1997/02/26 産経新聞夕刊
【日刊じゅく〜る】462号 エリート教育のすすめ(下)
◇21世紀の日本を支える人材とは
「国として、エリートは明らかに必要だ。二十一世紀はあらゆる分野でエリートが必要となる。各分野で優れた指導者を養成しなければいけない」
中央教育審議会(中教審)会長を務める有馬朗人・理化学研究所理事長は断言した。だが、こうも続けた。
「ただ、今の日本で『エリート教育をしましょう』と言ったら、大半の方が反対するでしょう。中教審の中でもエリート教育は否定的な意味で使われている。エリート教育と言うと、官僚や政財界のトップになる人を育てることを指して嫌がられるのです。しかし、物理や数学など自然科学がよくできる人を選んで特別な講義をすることについては、皆さんは『好きなんだからしようがない』と、文句はあまり言わないのではないでしょうか」
「エリート」にも二種類あるということだろう。一つは、スポーツや音楽、自然科学系などに優れた才能を持っている者、もう一つは、トップの官僚や政治家、財界人を指す者だ。そして日本でも、前者を育成することについては、抵抗が薄れてきた、あるいは必要性を認める声が出てきたということか。ただし、有馬理事長は言った。
「やはり、よく出来る子を特別なクラスで教えるとしたら、日本の教育の根底にある平等思想は破らなければいけないでしょう」
戦後の平等主義的教育に風穴を開けるような動きはいくつか出始めている。例えば、大学三年から大学院への飛び級は平成元年度に制度化され、すでにいくつかの大学で実施されている。しかし、こういった飛び級をしたエリートたちを受け入れる土壌が整っているわけではない。まだまだ“出るくいは打たれる”風潮がある。
二月初旬に行われた、ある国立大学大学院の修士論文の発表会でのこと。大学三年から飛び級で大学院に進んだ大学院生(二十三)が、こう漏らした。
「教授陣から厳しい質問をされました。他の院生は五分程の質問で終わるのに、僕のときは質問が十五分ぐらい延々と行われました。期待も大きいので、つぶれそうになります。後輩たちに、飛び級はあまり勧められません」
現在、中教審で審議されている、数学や物理の分野で特に優れた才能を持つ高校生を対象に、十七歳での大学入学を認める飛び級についても異論を唱える人が少なくない。薄田泰元・日本PTA全国協議会会長は言う。
「数学と物理に限ることには、あまり賛成できない。科目を特定すべきでないと思う。親たちが『数学さえ出来れば何とかなるのでは』という考えや『他の生徒よりも一歩抜きんでればいい』という意識をこぞって持つかもしれない」。今の「偏差値エリート」育成競争と同一ベクトルの競争が起きることを危ぐしているのだろう。
また、エリート教育そのものに反対する意見もある。
「二十一世紀は少子高齢化社会で、さまざまな人とともに生きていく社会だ。社会の連帯意識が強まっているときで、『強ければいい』という考えではやっていけない。二十一世紀はエリートを求める時代ではないし、ごく少数を育てるエリート教育には反対だ。総理大臣に皆がなれる可能性がある社会が民主的な社会だ」
日教組の山中正和・副委員長はエリート教育を、こうきっぱりと否定し、「限られた能力だけを伸ばすのは、本当に伸びることにはならない」と語った。
千葉大学の宇佐見寛・教育学部長も、特異な才能を持つ高校生の大学への飛び級を認める同大学内での動きについて、こう語る。
「日本の場合、所定の単位を取れば卒業できるという課程制を採用しなかったのは、学校で社会的な経験を積むことが必要という考えがあるからだ。才能のある子には高校の授業以外に才能を伸ばす機会を保証すればいい。大学の『科目等履修生』などで十分だ。早く、狭くやればいいというものではない。それよりは、高校の三年間で文学などの教養を蓄えておいてほしい」
突出した才能を持つ人材の育成に関する議論が進む一方で、「社会のリーダーを育てる」エリート教育論議はほとんど進んでいない。日本では、どういったエリート教育が望ましいのかも白紙状態だ。“手本”は、どこに見つければいいのか。
パリ政治学院(シアンスポ)に準研究員として一年間留学した経験を持つ拓殖大学の永井良和教授は、「(エリート教育を受けた)フランスのエリート官僚は試験勉強で忙しかったせいか、文学的素養とか一般的な教養に乏しい人が多い」とマイナス面を指摘す。
もちろんプラス面もある。フランスのエリート官僚養成機関「国立行政学院」(ENA)に留学した通産省の八幡和郎・情報管理課長は、「日本版ENA」の創設を提唱する。「制度をそのまま日本に適用できると思わないが、公務員試験のあと、二、三年ほどの初任研修を合同で行い、終了時に各省庁に配属してはどうか。共通の基礎的経験を持つことによって、(エリートに不可欠な)倫理観を相互に育てることができる」
イギリスのエリート教育はどうだろうか。英国パブリック・スクールから、その伝統の秘けつを学ぶために幾つかの名門校を視察した慶応義塾高校の松原一宣教諭は、「英国のエリート教育は日本で目指すものとは違うし、日本の社会にも合わない。しかし、エリートを養成するために学ぶ点はいろいろとある。いい点を取り入れながら、日本におけるエリート教育というものを完成させていかなければいけない」と語った。
「このままでは日本は財政的にも経済的にも、社会的にも行き詰まってしまう。何とかしなければいけない。二十一世紀の日本をよくしようという有為の青年を募り、リーダーを育成する場を提供しよう」
今のままではダメだ、とだれもが気付き始める前に、すでにいち早く手を打った人がいる。故・松下幸之助さんだ。松下さんは今から十八年前、政治家の養成や政策提言機関として財団法人「松下政経塾」を設立。モデルになったのは、江戸末期に高杉晋作や伊藤博文を輩出した私塾「松下村塾」だ。「松下村塾」ではとくに系統だった学問は行われておらず、学派にとらわれない自由な雰囲気の中で、教育が行われていたという。
「松下政経塾」でも特別なカリキュラムはなく、「自修自得」と「現地現場主義」の基本方針のもと、それぞれの研究実践テーマに沿って、各自が自由に研修を行っている。岡田邦彦塾頭は「自分自身でものごとを考え、組み立て、実践していくという当たり前のことを行っているが、それが今の高等教育に欠けているものだ」と説明した。
岡田塾頭は「ここでは海外のエリート教育のようなものは行われていない。しかし、リーダーになれる資質を持った人が集まり、国内では行われていない教育が行われている意味ではエリート教育かもしれない」と言う。同塾(卒業生総数百五十四人)は国会議員十四人、地方議員二十三人、市長一人を世に送り出している。
「創立当初は時代からはみ出していたかもしれない。政経塾がかなり批判的に見られることもあった。しかし、今は時代の方が追いついてきたと感じている」と、岡田塾頭は話した。「政経塾」は社会のリーダーを養成するという日本のエリート教育における先駆的な存在かもしれない。
会田雄次・京都大学名誉教授は言う。
「明治維新という時代が坂本竜馬や高杉晋作などの“変革の担い手”を呼んだように、今、時代が必要とする人を一生懸命呼んでいる」
変革の時代となる二十一世紀に日本が繁栄するためには、“変革の担い手”をはぐくむ『真のエリート教育』に取り組むことが今、必要とされている。明治という時代は教育で興った。二十一世紀の日本が教育で滅びることのないようにしなければならない。 (水沼啓子)
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