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1996/03/19 読売新聞朝刊
[明日への条件―日本総点検]第2部憲法再考(1)プライバシーの危機(連載)
 
◆知らぬ間に名前使われ
 一九四六年(昭和二十一)十一月に公布された憲法は、今年で満五十歳となる。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の基本理念は定着し、戦後の繁栄に貢献してきた。だが、冷戦が終わって世界の枠組みは変わった。環境破壊やプライバシーの侵害など新しい問題も起きている。個人の自由や権利の保護の一方で、公共の利益は忘れられがちだ。政治・経済・社会の動揺の底にあるゆがみや矛盾は、憲法にまでさかのぼった国の在り方の見直しを迫っている。年間企画「明日への条件―日本総点検」の第二部は、暮らしの体験を通して憲法を再考する。
 一通のダイレクトメールが、川崎市に住むAさん(41)と中学一年の娘との関係を気まずくしてしまった。娘が何気なく開けたところ、出てきたのはわいせつなビデオのカタログと申込用紙。以来いくら弁明しても娘はよそよそしい。
 「頼んでもいないのに、なんでウチに」といぶかるうち、以前、レンタルビデオ店で成人向けビデオを借りたことがあるのを思い出した。入会申込書を取り出すと、「貸し出し状況をもとに、各種サービスや情報提供を受けることに同意する」との条項があった。
 レンタルビデオ店が持つ会員情報には高い商品価値がある。職業や年齢に加え、借りたビデオから個人の好みまで分析したデータを使えば、様々な企業のダイレクトメールの名簿として活用できるからだ。
 レンタルビデオの最大チェーン店「TSUTAYA」(増田宗昭社長)の場合、千三百万人の会員情報を「名簿ビジネス」に利用している。子会社がメーカーなどから依頼を受け、会員名簿から選んだ相手にダイレクトメールを代行発送しているもので、売上高は年間十三億円に達する。毎年二ケタの伸びだ。
 同様の名簿ビジネスは、クレジットカード会社や通信販売会社、銀行なども手掛けている。消費の多様化時代の隠れた成長産業だ。
 プライバシーの配慮はどうなのか。TSUTAYAは「子会社が送り先リストを作って発送する。リスト自体は依頼企業に直接見せない」(増田社長)と自信をみせるが、他社となると、「データを外に流しているところが皆無とは言い切れない」と歯切れが悪い。
 東京・新橋の雑居ビルにある「名簿図書館」(田村武男館長)には、年収や銀行口座まで書き込まれたローンの申込者名簿や、年収二千万円以上の夫を持つ主婦のリストなどが、百平方メートルのフロアに所狭しと積み上げられている。「集める方法は企業秘密だが、雑誌のアンケートの応募者リストを、出版元の社員が持ち込むこともある」(田村館長)。毎日、建設・不動産、保険などの社員ら三十―五十人が訪れ、名簿をコピーしていく。ほとんどがダイレクトメール用らしい。
 プライバシーを巡る問題は名簿ビジネスだけではない。テレビのワイドショーや写真週刊誌などの、肖像権、人権トラブルは後を絶たない。日常生活でも、都市化に伴う近隣関係の崩壊のせいか、いざこざが増えている。法務省人権擁護局によると、近所に誤ったうわさを流されたといった訴えは、九四年は千五百件近くに上り、五年前に比べ二割以上も増えている。
 情報化時代を迎え、パソコン通信でのトラブルも多くなった。ある女性会員が、会員が見る「電子掲示板」に中傷的な書き込みをされたと相手会員を訴えたり、会員同士のやり取りが別の会員によって電子掲示板に無断で公開され、訴訟ざたになったりしている。
 憲法にプライバシー保護の明文規定はない。日本の裁判でプライバシー権が初めて認められたのは、三島由紀夫氏の小説「宴のあと」を巡る東京地裁判決(六四年)だが、その根拠は個人の尊厳に関する憲法一三条で、人格権の一分野とされた。
 「個人の権利」はこれまで、国家や権力からいかに個人を守るかという面からの議論に終始してきた。憲法二一条の「通信の秘密」も、検閲など公権力の介入禁止の意味だというのが通説だ。プライバシー問題のような「個人による個人の侵害」という新しい現実への対応は遅れている。
 欧米ではプライバシー、個人情報に関する保護法を制定しているが、日本はクレジット、通販などの業界団体が独自に個人情報の管理についてガイドラインを策定しているだけだ。
 「憲法にプライバシーに関する明確な規定を設け、法的体制をきちんと整えることが必要」(堀部政男・一橋大法学部長)な時代に直面している。(経済部 青木秀也)
 
◆読売「憲法改正試案19条」
 (人格権・プライバシー権)
 〈1〉何人も、名誉、信用その他人格を不当に侵害されない権利を保障される。
 〈2〉何人も、自己の私事、家族及び家庭にみだりに干渉されない権利を有する。
 〈3〉通信の秘密は、これを侵してはならない。


 
 
 
 
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