2003/01/14 読売新聞朝刊
[社説]岐路の日本 教育を再構築せよ 戦後思潮のゆがみを正す時だ
◆理念倒れの「教育改革」
受験が子供たちを息苦しくし、そのストレスが成長をゆがめている。受験のための画一的な授業が、子供たちから創造性を奪っている。個人の尊重という理念も受験競争で実現できなかった……。
戦後の教育では、長らくそう信じられてきた。詰め込み授業が批判され、「ゆとり」や「個性化」が教育改革のスローガンとなったのには、そうした認識が背景にあった。
今や、少子化で、受験競争は緩和された。教科内容、授業時数の削減で「ゆとり」は実現し、履修科目の選択拡大などで「個性化」への道も開かれた。
本来であれば、子供たちは、「ゆとり」を生かし、自立した「個」になっていなければならない。自ら学び考える学習に意欲を燃やしていていいはずである。
しかし、現実はどうだろうか。
不登校の小、中学生は昨年度、過去最高となり、暴力行為も増加している。
「うそをつく」「授業をさぼる」などの行為を、「してはいけない」と考える中学生の比率は、日本、アメリカ、中国三か国のうち、日本が最も低い。
文部科学省の全国学力調査で、子供たちの学力低下も明確になった。学習意欲の低さ、学校外での学習時間の少なさは国際的にも目立つ。
◆「個人」強調の弊害
戦後教育の欠陥が、あらゆる面で浮き出てきている。
戦後、教育理念の中心概念となってきたのは「個人」だ。「教育の憲法」と言われる教育基本法は、「個人の尊厳」「人格の完成」を高らかに掲げた。「ゆとり」「個性化」もそこからきている。
だが、基本法でいう「個人」は抽象的でありすぎて、実際には力にならなかった。むしろ、「ゆとり」や「個性化」の過度の強調が、弊害を生んだ。
学校では、子供の学力差を直視せず、「できないのも個性」との言い方すらされた。「指導より支援」とされ、教えるべきことも教えない事態も招いた。
日本青少年研究所の調査で、日本の子供は「自己決定」を最高の価値観としていることが分かった。だが、少女売買春を持ちかける少女らが「自分で決めた」と強弁する姿からは、未熟な思いこみしか伝わってこない。
個人の尊重は大切だ。だが、現実にはそれが個人偏重となり、悪平等主義と結びつき、教師の教育放棄、子供の身勝手といった形のひずみを生んできた。
問われるべきは、自己決定ができ、自発性を発揮できるような個人を、どのようにして形成するかだ。
「規範の外在性」という言葉がある。自分の外にある規範を取り込み、内面化することの大切さを示している。学習も先人が蓄積してきた知識体系を身につけなければ、進みはしない。
GHQ(連合国軍総司令部)のコントロール下で制定された基本法には、個人をどのように形作っていくかという道筋は示されていない。
◆基本法改正が急務だ
同法からは、愛国心、伝統、宗教、家族などが、抜け落ちている。日本人としてのアイデンティティー形成が、意識的に排除されている。
日本人のナショナリズムを抑え込むための措置だった。だが、個人を超える大事なものがあることを知らないままで子供が自らを律するのは難しい。
自らの文化の基盤を軽んじては、独創性も身につけにくい。
中教審が昨年末、同法改正に向けた中間まとめを発表した。抜け落ちていた要素を取り入れ、子供に愛国心や伝統を尊重する心を植え付けようとしている。遅きに失した感は否めないが、歓迎すべき動きである。
改正については、「いじめなどを解決する決め手にはならない」との反対意見もある。だが、様々な教育課題について対症療法を施すのではなく、根本から教育を立て直すには、基盤となる理念がどうしても必要となる。
日本人としてのアイデンティティー形成なくして、子供たちは、自らの判断基準を持ちようがない。それこそ自信と誇りのない根無し草になってしまう。
よって立つ国家と文化を確認し、その上で他の国と他文化を尊重する態度を養うことが大切だ。
土台のないところに抽象的な個人を打ち立てようとした、砂上の楼閣とも言うべき構造こそ、戦後教育にゆがみをもたらした根本原因である。
基本法の改正が、急務だ。早急に法を改正し、しっかりしたバックボーンを持つ個人を育成していく手だてをつくすことである。
個の確立や体系的な知識の獲得が難しい、今の国際化、情報化時代にこそ、それが求められる。
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