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1997/02/21 産経新聞朝刊
【教科書が教えない歴史】(232)日本国憲法(16)
 
 一九四七年(昭和二十二年)三月に制定された教育基本法の前文には、日本国憲法の理想の実現は根本において教育の力にまつべきものであるとうたってあります。ですから、日本国憲法を正しく普及するためにも、教育は重要な役割を担うはずでした。それでは、新憲法のもとでの教育はどう変わったのでしょうか。
 みなさんは教育(きょういく)勅語(ちょくご)を知っていますか。正しくは「教育ニ関スル勅語」といい、一八九〇年(明治二十三年)、明治天皇によって出されたものです。
 「爾(なんじ)臣民父母ニ孝ニ兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ夫婦相和(あいわ)シ朋友(ほうゆう)相信シ(あいしんじ)」(父母に孝をつくし、兄弟は仲良く、夫婦はなごやかに、友達は信頼しあい)などと、社会のなかで人々が仲良くしていくことを説いた天皇の言葉です。
 国民のことを「臣民」と呼びかけたりするなど、明治憲法下らしい表現でできていますが、その内容は国の内外に照らしてもけっしておかしくない、どこの国の人々も守るべき徳目が中心となったものです。戦前の学校では、この教育勅語が入学式や卒業式に捧読されて教育の中心に位置づけられていました。
 この教育勅語を、主権在民の日本国憲法のもと、どう扱うか、憲法改正の帝国議会の審議でも大問題になりました。
 現在の教育の中心になっている教育基本法の制定を実質的に推し進めた文部大臣、田中耕太郎=写真=は、憲法改正審議の帝国議会で、民主主義の時代になったからといって教育勅語が意義を失ったというような見解は政府としてはとらない、と述べていました。
 しかし、主権在民の日本国憲法のもと、従来どおり教育勅語をそのまま教育の中心におくことはできません。それゆえに田中は教育基本法の制定を考えたわけです。それは教育勅語のよさも引き継ぐ普遍的な正しい教育を打ち立てることでした。
 この考え方は教育基本法が制定されるその瞬間まで引き継がれ、一九四七年三月、教育基本法を審議・制定した最後の帝国議会では、そのときの文部大臣高橋誠一郎が、教育勅語とこの教育基本法との間には、矛盾と称すべきものはないと答えていました。
 教育勅語はもともと、法律としての性格をもたない明治天皇の個人的著作物といえるものであり、その内容には正しいものがあるから、教育基本法としては教育勅語を直接否定することはできない、と考えていたのです。
 ところが、一九四八年(昭和二十三年)六月、占領軍は国会に強要して教育勅語を教育からいっさい排除する決議を行わせました。この決議はたとえ私立学校でも聖書を教育に使ってはならないというような、それ自体無効とも言うべき乱暴な内容のものでした。この乱暴な決議を占領軍は日本に押し付けたのです。この決議によって戦前の教育のよい部分を引き継ぐことも困難となり、道徳の基本を軽視した偏った教育しかできなくなりました。
 日本国憲法のもと、教育勅語を教育の中心に置くことはできません。だからといって、教育からいっさい排除すると決議するのは、教育勅語の内容に傾聴すべきものがあるだけに、教育の逆の偏(かたよ)りを強制することになります。
 こうして、憲法を正しく普及するための教育自体が歪んでしまったのです。残念なことだったといわざるをえません。
 (武蔵野女子大教授 杉原誠四郎=自由主義史観研究会会員)


 
 
 
 
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