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1993/03/18 読売新聞朝刊
教科書論議は新視点で 近現代史の対立超えて(解説)
 
 教科書検定の是非をめぐって二十八年間争われてきた第一次家永教科書訴訟が、原告側全面敗訴で終わった。戦後教育史を貫く論争だったが、激しい左右対決の構図に巻き込まれた訴訟だった。いま、新たな地平を切り開く教科書論議が求められている。
 解説部 勝方 信一
 裁判が始まったのは昭和四十年。東京オリンピックの翌年だった。当時は激動の時代。三十年、日本民主党が「偏向教科書」を問題にした小冊子「うれうべき教科書」を発表。三十五年、第一次安保闘争。三十六年、全国一斉学力テストの実施と日教組の反対運動と続いていた。そうした時代背景の中で家永三郎・東京教育大名誉教授の高校用教科書「新日本史」への三十七、三十八年度検定が行われ、訴訟となった。
 一教科書の記述だけでなく、国が教育に介入できるかどうか、戦後教育の枠組みそのものが争点となった。原告側は「国の教育権」対「国民の教育権」との問題設定をした。そして今回の最高裁判決。
 菱村幸彦・元文部省初中教育局長(現・放送大学学園監事)は「教育的に考えて不毛な論議だったのではないか。国民の教育権といえば言葉はいいが、結局は教師集団が国の基準を無視して教育のあり方を決めようとした。教科書にもイデオロギッシュなものが随分あった」と振り返る。
 一方、山住正己・教科書問題を考える市民の会代表(都立大人文学部長)は「戦後、教師は父母、地域住民、研究者と協力して教育を作り上げようと、生き生きと動いた。それを国が統制しようとして対立が起きた。一九六〇年代には文部省の気に入った人しか教科書を執筆できなかった」と話す。
 根深い対立の構図。その中で、検定の座標軸のとり方が公正かどうか疑わせることが随分あった。検定で公害企業名が削除され執筆者などの抗議で検定終了後、企業名が復活したことがある。やはり検定の後、韓国、中国などからの抗議で追加修正を重ねたこともある。「文部省の恣意(しい)的な検定」への批判は広い層にあった。
 逆に、「皇国史観教科書」として六十一年度検定で問題になった日本史教科書があった。このとき、家永氏は記者の取材に「立場は違うが、検定で落とせとは口が裂けても言えない」と語り検定否定の筋を通したが、高校現場では組織的な採択妨害もあった。教科書問題は常に、価値観の対立を先鋭化させてきた。
 対立の激しい分野について、教育現場では詳しく教えることを敬遠する傾向もあった。アジア諸国に日本が被害を及ぼしたことに触れざるを得ない近現代史について、駆け足で済ます教師も多かった。訴訟とは別に、そうした不幸な対立に見直し機運が起きつつある。検定基準の見直し、検定過程の公開などのほか、冷戦構造終結の影響をみる見方もある。山住氏は「検定がよくなってきた面は確かにある」とし、菱村氏も「これからは堅い法律論ではなく教育の論理で」と言う。
 近現代史教育の必要性は各方面から語られ、大学入試にも多く出題されるなど、対立の多かった分野でのコンセンサスもできつつある。こうした流れを具体化するよりよい教材のあり方を探ることが、長い訴訟を不毛な対立のままに終わらせない道だろう。
 同省OBにもいろいろな意見がある。「国立のカリキュラムセンターを作って、様々な教育のあり方や教材を開発し、高校については教科書検定を廃止してはどうか。高校生には教科書を唯一の教材とせず、教師が自由に工夫する教育が望ましい」。中島章夫・元同省初中局審議官(現・教育未来研究所長)はそう提言する。

 
 
 
 
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