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1996/01/22 読売新聞朝刊
[社説]「文民条項」審議に漂う無力感
 
 文人、文治人、文官、非軍人、文臣、平人、凡人、文化人、平和業務者・・・。
 現行憲法の第六六条第二項は、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」となっている。その「文民」という言葉が採用されるに至るまでの翻訳上の苦労の跡である。
 占領軍総司令部(GHQ)から提示された英語の「シビリアン」に相当する日本語がなかったからだ。
 日本語にない言葉を作りだすことさえ強いられたという点で、いわゆる「文民条項」は、現行憲法の“押しつけ”的性格を象徴的に物語る部分といってよい。
 貴族院の「帝国憲法改正案特別委員小委員会筆記要旨」が、やっと公開された。
 同小委の審議状況は、複数の関係者による審議メモが非売品出版物などの形で出され、すでに概要が知られてはいた。それでも、公開された筆記要旨を改めて読むと、GHQから提示された憲法草案を「自発的制定」との建前の下で審議しなければならなかった日本側の屈折した複雑な心境が、また生々しく浮き上がってくる。
 「文民条項」は、衆院段階の第九条(戦争放棄)審議と密接に関連している。この第二項に「前項の目的を達するため」と付け加えられた「芦田修正」を、GHQの上部機関である極東委員会が軍隊復活の可能性を意味するものと見て、衆院採択案に追加挿入するよう要求してきたものだ。
 審議最終段階でのこの要求に対し、同小委内に抵抗ムードも生じた。筆記要旨には、拒否できないかどうかをめぐって論議された模様が記録されている。
 しかし、結局は、「抵抗しても無駄」とあきらめることになる。たとえば、戦後憲法学界の“泰斗”的存在の一人となった宮沢俊義委員の発言――。
 「憲法全体が自発的に出来ているものでない・・・。重大なことを失った後でここで頑張ったところで、そう得る所はなく、多少とも自主性をもってやったという自己欺(ぎ)瞞(まん)にすぎないから・・・」
 こうした審議経過を見ても、現行憲法は“押しつけ”ではないとする主張が、事実から目をそむける“自己欺瞞”でしかないことは明らかだ。
 もちろん、“押しつけ”だったという理由だけで、現行憲法のすべてを否定すべきではない。国民主権、基本的人権の擁護、平和主義などは、今後とも堅持しなくてはならない人類普遍の原理である。
 だからといって、現行憲法を一字一句も変えてはならない、というのは、あまりにも硬直した憲法観である。憲法は「聖書」や「経典」ではない。
 「護憲」という言葉だけで思考停止してはなるまい。憲法と現実との関係を常に点検しながら、人類普遍の原理を活性化していくための憲法見直し作業を怠らない精神こそが、真の「護憲」である。
 憲法が公布されてから今年で五十年になる。制定経過をも冷静に振り返りつつ、自由かつ柔軟な精神で憲法論議を進める年となることを期待したい。


 
 
 
 
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