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1996/01/22 読売新聞朝刊
貴族院小委筆記要旨 現行憲法はいかに作られたか 占領下、揺れた制審議会
 
 憲法改正特別委員小委員会の顔ぶれ次の通り(五十音順、敬称略。会派、年齢は第九〇帝国議会開会時)。
 
◇貴族院小委の顔ぶれ
浅井 清(50)=交友倶楽部。勅選。在任46・7―47・5。
 法博。慶大教授(憲法)。
浅野 長武(50)=火曜会。侯爵。在任40・12―47・5。
 内務省嘱託、学習院講師。
飯田精太郎(61)=公正会。男爵。在任35・12―47・5。
 運輸通信事務次官。参院当選一回。
織田 信恒(56)=研究会。子爵。在任28・7―47・5。
 外務参与官、農林政務次官。
川村 竹治(74)=交友倶楽部。勅選。在任22・6―47・5。
 和歌山、香川、青森県知事、犬養内閣司法相。
下條 康麿(61)=同成会。勅選。在任40・12―47・5。
 経博。内閣賞勲局総裁。参院当選2回。のち第二次吉田内閣文相。
霜山 精一(61)=無所属倶楽部。勅選。在任46・3―47・5。
 東京地裁判事、大審院長。
高木 八尺(やさか)(56)=同成会。勅選。在任46・9―47・5。
 法博。東京帝大教授(米政治史)。
高柳 賢三(59)=研究会。勅選。在任46・6―47・5。
 東京帝大教授(英米法)。のち政府憲法調査会長。
田所 美治(75)=同和会。勅選。在任18・9―47・5。
 文部事務次官。
橋本 実斐(さねあや)(55)=研究会。伯爵。在任31・11―47・5。
 農林事務官、文部政務次官。のち大磯町長、尚友倶楽部理事長。
牧野 英一(68)=無所属 倶楽部。勅選。在任46・3―47・5。
 法博。東京地裁判事、東京帝大教授(刑法)。
松本 学(59)=研究会。勅選。在任34・11―47・5。
 内務書記官、静岡、鹿児島、福岡各県知事。
宮沢 俊義(47)=無所属 倶楽部。勅選。在任46・6―47・5。
 法博。東京帝大教授(憲法)。
山田 三良(さぶろう)(76)=無所属倶楽部。帝国学士院会員。在任43・12―47・5。
 法博。東京帝大教授(国際私法)、国史編修院長。
 
◇主な政府側出席者
吉田 茂(67)=首相。衆院議員当選7回。
金森徳次郎(60)=憲法専任国務相、貴族院議員。内閣法制局長官。のち国立国会図書館長。
小林 次郎(54)=貴族院書記官長、貴族院議員。のち初代参院事務総長。
〈「自己偽瞞」〉
 
◆「やむなし」 憲法学者の宮沢俊義東大教授 自主性の抵抗も限界
 貴族院・憲法小委の秘密メモ(筆記要旨)は、戦後五十年と憲法を考えるキーワードを提供している。
 それは、一人の委員が発言した「自己(じこ)偽瞞(ぎまん)」という四文字である。
 「憲法全體ガ自発的ニ出来テ居ルモノデナイ、指令サレテ居ル事實ハヤガテ一般ニ知レルコトト思フ」
 「此處デ頑張ッタ所デソウ得ル所ハナク、多少トモ自主性ヲ以テヤッタト云フ自己偽瞞ニスギナイ・・・」
 貴族院修正のポイントは、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の要求に基づく憲法第六六条の文民条項挿入だった。小委には、貴族院のプライドと自主性を重んじる雰囲気が濃厚で、憲法審議が終盤にさしかかっていたこともあり、手直しに反対の意見も多かった。
 紹介した発言は、勅選議員・宮沢俊義委員の「六六条修正やむなし」(第三回小委)の賛成意見である。
 宮沢氏は、当時、少壮の東京帝国大学法学部教授。一九七六年に亡くなったが、戦後、憲法学界をリードし、現在でも、その学説の影響は大きい。憲法学の泰斗(たいと)と目される存在である。
 教授は、「第九条ですべての軍隊を否認したのだから、首相や閣僚を文民に限定するのは意味がない」という見解だった。もっとも、GHQの要求なら、無意味ではあっても、結局は受け入れざるを得ない。自主性をタテに抵抗したところで、貴族院の言い分が通るわけでもない。
 「自己偽瞞」と発言した「さめた心境」を分析すれば、こんなところではなかったか。
 GHQ占領下のあきらめと、ある種の「割り切り」は、程度の差こそあれ、各委員共通の感情だった、と推測できる。
 宮沢氏は一九四六年(昭和二十一)二月、GHQが憲法草案を示すまでは、日本側の改正案起草の中心人物だった。部分的改正論者で、GHQに提出して拒否された憲法改正要綱も、旧憲法の一部を手直しした改正案だった。
 ところが、この年の五月、「八・一五革命説」を月刊誌に発表。国体の変更(天皇主権から国民主権)を打ち出したGHQ草案を「革命」と称して理論付けた。部分改正から超憲法的変革論に立場を変えて、「新憲法」を容認、対応したわけである。
 宮沢氏の一部発言や経歴を取り上げて、「変節した」などと主張するつもりはない。この時点では、やむを得ない選択だったともいえる。
 反面、宮沢氏が定着させた「自衛隊違憲説」は、現在でも、憲法学界の通説である。
 戦後五十年を経て、多くの憲法学者は、第九条をはじめ、憲法の問題点や古さを指摘する。だが、「改正」の声はおろか、見直しの議論さえ聞こえてこない。憲法論議を正面から取り上げている政党もない。
 GHQ指令による「自己偽瞞」の呪縛(じゅばく)と戦後の惰性が、今なお続いているようだ。
 最近の世論調査では、国民の半数が、憲法改正の必要性を認めている。閉塞(へいそく)状況から抜け出る「思い切り」こそが、貴族院メモの教訓ではないだろうか。
(調査研究本部 加藤孔昭)
 
