1999/01/06 読売新聞朝刊
[社説]進路を開く 真に個性が輝く教育改革を
◆「飛び入学」で大学が変わった
十七歳の大学生が千葉大工学部に誕生して十か月になる。高校二年から「飛び入学」した三人のその後を尋ねられると指導教官は思わず目を細める。
一年生の正規の授業が終わった後、三人は金曜を除く毎日、午後六時までたっぷりと数学、物理、語学などの特別セミナーを受ける。将来、学会でディベイトしたり、論文を書いたりするときに役立つようにと、英語の授業はほとんどマンツーマンだ。
夏休みには語学の勉強を兼ねて一か月近いアメリカ研修も行われた。英語力と、将来の研究者としての自覚が、ともに目に見えて身に着いて来ているという。
まったくの特別扱いだが、これによって三人が他の学生から浮いてしまったというようなこともない。それどころか、三人のための特別セミナーを一般学生にも開放したところ、二十人から三十人が詰め掛け、満席状態が続いている。
講義中の私語はもちろんなく、講義が終われば質問が次々に飛び出す。教える先生たちはボランティアだが、教えがいがあると希望者が増えているそうだ。三人の存在が大学自身をも少しずつ変え始めている。そう言ってもよさそうなのである。
教育における個性重視の原則が強く打ち出されたのは、八五年の臨教審第一次答申だった。「これまでのわが国の教育の根深い病弊である画一性、硬直性、閉鎖性、非国際性を打破する」とうたい、教育改革の最も重要な原則とした。
◆古くて新しい個性重視の課題
人間は一人ひとり違う。能力の伸長が早い者から遅い者まで、発達の時期も速度も人によって違う。その違いを認め、それに応じて教育していくべきだというのが個性重視の教育だ。
飛び入学はこうした考えの延長にある。「稀有(けう)な才能を有する者」にその才能をさらに伸ばす機会を与える。それは、やがて世界に通用する研究者を生み出し、「科学技術ただ乗り論」を克服する道にもつながる有意義な試みだ。
ところが、国際的には当たり前のこの飛び入学に、だれもがもろ手を挙げて賛成したわけではなかった。高校が非協力的で、応募はわずか十一人に過ぎなかったことを思い起こさなくてはならない。千葉大に続く大学もいまだに現れていない。
文部大臣の諮問機関、大学審議会ではこんなことがあった。諮問にあった「国際社会でリーダーシップを発揮できる人材を養成するため、学部に大学院進学コースを設ける」という項目に、昨年秋に出た答申はひと言も言及しなかったのである。
エリートやリーダーの養成につながることを神経質なまでに忌避する風潮がここに明らかだ。形式的な平等を求めて、能力や個性に着目した教育を差別とする考えが長く戦後の日本を支配してきたためだろう。臨教審答申の言うわが国の「根深い病弊」は、十数年を経た今もなお深刻だ。
◆「戦後民主主義」の殻を捨てよ
極端な例が、昨年、文部省の調査で明らかになっている。広島県の一部地域で半数以上の中学が、通知表の原簿となる指導要録の一部記録を記入していなかったのである。評価することが差別につながると主張する教員がいたためという。
個人の進度に応じた習熟度別授業を差別だとする考えも根強くある。東京都では昨年、習熟度別授業をするための教員を特別配置されながら、実際には計画通りに実施していなかった都立高校が七十校もあったことが発覚した。
あちこちに残る「戦後民主主義」の殻を洗い落とさなければならない。横並びを心地よく思う親にも問題がある。意識改革が必要な時期だ。
ただ、タブーに挑もうとするあまり、改革の方向を誤っては何にもならない。一部で徹底した受験指導を売り物にする公立高校を新設しようという動きが始まっている。これがいい例だ。
現在の大学入試と言えば、パズル並みの空欄埋めや、本質とは無関係なさ末な知識で一点を争うのが現実だ。そんな試験を目標にするというのである。
「受験エリート」と、社会の資産となるエリートとは違う。科学技術の基礎研究での立ち遅れ、さらには官僚の腐敗などを通じて、わたしたちはそのことを痛感させられたのではなかったか。
これからの子どもに求められているのは受験知識の多寡ではない。豊かな独創性と確固たる自律心だ。それを身に着けるために必要なのは、能力、関心に応じて、伸び伸びと学ぶ教育環境である。
こうした勘違いをなくすためにも、大学入試改革は急がなければならない。個々の大学がゆとりを持って個性を見極められるよう抜本改革が必要だ。
◆違いを認める大切さ教えよう
それぞれの分野で伸びそうな子どもは伸ばし、不得手な子どもには基礎、基本を繰り返し学ばせる。昨年公示された新しい学習指導要領の基本精神だ。
言うまでもないことながら、ここには、個に応じた教育が伸びる子だけを対象とするものではないことが示されている。
算数が得意な子もいれば体育や音楽が得意な子どももいる。いじめ、校内暴力、学級崩壊などは、多くの場合、子どもは均質であるという建前の押し付けに起因している。単一の物差しを捨て、互いの違いを尊び合い、自らの生き方を見つけさせることこそ、今後の教育の目指すべき方向だ。
すべての子どもにとって、学校は、楽しく生き生きと過ごせる場にならなければならない。それは、この国に、すべての人々がそれぞれに輝いている社会を実現することに通じている。
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