国語はその国の文化を伝える言語である。とりわけ、日本語は二千年以上前の文字のない時代から使われ、中国から漢字が入ってきた後も、もとの大和言葉を失わず、漢字を見事に活用してきた歴史をもつ。
日本に生まれた子供たちには、この日本語をまず習得させることが教育の基本である。そうしなければ、子供をしつけられないし、歴史や文化を伝えることもできない。算数や理科などの授業も、子供に日本語の理解力がないと進められない。国語力は最も大切な基礎学力といえる。
今の文部科学省には、そうした問題意識が薄い。来春から実施される新学習指導要領では、国語の授業時数も他の教科と同様、現行より三割減らされる。その代わり、新設の総合学習の時間を使った英会話の授業が小学校三年から入ってくる。英語を耳からなじませようというのだが、国語をなおざりにした早期英語教育は疑問である。
国語の軽視は教育現場にも見られる。大阪府の小学校では、外国籍児童への配慮を理由に、時間割を「国語」とせず「日本語」と表示していた例が明るみに出た。日教組は国語の授業を「日本語教育」と呼んでおり、同じ例はかなりあるようだ。肝心の日本人児童への配慮を欠いた安易な名称変更と言わざるを得ない。
英語学者の渡部昇一氏は近著「国民の教育」で、若い時期から俳句や和歌などで大和言葉を学び、日本人の伝統的な心や感覚を身につけることの大切さを訴えている。数学者の藤原正彦氏は今月、東京都内の教育シンポジウムで「国語を通じて日本人としてのアイデンティティーを持たせるべきだ」と強調した。
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