1992/12/10 読売新聞朝刊
憲法と現実のズレ見直し 憲法問題調査会第1次提言の全文
〈委員の略歴〉(50音順、敬称略)
◇猪木 正道(いのき・まさみち)
平和・安全保障研究所会長。京大教授、防衛大学校長など歴任。主な著書「評伝・吉田茂」など。会長。
◇北岡 伸一(きたおか・しんいち)
立教大教授。プリンストン大客員研究員(八一―八三年)。主な著書「国際化時代の政治指導」。
◇斎藤 鎮男(さいとう・しずお)
元国連大使。前青山学院大教授。外務省国連局長、インドネシア大使などを歴任。
◇佐藤 欣子(さとう・きんこ)
弁護士。東京、横浜地検検事、内閣官房参事官などを歴任。近著「お疲れさま日本国憲法」。
◇島 脩(しま・おさむ)
読売新聞論説委員長。外交強化懇委員、第三次行革審専門委員を歴任。著書「有事にっぽん」(共著)。
◇田久保忠衛(たくぼ・ただえ)
杏林大教授。国際政治学。時事通信外報部長など歴任。主な著書「米ソ覇権の構図」など。
◇田中 明彦(たなか・あきひこ)
東大助教授。専門は国際政治。著書に「世界システム」など。
◇西 修(にし・おさむ)
駒沢大教授。比較憲法論。主な著書「各国憲法制度の比較研究」など。
◇西広 整輝(にしひろ・せいき)
防衛庁顧問。同庁防衛局長、事務次官など歴任。防衛の専門家。
◇三浦 朱門(みうら・しゅもん)
作家。日本文芸家協会理事長。芸術院会員。元文化庁長官。
◇宮田 義二(みやた・よしじ)
松下政経塾長、鉄鋼労連最高顧問。同労連元会長。主な著書「指導力」。会長代理。
◇諸井 虔(もろい・けん)
秩父セメント会長、経済同友会幹事、経団連、日経連各常任理事。
[はじめに]
◆日本の地位は変化
日本国憲法の制定は一九四六年のことであった。世界大戦は終わったばかりであり、冷戦もまだ顕在化していなかった。その後冷戦の時代を経て、ソ連は崩壊し、アメリカもかつての圧倒的な力を失いつつある。世界は新しい国際秩序を求めつつ、二十一世紀に向かっているが、未来はまだ混沌(こんとん)としている。
憲法制定当時、日本は独立を失って連合軍の占領下にあり、侵略国として世界から排斥され、国連への加盟も認められなかった。しかし、現在の日本は、戦前と比べ、はるかに豊かで、自由で、民主的で、平和な国家となった。憲法制定当時、世界の一%にも満たなかった日本のGNP(国民総生産)はいまでは一五%に達している。現在の日本は、世界の安定と発展に最も大きな役割を期待される国のひとつとなっている。
このような大きな変化にかかわらず、日本国憲法は一度も改正されていない。それはひとつには、この憲法が多くの長所を持っていたからであろう。象徴天皇制は、日本の伝統に合致したものであり、よく戦後日本に定着したし、基本的人権の尊重は大いに歓迎された。また議院内閣制は、戦前よりもはるかに有効な政治システムであった。憲法第九条が日本の軍備拡大を抑制し、日本の経済発展に寄与したという事実も重要である。この間、憲法改正の提案は、戦前の体制への復帰を意図する勢力からなされたり、あるいはそのような疑いをかけられたりして、国民の強い拒絶にあってきた。
今日、憲法が目指した日本の改革は、すでにかなりの程度実現されている。その一方で、憲法と現実のズレは、のちに述べるように、いくつかの点でかなり大きくなっている。世界と日本の大きな変化を考えれば、いつまでも憲法改正をタブーとしてこれに手をつけないのは、不自然である。やがて成立五十年を迎える憲法を、根本から見直す必要が生じているとわれわれは考える。
いわゆる憲法問題の中には、純粋の憲法問題のほかに、それ以外の法律問題と政治問題が混在しているように思われる。これらを区別し、もう一度憲法を読み直し、憲法で何が規定されていて、何が禁じられているかを確認し、政府その他の解釈の妥当性を白紙で検討すべきだとわれわれは考えた。その結果、解釈の不備、法律の不備、憲法の不備があれば、それぞれを区別して指摘し、何を改めるべきかを率直に指摘したいと考えた。以下はこのような作業から生まれた提言である。
◆新たな役割求める世界 前文の理念、今後も追求
[一、憲法をどう考えるか]
★憲法は超越的な規範ではない
