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1996/02/06 読売新聞朝刊
[社説]「学校」を問い直し始めた教師
 
 教育は、学校と教師の独占物でなくなっている。あるいは、型にはめがちな学校と多様な生き方を求める子供たちとの間に、大きなギャップがある。こうした事実に、教師集団が改めて気づき、ようやく自らのありようを問い直しつつある。
 これが、大阪で開かれた日教組の教育研究全国集会で受けた印象である。しかも、そうした認識を頭だけでなく、身体で直接受け止めようとしている感もする。
 日教組は昨年の定期大会で、運動方針を現実路線へと大転換した。今回、四十五年ぶりに文部大臣からのメッセージが寄せられたり、シンポジウムに文部省の課長が参加したのも、その現れだろう。
 だが、「対話と協調」は、何よりも地方と学校レベルで構築されて、初めて意味のあるものになる。今年の教研集会で芽生えた教師の意識変革の兆しが、さらに広がっていくことを期待する。
 今、学校が抱える最重要課題は、多発するいじめと登校拒否にどう対応するかにある。この問題を集中的に論議した特別分科会は、従来の「内輪の論議」から、「外の声」を積極的に聞く方式を取った。
 いじめが原因で登校拒否をしている子や母親の訴え、父と中学生の娘によるリポート、カウンセラーや弁護士による助言。これら学校の外からの批判や注文にさらされることで、教師と組合そのものが「教育研究」の対象になった感がある。
 自分の人生は自分で決める自由があるはずだ、「皆同じ」を強いるところにいじめの温床がある、教師は学習権を保障すると口では言いながら、生きる権利や基本的な人権を侵害しているのではないか。
 こうした「学校を疑う」生の声に、教師がじかに接したことの意味は大きい。
 それが、「学校全体で問題を共有する体制ができていない」「これからは子供の声を聞くことから始めよう」「子供と一緒に悩み、考えなくては」などといった参加教師の発言につながったと考えたい。
 むろん、今回の集会で、いじめ・登校拒否の問題解決への突破口が開けた訳ではない。だが、少なくとも、原因を他に求める体質は変化してきたようだ。文部省批判さえしていれば事足りる、という光景も影を潜めた。このことは歓迎していい。
 学校は、上昇志向の手段としての「将来の投資」の場から、今を十分に、かつ多様に生きることをも求める「現在の自己実現」の場へと、その性格を変えつつある。自分らしさや自分なりの意味・個性を認めてほしいという要求が背景にある。
 そのために、この数年来の教育行政は、中央の規制を緩め、地方教委や、学校、教師の裁量にゆだねる部分を増やし、同時に子供の学ぶ自由を認める方向にある。
 この自由化路線は、教師には、「腕の振るいどころ」である反面、高いモラルと自己責任を伴うものと言っていい。
 個々の子供や親から、直接学校に向けられる要求は、今後も高まっていくだろう。その自覚が、今、すべての学校と教師に求められている。

 
 
 
 
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