長谷川氏は「主権が最も発揮されるのは、憲法制定の過程だ。国民主権を柱とする以上、日本国民の力で制定されることが不可欠だった」と述べ、占領下における憲法制定過程に問題があるとの認識を示した。
国民主権は十八世紀のフランスの政治家・シェイエスの「第三階級とは何か」ではっきり語られている。国民主権がどういう歴史的経過で形成されたかというと、十八世紀に起きたフランス革命や米国独立によってだ。そのため国民主権は、二つの勢力が国内で争う内戦によって形成されたものとして闘争的概念といわれるが、日本は内戦はなかった。だから、感覚的にとらえにくいのは自然なこと。わかりにくいということを、素直に国民主権という原理にぶつけていくことが大事ではないか。
日本国憲法の制定過程は、困った制定過程だった。だから見ないようにしてきた。直視すると、(憲法制定後の)われわれの五十年はどうなるのかということになる。納得するのは大変難しいことかもしれない。
国会議員が責任を負って全国民を代表することはゆるぎない原則だ。両院の選挙制度は全国民の代表を選ぶにふさわしい多様な民意を反映される制度であるべきだが、小選挙区制は死票を増やし、ふさわしくない制度。参院の新制度(非拘束名簿式)も、個人名でも党名でも投票可能で、極めてわかりにくい。
現在は、国の統治の基本的事項にかかわる憲法改正が必要と提起されてはいない状況だ。むしろ、選挙制度や政治資金規正法などの分野での改善の余地が大きい。改めるべきは憲法か、法律制度や運用なのかの検討を行うべきではないか。
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