改めて言うまでもなく、憲法は国の最高規範である。しかし、憲法は宗教の聖典ではない。人間が人間のために作ったものに完ぺきはありえない。欠点があればこれを修正・除去していくのは当然である。かつて大日本帝国憲法は、「不磨の大典」と言われ、その改正はタブー視されたが、こうした態度は誤りである。国民は、日本国憲法をただ受け身で守るだけでなく、その主人として、積極的にこれを使いこなすべきである。
★憲法と人類普遍の理想
憲法は、成文法としては最高規範であるが、憲法以上の規範がさらに存在する。憲法前文も、国民主権について、「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と述べていて、憲法より上位の規範の存在を認めている。
また、憲法第九七条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、・・・」と、その歴史性について述べている。
すなわち憲法は、歴史の発展の中から生み出された人類普遍の原理や理想の下にあるものであって、そうした原理や理想に沿って解釈されなければならない。たとえば、仮に憲法に職業選択の自由や両性の平等の規定がなくとも、われわれは職業選択は自由であり、両性は平等だと考えるべきなのである。
★憲法と国際法
憲法以外に、また尊重しなければならない基本法に、国際法がある。条約及び確立された国際法規の順守は、憲法第九八条二項の定める通りである。
憲法と国際法が矛盾する場合には、国際法優位説と憲法優位説があるが、確立された国際法規を成文化した条約や、領土、降伏などを定めた条約は、憲法を制限するとされている。少なくとも憲法が無条件に優位であるという考え方は誤りである。そのような考え方では、今日の世界秩序の維持は不可能である。
したがって、日本の場合、国連憲章やサンフランシスコ平和条約は憲法より優位であり、また日米安全保障条約の基本部分も、少なくともある程度憲法を制限すると考えるべきである。
★憲法と法律
憲法の下位規範として、法律がある。憲法はより高次で改正の難しい法である。しかし時代の変化は、憲法の想定していなかった事態を社会に生み出すことが少なくない。その場合、より機動性を持つ法律を作ることにより、憲法の欠落部分を埋めていくべきである。
★憲法の解釈とその限界
同じ理由によって、憲法の解釈も、また時代とともに変わって当然である。いつまでも古い解釈にこだわるべきではない。
たとえば、アメリカ合衆国憲法が、修正第一〜一〇条(一七九一年)において人民の基本的人権を定めた時、その「人民」とは白人のことであった。しかし、やがて、条文の修正なしに、基本的人権は、人種にかかわりなく認められることとなった。これは、先に述べたように、人類普遍のより高次の規範にしたがって積極的な解釈の見直しを行い、憲法に新しい生命を吹き込んだ例である。ただし、法律で補うにせよ、解釈を変えるにせよ、そこには当然一定の限界がある。憲法の精神と文言と矛盾する法律や解釈は、もちろん許されるべきではない。憲法の精神と条文を超えて強引な解釈をするような、いわゆる解釈改憲は、われわれの目指すところではない。
★まとめ
以上要するに、憲法は、人類普遍の原理や理想をふまえ、また歴史の発展の中で、さらに国際法との整合性に配慮しつつ解釈するべきものである。そして時代の変化に比べて不備なものが出てくれば、解釈の見直しと、法律の制定でこれを補い、機能させていかなければならない。その上で、なおかつ憲法が現実に対応できなくなった時、初めて憲法改正に進むべきであろう。このような現実主義的な対応が望ましいと、われわれは考える。
[二、憲法制定過程をどう考えるか]
ところで、日本国憲法は、日本が占領されている時期に、アメリカの強い影響力の下に作られた。このことをどう考えるべきだろうか。(付属文書・憲法制定過程を参照)
★拙速性
日本国憲法の骨格は、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)の二十人あまりの人々によって、約十日間の作業で作り上げられた。大日本帝国憲法が、七年近い年月をかけて作られたことと比較するまでもなく、極めて短期間の作業であった。しかも彼らは、日本に関する十分な知識を持っていたわけでもなかった。このGHQ草案に基づいて日本政府案が作られたわけであるが、その際のGHQと日本側との交渉も、まことに慌ただしいものであった。
