時間平均にわたる会議とか交渉が持たれました。その中で、あくまで石川校長が国歌斉唱を実施するというなら、従来三脚で掲揚されていた国旗まで引きおろすぞとか、授業の補習や駅伝の世話など、学校運営の一切に協力しないぞというふうな形で反対されました。
 そこで、校長は、一時はあきらめの気持ちになっておりましたが、同じ地区の校長たちが国歌斉唱をするというふうな情報を得て、すがるような思いで二十八日に職員会議を設定してくれないかというふうに組合に要請したところですが、拒否されました〉
〈職務命令が石川校長を追い詰めたというふうな考え方がマスコミ等を通じて流布されておりますけれども、教職員を説得する材料として、私ども校長の方から教育委員会へ職務命令を出してもらえないかという心待ちの気持ちがあったという事実をここに報告させていただきます。そして、その効力は結構あったというふうに私は受けとめております〉
〈五者協が国歌斉唱に反対する戦略を練りました。五者協とは、広島県高等学校教職員組合、広島県教職員組合、広島県同和教育研究会協議会、広島県高等学校同和教育推進協議会、そして部落解放同盟広島県連合会、この五者が国歌斉唱の実施をいかにとめるかという戦略を練ったのであります。
 二月中旬までは各高等学校で同和教育推進係や高等学校教職員組合の執行部が国旗・国歌を実施する県教育委員会の通達と我々がいままでやってきた教育内容がそぐわないという観点で校長に迫り、国旗・国歌を実施すべきとの県教育委員会通達を撤回させるという方向で闘争を組もう、それでも校長が通達どおり国家斉唱をしようとするなら次のような闘争を組む、すなわち従来掲げていた国旗もおろすと校長に迫るということです。こうしてみますと、石川校長は五者協の戦略の犠牲になったというふうに私は受けとめざるを得ません〉
〈平成三年の十二月五日のことでしたが、高等学校長協会と高等学校教職員組合との間で、国旗は三脚ですべての学校に揚げるが、国歌斉唱はしないという約束がなされました。
 今回、文部省の是正指導を受けた広島県では、国旗・国歌を学習指導要領どおり実施するという方針を固められました。そして、各学校長に指導が入ってまいりました。
 そこで、校長協会としましては、平成三年の約束事があったままでは昨年どおり実施率が一八・六に固定されてしまう、これでは何のための文部省の是正指導であろうかということで、私と副会長とが高等学校教職員組合の本部に参りまして、国歌斉唱をしないというこれまでの約束を破棄通告しました。高等学校教職員組合の方では、私の方へ抗議電報を打てというふうな闘争を組まれたように思います。
 その中で、一、二紹介させていただきたいというふうに思います。
「岸元學様 約束は守るように日頃生徒に諭しているはずの校長が高教組との整理を一方的に破棄し、現場を大混乱させ、一人の良心的な校長を死に追いやる悲劇を生み出したあなたの責任は重大である。あなたのような独裁的、独善的な校長が会長となる公立校長協会とはいかなるものなのか。教育者としての良心のかけらがあるとすれば、即刻教育界から身を引きなさい」
 石川校長を死に追いやったのは私であるというふうに決めつけた抗議文であります。
 また、石川校長が在職されていた世羅高校からも抗議電報が参っております。「教育者としての良心はないですね。教育界から出ていってください。」、全く反省の色も見えません。私は世羅高校の先生方に失望せざるを得ません〉
〈先ほど来、部落解放同盟という団体名が出ておりますが、本県の部落解放同盟広島県連合会は特異な、他の都道府県の部落解放同盟とか、また部落解放同盟中央本部の方々とは違った動きをなされますので、同じ名前の団体とは峻別して受けとめていただくということを前提にお話し申し上げたいというふうに思います〉
 また宮沢蔵相の発言はつぎの通りである(産経新聞三月十一日付より)。
〈実はこの問題はきのうきょうの話ではなく、四十年ほどの歴史がある。それも今、(岸元)校長の話にあったように、ほとんど(広島県)東部に限られた話だ。
 私がまさに選ばれてきた地域で、四十年間たくさんの人が闘ってきた。今回、命を落とされた方があったが、(これまでも)たくさんの人が職を失い、あるいは失望して公職を辞めるということがあった。
 なぜ、その闘いに勝てなかったかというと、基本的には、部落問題に関係があるために、これについて報道することが「差別発言」になるということを報道機関は常に恐れていて、このことを口にすることができない。共産党だけが実に勇敢に発言してきたが、それ以外はこれについて「差別発言」と批判されることを恐れ、世論の形成ができないということが一番の原因だったと思う。
 私自身もそういう中にあって、このことについて今日までこの事態の解決に十分寄与できなかったことを恥ずかしく思っている。今度こういう不幸な事件があり、初めてそのような事件として広く取り上げることができるようになった。今度の痛ましい世羅(高校)校長の死で、この問題をようやく公に議論できるようになったというのが、私の郷里の雰囲気だ。
 国会がこういう機会を設けていただいて、参考人もよく意を決してここにおいでいただいて、この問題が公に議論されるようになったことは、何十年うっくつしていた問題に初めて国民の目を集中させることになった。この点については国会の配慮に心から感謝するし、参考人としておいでになった岸元さんの勇気に心からの敬意を表したい。
 率直な感じをいうと、自分がこの中にあって何十年も解決できなかった問題について国会がこうやって取り上げたことに勇気を感じる。また自分が今まで果たし得なかったことに渾身(こんしん)の努力を尽くしたい〉》
 