◆1946年第90帝国議会貴族院 勅選で学界の権威ズラリワンマン首相も一目置く
 衆院とともに帝国議会を構成した貴族院。予算先議権を除き、衆院とは対等の権限を与えられていたが、貴族院議員は一般国民の選挙で選ばれた衆院議員とは性格も大きく異なっていた。特に、一九四六年の第九〇帝国議会は、公職追放によって生じた勅選議員枠の欠員を補うため、憲法改正案審議を前提に、多くの一流の学者が議員に選任されたこともあり、学究的雰囲気も漂わせていた。
 貴族院議員は、〈1〉皇族〈2〉公爵・侯爵〈3〉伯爵・子爵・男爵の互選議員〈4〉勅選議員〈5〉帝国学士院互選議員〈6〉多額納税者互選議員――などから成り、計約四百人。皇族は成年、公・侯爵は三十歳になると、自動的に終身議員になった。勅選議員は定員百二十五人と定められ、内閣が推薦、天皇が任命した。
 この九〇帝国議会では、勅選議員枠で、南原繁東大総長、憲法の佐々木惣一京大教授のほか、憲法改正特別委小委のメンバーになった高柳賢三、高木八尺、牧野英一、宮沢俊義の各東大教授、浅井清慶大教授ら錚々(そうそう)たる学者が新任された。
 当時の貴族院の雰囲気を物語るエピソードがある。特別委で審議中のある日、安倍能成委員長と佐々木氏が貴族院書記官長室で会談したが、「要は委員会運営の改善の話なのに、驚いたことにドイツ語でやり合っていた」。同席した河野義克氏(貴族院委員課長)の証言だ。
 憲法改正審議も「学者議員」がリード。主権の所在を巡る問題では、宮沢、佐々木両氏らが、「天皇をあこがれの中心として統一されてきた、という意味での国体に変化はない」という政府の説明に納得せず、「天皇が君臨し統治権を総攬(そうらん)する」という国体の変化を認めるよう求めた。
 政府もこうした貴族院に意を用い、小委には衆院段階では出席しなかった吉田茂首相も出席した。
 ただ、貴族院も占領下という制約を免れなかった。当時の貴族院議員、水野勝邦氏は生前、「討論して勝ったとしても、総司令部は必ずしも受け入れてくれない。議員もただ政府を追いつめるのではなく政府と共に苦しむ心境となった」と述懐している。小委筆記要旨にも、「我々の本意はこの憲法を初めから全部お断りしたい所であるが、それはとても出来ない」(田所美治氏)などの発言が随所にある。
 貴族院は翌四七年五月三日の現行憲法施行に伴う貴族院令の廃止で五十八年間の歴史の幕を閉じた。(政治部 遠藤 弦)
 
◆幻の「国民審査削除」
 現行憲法では、最高裁判事は任命後初めて実施される衆院選などの際に、国民審査を受けることになっている。貴族院帝国憲法改正案小委員会は、この規定の削除を議決したが、国民審査に代わるものとして、任期制や国会の同意、リコール(解職請求)制などを検討していたことが、筆記要旨から読み取れる。報告を受けた特別委では、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の圧力もあり、結果的に削除を見送っただけに、憲法制定後も議論が続く結果となった。
 国民審査をめぐる小委の議論は霜山精一氏が初日の九月二十八日、「裁判官は罷免をおそれて良心から出る裁判に影響を来す。法律の判断は国民に容易に分かるものではない」と口火を切った。この削除論に同意する声が圧倒的に多く、議論は主に国民審査の是非よりも、むしろ国民審査をやめた場合、裁判官への「民主的統制」(宮沢俊義氏)をどう担保するかとの観点で展開された。
 霜山氏と牧野英一氏は再任を認める十年任期制を提案。しかし、「任期満了ごとに内閣から影響されるおそれがある」(宮沢氏)、「アメリカの最高裁には、八十、九十歳の裁判官がいる」(高柳賢三氏)との反論が出された。
 また、松本学氏が「任命は国会の同意を要する」との規定を盛り込むよう提案。しかし、金森徳次郎国務相が「裁判官を国会に隷属せしめることになる」との見解を示すと、これもトーンダウン。米国で裁判官に適用されているリコール制も話題になったが、「裁判官を政治家化する」(高柳氏)との否定的意見が多かった。このため、国民審査の代替措置については方向性が得られないままとなった。
 これに対し、国民審査の必要性を明確に主張したのは山田三良氏のみ。同氏は「裁判官をして反省させるために必要である。民主化するに伴い、国民も裁判に関心をもち、裁判の当否を批判する力を持つに至る」と強調した。
 こうした空気から、橋本実斐委員長は十月二日、国民審査の削除を「全会一致で可決」と取りまとめた。しかし、特別委に審議が移ると、司法の民主化を図るGHQは、国民審査の削除を認める二つの条件として「国会の承認制または選任制」「任期制」を要求。特別委ではこの条件への拒否反応が強く、国民審査の削除を盛り込んだ修正案は否決された。
 今では「裁判官に対する最後の統制手段たるレファレンダム(国民投票)制」(山田氏)として定着したが、出発点でのこうした議論は国民審査の意義を改めて考えさせるものがある。(政治部 藤井 敬久)


 
 
 
 
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