それ以後、議会の審議などにおいて若干の修正が加えられたが、GHQはこれを注意深く見守り、彼らの意図に反する大幅な修正は認めなかった。このような制定経過のために、文章が翻訳調であって、最高規範としてはかなりの違和感があること、そして内部にいくつかの矛盾が残っていることは、しばしば指摘される通りである。
(注)憲法第七条の天皇の国事行為のなかに、「国会議員の総選挙の施行の公示」が挙げられている。しかし、衆議院議員の総選挙はあるが、参議院議員は半数改選の通常選挙であり総選挙ではないので「国会議員の総選挙」はおかしい。これは、当初、憲法が一院制として起草された時の文章が、そのまま残ってしまったものである。
★GHQの意図
同じ経緯から、憲法がGHQの政治的意図に基づいた文書であることを批判する人も多い。たしかに、当時のGHQが日本の長期的弱体化を目指しており、そしてその意図が憲法制定についても作用していたことは否定できない。他方で、憲法草案起草者の中に、彼らなりの理想を盛り込もうとした者があったことも、やはり看過すべきではないだろう。要するに憲法は、日本の非軍事化という政治的意図と、アメリカ流の理想主義の入り混じった文書である。
以上のようないわゆる「押しつけ」性ゆえに、憲法は否定され、改正されるべきだとは、われわれは考えない。実際、冒頭にも述べたとおり、そのような慌ただしい作業の成果としては、憲法はそれなりによくできた文書である。国民主権、デモクラシー、女性の解放、議院内閣制などは、大日本帝国憲法や、日本側で準備された松本烝治委員会案に比べ、はるかに優れているというべきだろう。日本国憲法が、戦争に倦(う)んだ国民に受け入れられ、定着していった大きな理由の一つは、この点にあったと考えられる。
しかし、国民の間に定着しているから改正する必要がない、というのは誤りであろう。人間は、惰性に流されやすいものであり、容易に意見を変えないものである。かつて大日本帝国憲法も、欠点の多い憲法だったが、その改正を考える人は少なかった。
[三、平和・安全保障問題について]
さて、以下では平和・安全保障問題を取り上げる。われわれは、憲法の再検討をこの問題だけにとどめるつもりはない。しかし、すでに述べた現実主義の立場から現在とくに問題の多い分野に、まずわれわれの努力を集中すべきだと考えた。
★平和と国際協調
最初に強調したいのは、日本は道義的にはもちろん、その基本的国益からしても、真剣に平和を追求しなければならないということである。資源に乏しく、国土も狭い日本は、世界の秩序が乱れた場合には脆弱(ぜいじゃく)な国である。世界の秩序と、自由な貿易が維持されて、初めて繁栄しうる国である。世界の秩序と平和は、日本にとって死活的な重要性を持つ課題であり、その追求は真剣かつ現実的なものでなくてはならないのである。
平和・安全保障問題は、日本国憲法に限らず、あらゆる憲法にとって最も根本的な問題のひとつである。ところが、平和・安全保障は、軍事技術の進展、世界各国の勢力関係などによって左右されるところが大きい。平和は、それへの意思なしには実現できないが、意思だけでできるものでもない。これらの技術的、政治的条件に十分な配慮を払った慎重な努力の上に、初めて可能となる。
冒頭にも述べたとおり、憲法制定当時と比べ、国際関係は大きく変化し、その中にある日本の地位も、信じられないような変化を遂げた。憲法制定当時から今日に至る軍事技術の発展についても多言を要しないであろう。今日では、巨大な破壊力を持つ兵器の保有が簡単に可能となっており、したがって平和の維持のためには従来よりはるかに緊密な国際協調が必要となっている。そして日本はその中で大きな地位を占めなければならなくなっている。このような平和・安全保障の基礎条件の変化を考えれば、一九四六年に制定された憲法の平和・安全保障条項を根本的に再検討するのは当然のことである。
★前文と平和主義
まず憲法前文は、その二項において、次のように述べている。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
このうち、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というところは、現実の国際情勢に照らして、やや理想主義的に過ぎるかもしれない。しかし、この部分は全体として平和の重要性を強調し、その追求のために日本国民が真剣な努力をすべきであるとうたったものであり、要するに平和主義の宣言である。日本は今後ともこの理想を追求していくべきであろう。
