同じ言葉でも、相反する意味に解釈されることがある。学校教育の多様化という言葉がそうだ。文部省など行政側は個性重視、画一教育からの脱却と位置付け、教育改革の合言葉にしている。一方、現場の教師の中には、選別・差別と同じような意味にとらえ、拒否反応を示す人も少なくない。なぜ、こうまで受け止め方が異なるのか。理念と現実の落差から生じたといえる。
中学校の選択科目の拡大、高校のコース制、単位制など、制度面の多様化は「個に応じた教育」につながっているのか。残念ながら、そうとは言い切れない。それどころか、学ぶ意欲に乏しく、基礎学力不足の生徒が増えている。とりわけ、高校は「エリート校」と「教育困難校」の二極構造になり、個性的な学校作りには程遠い。
こうした現実を直視せず手をこまねいていては、多様化路線は説得力に欠け、別の意図があるのでは、と勘ぐられても仕方がないだろう。教育の多様化は個性重視としても、長所が生かされる半面、短所の克服がおろそかにされたり、「できる子」はより伸びるが、そうでない子は放置されたりする危険性が付きまとう。とはいっても、多様化路線は推し進めるべきであろう。大事なのは多様化−個性重視を阻んでいる元凶を断つことだ。いうまでもなく「偏差値輪切り」の一掃である。子供たちが学力の限られた部分をテストで点数化されたうえ、偏差値で振り分けられ、学校も序列化されるのは個性重視の教育とは無縁であるからだ。
秋田市で開かれた日教組の教育研究全国集会では、不思議なことに「脱偏差値」への強い決意は感じられなかった。教師も加担者であるという後ろめたさがあろうが、惰性にながれ事の深刻さに鈍感になっているといえば言い過ぎだろうか。偏差値容認の理由に「先生の主観の入る内申書よりも客観テストによる偏差値を」の声が父母に根強いことを挙げる報告があった。周りの動きに身構え、一歩も踏み出せない無気力な教師像が目にちらつく。教師は外部の意見に耳を傾けることが大切だが、自分なりの考えや信念があるなら、それを自分の口で語るべきだ。現実に正面から立ち向かう情熱と主体性がない限り、現場からの改革は無理だ。
時代や社会は変化する。変化の深層を読み取り、次代をイメージする作業が教育には欠かせない。学校五日制や新しい学力観などから「ゆとりと創造の教育」が展望できるのか、教育現場の自由かっ達で、熱っぽい論議と質の高い実践を期待したい。
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