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2001年8月号 世界
教育基本法を変えてはならない
梅原 猛
 
 ―― 二〇〇〇年一二月一五日に日本ペンクラブは教育基本法に関する声明を出し、その直後に教育改革国民会議が一七の本報告を発表しました。ペンクラブとしては、個人情報保護法案に対する声明など、現在のさまざまな状況に対して、かなり強いアピールを出されていますね。
 梅原 かつてペンクラブは水爆実験について声明を出したことがありますが、やはり現在の状況、危機に対してはっきりした対応をとらなくてはいけないという考えから、私が会長になってすぐ諫早湾についての声明を出したのです。日本ペンクラブとして環境問題について発言するのは初めてで、いろいろ議論になりました。
 しかし、私は、ペンクラブの形状ができたときはまだ環境問題がそれほど深刻ではなかったけれど、いまや環境問題は人類の生存に関わる重要な課題になってきたという認識から、やはり声明を出すべきだと主張したのです。そして井上ひさし君に、井上流にちょっとユーモアや皮肉がありながら、かなりきつい声明案を書いてもらった。
 二点ポイントがあります。一つは日本文学は美しい自然を書いてきた、それなのにこのような自然破壊はけしからんということ。もう一つは、無用な公共事業がどれほど国費の浪費かということです。
 私は、いまいわゆる反体制勢力というものが極端に弱くなっていることは、非常に問題だと思うのです。かつては政党にしてもかなり社会党、共産党が強かったけれども、その力は消え、労働組合はほとんど御用組合化してしまったし、学生運動もなくなった。時の政府の暴走に対してクレームをつける機関がない。私は、ペンクラブはそういうものであるべきだという確信を持って、ペンクラブを引っ張ってきましたが、理事たちも会員たちもみんな私を支持してくれるのです。
 私はますますペンクラブの発言は重みを増してきたと思います。言っては悪いけれど、今は総合雑誌も非常に力が弱くなってしまったから(笑)、批判するところがない。たいへん困った時代になってきていると思いますね。
 