(注)英語でいうパシフィズムは、平和のために平和的手段のみを取るというむしろ敗北主義に近いニュアンスのものである。ここでいう平和主義とは、もちろんそういうものではない。
これに続き、前文の三項は、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」と述べ、また四項は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と述べている。
この部分も、やはり日本語としてはかなり違和感があるが、内容は立派なものである。これらの部分は、しかも、他国の平和に対する日本の積極的な行動を呼びかけていると読める。
一部に、平和憲法の実績を強調する人があるが、この前文を読む時、日本が本当にこの理想に忠実であったか、むしろ疑問に思うべきではないだろうか。日本は自ら紛争を起こしはしなかったが、世界の紛争解決に大きな役割を果たしてきたわけではない。平和国家としての日本の実績は、決して誇るべきものではない。それは、むしろこれからの課題である。
★第九条一項
第九条一項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めている。
「正義と秩序を基調とする国際平和」の希求は、今後ともさらに続けていくべきものである。なお、湾岸危機において、明白な侵略を行ったイラクに対する武力制裁を批判し、アメリカその他の国々に向かって戦争反対を叫んだ人があったが、これはこの条項に違反するものであろう。平和は、あくまで「正義と秩序を基調とする国際平和」であって、侵略者をかばう平和であってはならない。
続いて一項は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めている。これは一九二八年の不戦条約が、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ・・・国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ・・・宣言ス」と定めていたのを、より厳格にしたものである。
同様の内容は、イタリアなどの憲法や、国連憲章第一章第二条にも定められており、憲章第六章の「紛争の平和的解決」(三三条から三八条)で一層具体化されている。したがって、これは今日では世界の確立された原則であって、とくに日本独特のものではない。なお、ここで言う国際紛争とは、日本の利害に直接かかわる国際紛争のことであることは、もちろんである。また、ここで放棄されたのは、「国際紛争解決の手段として」の武力の行使であって、自衛のための武力行使まで放棄したと考えるべきではない。一部に、自衛戦争と侵略戦争との区別は意味がないという説があるが、この説は誤りであって、両者はだいたいにおいて区別可能なものである。区別困難な部分があるから両者の区別は無意味だというのは暴論である。
以上のように、第九条一項は平和のための重要な規定であり、日本は平和愛好国家として、今後ともこれを順守すべきだと考える。
◆「改正」タブー視するな集団的自衛権行使できる
★第九条二項
日本国憲法の独自性は、何と言っても第九条二項(「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」)にある。
さて、これはいかに解釈されるべきか。一つの立場は、「前項の目的を達するため」を強調し、前項で禁止された「国際紛争解決のため」に使われるような「戦力」は持てないとするものであり、したがって自衛のための戦力は持てるとするものである。第二の立場は、いかなる戦力も否定されるとするものである。
もう一つの問題は、戦力の定義である。戦力は軍事力と同じであり、いかなる軍事力も否定されるとするものと、戦力と軍事力とは別であり、一定の軍事力は許されるとするものがある。政府は、一九五二年当時、戦力とは近代戦争遂行に役立つ程度の装備編制を備えるもの、とし、それに至らない「実力」は認められるとしたが、のちに表現を変え、自衛のための最小限度を超えるものを戦力であるとした。