広島県教育をゆがめたものは
 
 ――広島県の教職員組合や解放同盟広島県連だけを責めるわけにはいかないと思います。県教委がもっと毅然とした態度をとっていれば、ヒロシマの悲劇≠ヘ回避されたかもしれない。
 亀井 たしかに教育委員会のあり方にも問題がありました。先生の中には県教委の課長や部長になる人がいます。この人たちはまた校長になって学校へ戻るわけです。県の職員が部課長になっている分にはいいんですけれど、部課長の多くは管理職の教師です。最後は県教委から現場に戻って校長になって終わる仕組みになっています。校長になると、給与も年金も多いんです。
 そうすると、教育委員会に在職している人たちも、いずれ学校に出ていかなければいけませんから、そのときに教育委員会時代に強いことをやっていると邪魔されるんですよ。現場で忌避闘争をするわけです。
 ――県教委の幹部時代に組合のご機嫌をそこねていると、校長として赴任しても・・・。
 亀井 受け付けないんです。組合の先生方が机を放り出したりして。だから教育委員会に在職中はきびしい態度がとりにくい。広島県の場合は、いかに組合なり解放同盟広島県連とうまく付き合うかが、管理職の先生方の生きる術、出世の術だといわれていました。
 ――言い換えれば、教職員組合や県連が実質的に教員人事まで握っているということですか。
 亀井 人事を握っているわけではありませんが、従来それに近い影響力を持っていたと私は思っています。
 ――各学校の職員会議にも問題があると思います。
 亀井 その通りです。石川先生は、県教委の指導のもとに卒業式において国旗の掲揚、国歌の斉唱に努力されましたけれど、そのときの最大の問題は職員会議の同意を得ることでした。
 広島県の場合、なんら法的根拠はありませんけれど、職員会議が事実上の学校の最高決議機関として機能しています。校長は議長にもなれず、十分に力を発揮できない。
 学校運営の正常化をはかるためには、職員会議をあくまでも校長の補助の手段としなければならないと思います。これを法的にも明確化する必要があると考えています。
 ――「広島県同和教育研究協議会」「広島県高等学校同和教育推進協議会」というのは、教職員の参加は任意ですか。
 亀井 校長先生以下全員が入る仕組みになっています。組識率百パーセントです。これは研究団体と称しながら、実際は運動団体ですね。学校における同和教育の方針などをそこで決めているわけです。解放同盟広島県連と一体といっていいです。外の解放同盟(県連)、内の同和教育研究協議会ですね。ここには多額の補助金が出ています。
 広島県の場合は、行政の基本に同和教育があります。正しい同和教育だったらいいんですよ。差別はいけないんですから。ただ間違えた同和教育を行う運動団体には補助金を出す必要はないと思います。
 広島県の場合は、行政も教育委員会も一体になって間違えた同和教育に人も金も出している。解放同盟広島県連をこのように甘やかしたのも行政だし、同時にそれは議会の責任でもあるし、県民の責任でもあります。いずれにしても広島県の教育がゆがんでいる原因の一つは、間違えた同和教育が行われていることだと思います。
 ――同和教育そのものを否定してはならないと思います。
 亀井 当然です。私は差別は嫌いです。差別はあってはならないことだと思っています。そういう意味では同和教育は大事です。
 私の父が、昔、村の助役をしておりました。父のところに被差別部落の人たちが男泣きに泣きながら差別について訴えていました。父が一生懸命解決するために努力していました。「差別はあってはいけない」と父はよくいってました。私も同じ気持ちです。
 だから同和教育は一生懸命やらなければならないと思います。ただ正しい同和教育を行わなければならない。
 