理念なき「教育改革国民会議」
 
 ―― 教育改革国民会議に対する憂慮については、梅原先生ご自身で発案されたそうですね。
 梅原 諫早については井上君に書いてもらったので、今度は私自身から発案したのです。
 教育基本法は憲法の一翼なのです。それをアトランダムに選んだ委員が、憲法改正の地均しみたいなことをしていいのか。これはやはり憲法違反ではないか。
 私は教育基本法をよく勉強してみたのですが、立派なことが書いてあるんですよ。むしろ憲法の文章よりもいい文章です。外国語を訳したというようなものではなくて、非常にすっきりした日本語なのです。短くて、簡潔で、非常にわかりやすい名文です。
 そして、教育改革国民会議の言っていることは総花的なのです。一九八四年に中曾根康弘さんが臨教審を作ったときに、教育に対して憂慮は持っていたけれど、どういう方向にもっていくかという具体的な理念はなかった。臨教審は失敗したと中曾根さんみずから言っていますが、新しい教育像が全然見えてこなかったんですね。
 そしてまた小渕さんが教育改革国民会議を設けたけれど、これまた理念がない。ただ殺人事件が起こったりすると何か対策をしなければと、めぼしい人、社会的に人気のありそうな人を委員にする。これでは改革はできません。それで出てきたのが教育基本法の改定です。
 私が特に問題だと思うのは勤労奉仕の義務化です。吉本隆明氏も言っていましたが、とんでもないことですよ。私たち戦中派にとってはほんとうに肌寒くなるようなことです。奉仕というのは、必ず絶対者に対してのものなのです。絶対者の存在を前提とした考え方ですから、天皇制とキリスト教に合致するのです。天皇のために奉仕するというのが勤労奉仕、イエス・キリストのために奉仕するのがキリスト教の奉仕です。
 仏教では奉仕ということは絶対ありえない。仏教は自分が仏であるというのですから、仏=自分に奉仕するなどということはありえないんです。ですから「勤労奉仕」は宗教的じゃないと言いますが、宗教的なんです。この事実に誰も気がつかない。これは重要な視点だと思います。一方で宗教教育をやっちゃいかんと言いながら、特定の宗教の思想が入っている。キリスト教的あるいは国家神道的な色彩が強いのです。もし仏教の視点で考えるとしたら、乞食をやることですね。
 釈迦は一生乞食をやっていた。彼は一種の寄食者です。乞食になるのはたいへん難しいことですが、それが仏教の忍辱の徳で、忍辱の徳ができたらいろいろなことができるのだという考えなのです。だから私は、茶髪の子に奉仕の義務化より托鉢を、乞食をやらせるほうがよっぽどいいと思っている。彼らにとってどんなに難しいか。
 ―― 戦時中の体験を持った世代にとって、「勤労奉仕」と言葉にすれば、すなわち天皇に対する奉仕を意味するのですか。
 梅原 それははっきり言えます。私は軍事施設に行かされて飛行機の発動機を作りました。そこで空襲に遭って死にかけましたから、戦争をどう味わったか人によるかもしれませんが、戦中派は奉仕≠ニ聞いたらほんとうにぞっとするのです。吉本隆明氏もそれは同じ。池田大作氏ですら奉仕にこだわると言ったのは、戦中派にだいたい共通の感覚ですよ。そしてそんなことで人間はよくならないです。
 「勤労奉仕」で人間がよくなるとは全然信じられない。奉仕というのはボランティアでしょう。まず信仰があって奉仕するというのならわかりますが、「奉仕の義務化」とは矛盾する言葉です。
 そして、これは私の考え方ですが、明治以降の日本の天皇制は仏教的であるよりも多分にキリスト教的だったという気がします。一神教的で、絶対的。靖国神道なんていうものは、国家主義に改造された神道で、とても伊勢神宮と一緒にできない。伊勢神宮の神道は御遷宮の儀式で明らかなように、生命の継続の崇拝を中心においているのです。
 私は、中曾根内閣の設置した靖国懇談会で議論したときは、公式参拝には反対だったのですが、その理由は、靖国神道は日本の神道とは言えないのではないかということです。例えば古事記には、出雲大社を伊勢神宮より大きくつくったとある。出雲大社は自分たちがやっつけたかつての権力者を祀る神社です。その人たちの霊を慰める神社を自分たちの祖先の神社より大きくつくった、それが日本の神道なのです。
 もしそれを近代に生かすのだったら、まず日本のした戦争の犠牲になった中国や韓国の人たちのための神社をつくるべきです。それから靖国神社をつくるならわかるけれど、そういう戦争で犠牲になった敵の人を祀る神社をつくらず、自国のために死んだ人間を祀るなど、日本の神道の精神に背くというのが私の考えです。懇談会の中にも、宗教家など私の理論に賛成する人がだいぶんいたのですけれどね。
 ―― 靖国はずっと朝敵は祀らないのですね。
 梅原 それで東条英機を、戦犯を祀った。私は戦争中、どうせいずれは靖国に行かにゃならないだろうが、彼らと一緒には行きたくないと思いましたね。戦争が始まったということに関しては、いろいろ予測はあったのだからしかたないとしても、あの絶望的な戦いを継続した人は許せない。そのために何百万人がむなしく死んだのですから。特攻隊なんていうものを発明して、前途のある若い人を殺した。運動神経が鈍くて落ちましたが、私も特攻隊に志願しましたよ。私は、靖国神社に、特攻隊に私たちを行かしめた人間と一緒に祀られたくないと思った。
 ―― 小泉首相は、苦しいときには特攻隊のことを思うと言い、八月には公式参拝を考えているようですが。
 梅原 絶対にいけません。特攻隊に行こうと思った人間が言っているのです。特攻隊を発明したやつとは絶対一緒にいたくない、靖国には行きたくないというのが私たちの気持なんですよ。もう自分は死ぬよりしようがないけれど、早く戦争をやめたほうが日本人は助かるのに、こんなに命を無駄遣いした人間は許せない、そう思った人が靖国にたくさんいますよ。
 小泉さんはだいぶ人気があるだけ危険ですね。だいたい首相に人気があるときにこそ危ないことが起こる。近衛も東条もそうですよ。
 