交戦権については、これが戦争をする権利を否定しているのか、あるいは戦争をする国に認められる国際法上の諸権利を否定しているのか、さらには、一項との重複や矛盾、そして「前項の目的を達するため」がここにもかかるかどうか、などが問題になる。
このように、第九条二項には多くの論点が含まれ、その解釈は多岐にわたっている。しかし、われわれは、以下の三つの点に留意して解釈し、日本が自衛のための軍事力を持つことには全く問題がないと考える。
まず第一にすべての国家は自衛権を持つということである。国連憲章第七章五一条は、すべての国家の「固有の権利」(やはり正文であるフランス語では「自然権」)として、個別的・集団的自衛権を認めている。また、サンフランシスコ平和条約第五条は、日本が、「主権国として国際連合憲章第五一条に掲げる個別的又は集団的自衛の権利を有すること」、そして「集団的安全保障取極を自発的に締結することができること」を承認している。すでに述べたとおり、憲法は人類普遍の原理のもとで解釈すべきであり、確立された国際法は憲法より優位にあると考えるべきだから、日本に個別的および集団的自衛権があると考えるのは当然なのである。
ところで、政府は集団的自衛権について、日本はこれを持つが、憲法上その行使は許されないという解釈をとっている。しかし、まったく行使できない権利とは、論理矛盾である。たしかに集団的自衛権には、乱用される危険がないわけではないが、その制限は法律ないし政策判断によるべきものであり、憲法で禁止しているのではない。少なくとも、一切行使できないとする政府解釈は誤りであると考える。また、現在の高度に発達した軍事技術水準からすれば、国家が一国だけで自衛しようとすれば、大量の報復・抑止能力を持たなければならなくなり、かえって世界の平和を脅かすことになってしまう。個別的自衛権だけに頼るのは危険なのである。
さて、自衛の方法は、普通は軍事力によるものである。非武装不服従その他の軍事力によらない自衛権という説は戦争と平和の歴史を無視したまったくの空論と言わざるをえない。前掲のサンフランシスコ平和条約第五条(C)が、集団的安全保障締結権を認めているのも、自衛のための軍事力を前提としたものである。
自衛のための軍事力が否定されていないとする第二の根拠は、立法関係者の意思である。一九四六年二月三日、マッカーサーがGHQ民政局に示したマッカーサー・ノートでは、自衛のための戦争も明確に否定されていた。しかしそれは、GHQの最終案からは削除された。GHQ内部で、自衛権まで奪うのは行き過ぎだという声があり、それが最終的に支持されたためである。
また、憲法審議過程で、特別委員長の芦田均は、第二項の冒頭に、「前項の目的を達するため」という語句を挿入した。これは自衛のための軍事力を持つための工夫であったと、のちに芦田は証言している。この修正を知った中国、ソ連、オーストラリアなどは、これによって軍事力の保持が可能になると考え、極東委員会において懸念を表明した。
その結果、第六六条二項に文民条項(「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」)が挿入されることとなった。つまり、仮に軍隊が復活して軍人が登場しても、彼らが大臣になれないようシビリアン・コントロールを強化したわけである。GHQはもちろん、その他の諸国も、自衛のための軍事力は認める意向であったことは明らかなのである。
第三に、自衛隊は法律に基づいて存在しており、法律が違憲か合憲かは、最終的には最高裁判所が決めることである。そして最高裁判所は違憲といったことはない。
以上、三つの理由で、自衛のための軍事力は合憲である。憲法が制定された一九四六年には、日本を非軍事化することが、世界の平和につながることだと考えられた。しかし、いまや日本は世界の平和のために新たな役割を果たすべきである。それを前文は要請しているのではないだろうか。
★PKOと憲法
さて、PKO(国連平和維持活動)と第九条の関係について見てみよう。すでに広く理解されつつあるように、PKOは第九条とは関係がない。PKOは、紛争当事者の間に紛争解決の合意ができた後に、その合意達成のために国連が主体となって行うものである。その紛争は、日本の利害のかかった国際紛争ではなく、軍事力の行使や威嚇を目的としていないことはもちろんである。したがって第九条一項にはまったく抵触しない。