マスコミは元気を出して取材してほしい
 
 ――国旗・国歌の問題にしろ同和教育の方法論にしろ、関係者がこれまでのわだかまりを乗り越えて誠意をもって話し合うことですね。
 亀井 平成三年、私は広島県議会の文教委員長のときには、当時の広島県高教組の委員長だった小寺好さんと何度も会って話をしました。そのとき、ある意味での共通の認識を九割方持ちました。
 平成三年九月二十七日でしたが、第十九号台風がきて、広島市が真っ暗闇になっているときでした。ビルが揺れている状況の中で、小寺さんと、当時の高等学校の校長会の会長、塚本校長先生、それに私の三人で真っ暗ななかで話をしました。そこで話し合った結果、正面が一番いいんですけれど、三脚であげるようにしようと。
 ――三脚だと全部見えない。
 亀井 ええ。しかしそれは一歩譲って、文部省としては、三脚でもいいよということになっているから、そうであればそこでやろう。そのかわり百パーセントちゃんとあげようということで約束したんですね。
 それで百パーセントあげるべく小寺さんは努力しました。きのうまでは絶対あげたらいかんといって指導していたのですから、方針の百八十度転換です。小寺さんは、相当苦労されたと思います。
 ――国歌のほうは?
 亀井 国歌についても議論したんですが、いっぺんに二つはできないから、今年は国旗だけにしよう、国旗を全部あげて、来年は国歌を話し合おうということになりました。
 しかし、私が知事選立候補のため県議を辞職しましたので、この話を続けることが出来なくなりました。
 ――考えたら、毎年一、二月になると国旗・国歌問題で膨大なエネルギーを使ってきたんですね。
 亀井 児童生徒だって、かわいそうです。
 国旗は、日本の侵略戦争で使われた旗だと教えられる。あの白は殺した人の骨の白、赤は流した血の赤だと、何もわからない小学生に教えているひどいケースがあるわけです。
 それで国旗を掲揚しよう、国歌を歌えといっても生徒が歌うはずがないじゃありませんか。
 ――国旗・国歌の法制化に反対する意見もあります。
 亀井 私は必要だと思います。日の丸が国旗なのか、そうでないのか。君が代は国歌であるのか、そうでないのか。そういったことは不毛の議論です。
 学習指導要領も否定されているという状況ですと、法制化してしまえば、この問題はなくなるんですね。
 これまで自民党の中には、国民の七割から八割が国旗・国歌を認めているんだからこのままでいいじゃないかと、法制化に消極的な人たちがいました。しかし石川先生の死を契機にして大半の人たちが積極論に変わられたわけです。
 学校で国旗の掲揚その他を問題にするのも大事だけれど、それ以前に家庭であげることです。祝祭日に街を歩いても日の丸がないじゃないですか。あるいは官公庁はやってるけれど、官公庁の行事に日の丸が掲げてありますか。国歌が歌われますか。ほとんどないわけですよね。そういうことを含めて国旗・国歌の啓蒙も合わせて法制化と同時にやるべきだと思います。
 これを契機に、みんなで国旗・国歌を考え直してほしいと思っています。
 ――亀井さんは企業出身(旭化成)ですけれど、中国や韓国と取引のある企業は、中国や韓国のお客さんが来ると日の丸を降ろすところがあります。日の丸にこだわっているのは、学校や家庭だけじゃないんです。
 亀井 中国、韓国に行ったら、ちゃんと向こうは日の丸の旗をあげてくれますよね。国際交流の場でちゃんと日の丸の旗と二本こうして。
 ――過剰なる自粛、です。
 亀井 思い過ごしですね。国旗・国歌について国民にいかに自信を与えるかということなんですね。敗戦によって自信を失ってしまったわけです。戦後の一時期、日の丸の旗をあげることも国歌を歌うことも禁じられていないまでも、歌っちゃいかんという空気が強くて、みんな消極的になった。自信を失っておったわけですね。
 そうした歴史的事実を社会的に引きずっていることは事実ですが、国民全員が自信を持ち直す意味でも法制化は望ましいと思います。
 ――広島の問題は大きな波紋を投じましたけれど、マスコミの中には事実の報道すら手控えているところが多いですね。
 亀井 マスコミは元気を出して取材してほしいと思っています。肝心の広島のマスコミはあまり報道しませんね。
 広島では中国新聞の影響力がとても強いんです。中国新聞はもうちょっと踏み込んだ報道をしてほしいと思っています。われわれの肩を持つ必要はないんです。こういうことがあるという事実の報道でいいんですから。
 広島県の教育を是正する唯一、最良の方法はブラックボックスに化している教育の現場を県民だれでも知ることの出来るように扉を開き、明るいクリーンなものにすることだと思います。
 差別事件が起これば、密室の中で一部のグループだけでつるしあげを繰り返すという方法ではなく、教育委員会などが中心になり、開かれた場で事実の確認と善後策を協議し、再発を防止するよう関係者全員が努力する必要があるのではないでしょうか。
 ――石川校長の自殺を契機に、マスコミもまた問われていると思います。
◇亀井郁夫(かめい いくお)
1933年生まれ。
東京大学法学部卒業。
参議院議員。


 
 
 
 
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