いまこそ「脱亜入欧」批判を
 
 ―― 世代が変わってみんな実際の戦争を知らないからこそ、小泉さんのような発言が出てきてしまう。靖国公式参拝や教育基本法の改正にしても、再び国家の存在が強く出されつつあるように感じます。
 梅原 たいへん危険な動きです。私は、現在のいちばんの危険は、S・ハンチントンが言う「文明の衝突」だと思います。ハンチントンは、イデオロギーの対立が終わって文明の対立が起こるという。西洋文明を代表するアメリカとアジア文明を代表する中国、そしてアラブ、イスラム世界。イスラムと中国が提携してアメリカに対立するのではないか。
 私は彼と話したことがあるのですが、文明の対立の危険性を警告することによって、それぞれの間に話し合いの場を醸成しようという意図を持っていると思います。しかし、このような理論は、逆に対立をさらに醸成するという面を持っているのです。
 確かに彼の言うように、いま、世界のさまざまなところで宗教の対立がたくさん起こっています。もし、中国とアメリカとの衝突が起こったとき、日本はどうするか。歴史を見ると、明治時代は日英同盟、次は三国同盟、それから日米安保条約と、いつでも世界最強と思われた国についている。だから中国とアメリカの間を右往左往するにちがいない、とハンチントンは書いている。
 私が「あなたは日本の文明を中国と異なる文明だと、八大文明の一つに評価したことは日本人としては非常に名誉だけれど、日本の政治については評価は低い。日本は近代化に成功する一方でアジア文明にも根ざしているのだから、米中の対立が起こったときにはその間に立って、仲介の役割をとるのが日本の使命ではないか」と言ったら、ハンチントンは「それはあなたが首相にでもならない限り無理ですね」と笑いましたが(笑)。
 小泉さんがとる路線はそういう対立を助長しますよ。平和憲法を守っていてこそ日本自身が対立の仲裁ができる地位にいることができるのです。
 韓国の李御寧さんの言葉ですが、なぜハンチントンは日本を八大文明の一つに加えたかというと、西洋の味方になるからだという。そういう考え方もあるかと思ってびっくりしたのですが、そうなったら脱亜入欧ですから、いよいよ日本は第三次大戦の可能性を助長することになってしまう。そうではない、近代の国民国家を超えた、新しい時代の国家理念、これこそ日本の憲法の理念なのです。いまの改正に向けた動きは国民国家の方向へ行っている。つまり歴史の未来を見ていない。
 歴史教科書問題にしても、ワールドカップが日韓共同開催されることになり、韓国が日本文化を解禁して親日の空気が生まれたときに「つくる会」のような教科書をつくるなんてとんでもないことです。いままでの日本の歴史の教科書には歪みがあったかもしれないけれど、また昔の日本国家に帰るような動きには、私は反対です。政治的にもものすごく愚かだと思いますね。その愚かさを国民は認識しなくてはいけない。
 私は、いま福沢諭吉の脱亜入欧論を批判しなくてはならないと思っています。入欧については、民主主義など確かにいいことを言っている。しかし、アジアに対する侮蔑はどうしようもない。また福沢諭吉の道を進んだら危険です。
 ―― しかし日本はまた脱亜入欧の方向に向かっているようです。
 梅原 だから日本ペンクラブとしてもきちんと発言していく必要を感じています。私はこれまで「右」の人間だといわれてきたのですが(笑)、護憲派というのはだいたいマルクス主義の人々だったのですね。ところがマルクス主義の人々が力を失った、となったら物を言う人がいなくなってしまった。私は、自分の思想として護憲論者です。これは新しい人類の理想だと考えています。イデオロギーとしてマルクス主義を使わないと戦えないのではだらしない(笑)。
 私はイデオロギーを信じない。信じるのは私の思想のみです。もっと多くの日本人が自分の頭で物を考え、行動してほしいと思いますよ。(聞き手・編集部 岡本 厚)
 