PKOについては、日本の自衛のための必要最小限度の軍事力を持つのは認めてもいいが、それを越えてこれを海外に出すことは認められないという反対論がある。これは誤りである。いやしくも自衛力を持ち、それがただちに必要な状況ではなく、しかもそれを使えば世界の平和に貢献できるのなら、これを使うのが当然である。PKOの中心部分は、軍人以外には困難な非軍事活動である。日本の自衛のためでなくとも、これを世界のために使うことは当然のことである。
PKOは憲法成立以後に生まれたものであるから、第九条がこれを想定していないのは不思議ではない。憲法が想定していないから、PKO参加は違憲だという考え方は誤りであることは、アメリカ合衆国の権利の章典の例からも、すでに明らかであろう。
★その他の国連平和活動と憲法
それ以外の国連の平和活動との関係はどうなるだろうか。現在、PKOは急速に広がりつつあるが、そのような拡大されたPKOへの参加をどうするか、また多国籍軍には参加するのか、さらに将来の国連常備軍への参加をどう考えるのか、などの問題があるだろう。これらはいずれも、(一)日本の利益のための行動ではなく、国際的な正当性の確かな行動であり、第九条一項で禁止されている国際紛争の武力解決にはあたらない。(二)同様の理由で、これは二項の交戦権の否認には抵触しない。(三)日本は国連加盟国として、侵略を受けた国を助ける義務がある。このように考えれば、日本は国連の平和維持活動に積極的に参加すべきである。しかし、いかなる国にとっても、軍事力を動かすことは、極めて重大な問題である。本来は、軍の存在とその意義とが、憲法に明記されていることが望ましい。ところが日本国憲法にはそうした規定がないだけでなく、前にも検討したように、第九条二項には多くの論点があって、その解釈は多岐にわたっており、これを統一することは容易ではない。
さらに過去の侵略やアジア諸国の反応を考えれば、憲法解釈上はともかくとして、軍事力の行使を主たる目的とする行動に積極的に参加することには、事実上多くの困難が予想される。
★安全保障基本法の提唱
以上のようにわれわれは、憲法と平和・安全保障問題について検討を進めてきた。しかし、憲法はいぜんとしてわかりやすい存在ではない。その一方で平和と安全保障の条件は大きく変わりつつある。かつては空想的だと思われていた国連常備軍や、それに類する小規模な組織(ガリ国連事務総長の提唱する国連平和実施部隊)についても、現実的な可能性が出始めている。こうした状況で憲法の安全保障関係条項の解釈の混乱を早急に正さなければならないと考える。そのためにわれわれは、別項のような安全保障基本法を作ることを提唱したい。これによって、日本の平和主義を確認し、自衛権とその限界を明確に示し、かつ軍縮を目指す日本の姿勢を明らかにすべきだと考える。
★第九条二項改正の方向
われわれは、ここで提唱した安全保障基本法の制定によって、当分の間、憲法と日本の安全と国際的義務の履行とを矛盾なく追求することができると考える。しかし、将来、世界の平和と秩序を維持するため、日本が軍事力の行使を伴う国際協調に参加することが必要となる日が来ないとは言い切れない。その場合、日本はいつまでも特殊事情を口実に責任を回避し続けるべきではない。従って、自衛隊の存在と、その意義を明確化し、我が国が国連の平和活動、および国連憲章第七章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」で定められた集団的安全保障措置に積極的に参加するために、憲法前文と第九条一項の平和主義を堅持しつつ、第九条二項を改正することが、日本と世界のために望ましい。
[四、その他の問題]
われわれの検討は、平和・安全保障問題が中心であったが、その他にも憲法に再検討を要すべき問題が多々あると考えた。まだ具体案になってはいないが、その主要なものは次の通りである。
一、多くの憲法には緊急事態に関する規定がある。非常時には憲法の一部の実施が制限されることがあるので、これに関する規定の制定を検討すべきである。
一、議会制民主主義における政党の役割の大きさにかんがみ、憲法の中に政党に関する規定を置く国が少なくない。政党の権利と義務とを、憲法の中に盛り込むことを検討すべきである。