「教育改革国民会議」に対する憂慮
 われわれ文筆に携わるものは、国の教育のあり方について関心をもたざるを得ない。
 政治家及び高級官僚の汚職、かつて聖職といわれた教師、警官、医師の不祥事、何らの道徳的反省なき少年による殺人などのおぞましい事件が相次いで起こるにつれ、誰しもその原因の一端は教育にあり、教育の改革が必要であるという思いをもとう。かくてわれわれもまた、首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」に多大の期待を寄せたのである。ところが去る九月二二日に発表された中間報告を見て、われわれの期待は裏切られたばかりか、このような「教育改革国民会議」によって方針が決められる日本の教育の前途について、深い憂慮を抱かざるを得なくなった。
 教育を改革するには、明治以後の、特に戦後の教育がどのような長所と短所を有し、いかにしてその長所を伸ばし、短所を改めるか、そして二一世紀の世界がどのような課題をはらみ、そこで日本という国家がいかなる役目を果たすべきかを活発に討議し、そのうえで首尾一貫した哲学にもとづいて国家百年の教育の計を立てねばならないであろう。
 しかるに中間報告はそのような討議が行われた痕跡すらとどめず、たまたま思いつきとして出された提案を羅列したにすぎないという感を与えられるにとどまった。わが日本ペンクラブはまったく自由な意思によって参加した文筆に携わる人によって成り立っているので、この一七の提案に対する意見もさまざまでもあるが、二つの点においてわれわれの意見はほぼ一致したのである。
 一つは、中間報告の結論の部分で示される教育基本法の改定に関する意見である。教育基本法は、「日本国憲法を確認し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする」理想によって作られたものである。しかるに中間報告は軽率にも、当時とは著しく異なる現在の社会状況の中では教育基本法は改定さるべきであると断定している。しかしこのような理想は決して五〇年や六〇年で古くなるというものではない。教育基本法には伝統を尊重するということが盛り込まれていないという意見もあるが、教育基本法の精神は、日本の伝統のゆかしさを教えることと矛盾するものではない。
 それゆえ教育基本法の改定は、少なくとも結果的には、教育基本法と密接不可分な関係にある日本国憲法の改定という政治戦略の先棒を担ぐ危険をはらんでいる。憲法改定の是非はともかく、このような必ずしも民意によって選ばれているとはいえない「教育改革国民会議」のメンバーによって日本国憲法の外堀が埋められることは、民主主義の否定以外の何ものでもなかろう。
 もう一点、われわれが深い憂慮を感じるのは、小中学校で二週間、高等学校で一ヶ月間の奉仕活動を行い、やがて満一八歳の国民すべてに一年程度の奉仕活動を義務づけるという提案である。
 現在の日本の教育は知の教育に偏し、何らかの意味で身体を使う教育が必要であることについてはわれわれの多くが賛同するところであるが、奉仕活動の義務化、特に一八歳の国民すべてに一年間の奉仕活動を義務づけることについては強い危惧を感じる。もともと奉仕活動はボランティア、すなわち自発的意思にもとづいて行われるべきことであり、法により義務づけられるべきものではない。そして一八歳の国民の一年間の奉仕活動の義務化は、教育基本法の改定と並んで、将来の徴兵制への地ならしを行うものであるという疑惑を否定することはできない。
 なお文筆に携わる者として、われわれはこの中間報告の文章の拙劣さを指摘せざるを得ない。皮肉にもその文章は、改定を要求されている教育基本法の簡潔にして論理的、しかも理想にあふれる文章に比して、それが各委員から出された提案をとりまとめたものであるとはいえ、あまりにも知性と品格を欠いている。それゆえ最終報告は、座長自らが筆をとり、現代日本における各界を代表する識者による会議の結論にふさわしいものたらしめることを望みたい。
二〇〇〇年一二月一五日 社団法人 日本ペンクラブ
会長 梅原 猛
◇梅原猛(うめはら たけし)
1925年生まれ。
京都大学文学部卒業。
立命館大学教授、京都市立芸術大学教授、同学長を経て、国際日本文化研究センター所長。現在、国際日本文化研究センター顧問。哲学者。


 
 
 
 
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