一、憲法第八九条は、「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業」に対し、「公金その他の財産」を支出したり、その利用に供したりしてはならないとしている。現在の私学助成は、この規定に抵触することが、ほぼ明白であるが、強引な解釈によって切り抜けているのが現状である。
一、日本には独立の憲法裁判所がなく、合憲、違憲の判断を求めることが極めて難しい。この点で速やかな判断を下し得る憲法裁判所の設置という案があり、検討に値する。
一、環境保護、国土美化の義務の規定の制定も、検討に値する。
一、政治改革、国会改革を進める上で、衆議院と参議院の関係や参議院のありかたなどについて憲法の条項の再検討が必要となる可能性がある。
[おわりに]
憲法が制定されてから、まもなく五十年となる。これほど長く維持される憲法も珍しいが、現実とのズレはやはり徐々に拡大している。永久に続く制度というものはありえない。いつかは改正されることを、否定する人はいないだろう。
明治の初めには、全国いたるところで、私擬憲法(憲法私案)が作られた。日本国憲法に多くの長所があるにせよ、これに対する対案の提示という点で、われわれは、あまりに消極的すぎはしないだろうか。われわれは、一九九六年、憲法制定五十年を目標として憲法論議を盛んにし、遅くとも二十世紀末までに憲法改正を実現するよう提案したい
さきに提唱した安全保障基本法は、そのためのステップのひとつとしての意味を持つだろう。また、国民投票法の制定も必要だろう。憲法改正には、国会の発議と国民の承認が必要であるが(憲法第九六条)、国民の承認のための手続きはどこにも決められていない。安全保障基本法と国民投票法とを早急に制定し、今世紀中の憲法改正に向けて、改正案の提示に進むことを提唱したい。
〈関連メモ〉
国連平和実施(執行)部隊
国連のガリ事務総長が今年六月、国連の機能強化を提言した報告書「平和の課題」の中で創設を勧告した。停戦を強制実施させるためには、護身用の武器のみを携帯する国連平和維持活動(PKO)では不十分だとの考えからで、より重装備であることが特徴。
この背景には、ユーゴ情勢で、国連防護軍を派遣したものの、民兵の重火器の攻撃の前に、停戦協定は次々破られ、安保理が有効な手を打てなかったということがある。
ガリ報告では、軍事力を各国が提供する「国連軍」の常設構想もうたわれている。
《安全保障基本法=要綱》
◆自衛隊に多様な任務
まえがき
いまや、世界の平和と安全保障は、それぞれの国における単独の政策によっては、ますますその達成が困難となりつつある。みずからの自衛のための努力とならんで、安全保障上の利害を共有する諸国との協力、さらには国際連合による平和活動を活発にすることが必要とされている。日本国憲法の精神を生かし、世界の平和を達成し、わが国の安全と生存を確保するため、ここに、安全保障基本法をさだめる。
一、自衛権
日本国は、すべての主権国家固有の権利としての個別的自衛権ならびに集団的自衛権を保持する。
二、安全保障条約
日本の安全保障を確保するために、わが国と密接な安全保障上の利害を共有する国家と安全保障条約を締結することができる。条約締結国と共同で行う防衛行動は、当該安全保障条約の規定に従って行われる。ただし、その行動は、日本あるいは当該国への急迫不正の侵害が発生してから、国際連合による集団措置が効果をあげるまでの間の、必要最小限度の実力手段に限られる。
三、国際連合の平和活動への参加
国際連合による平和活動には、積極的に参加する。
四、自衛隊
自衛隊は日本防衛のための必要最小限の軍事力であり、その任務には上記一から三のすべての活動が含まれる。
五、文民統制
憲法の規定に従い、自衛隊は、厳格な文民統制のもとにおかれる。
六、軍備管理・軍縮
わが国周辺の軍事バランスに留意したうえで、軍備管理・軍縮を各国に働きかける。とりわけ、核兵器等高度破壊兵器の廃絶は、積極的に働きかける。
七、経済協力
わが国の経済協力にあたっては対象国における軍事予算、武器貿易、高度破壊兵器の保持などに留意する。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
「読売新聞社の著作物について」
|