1992/12/10 読売新聞朝刊
日本国憲法の制定過程小史
1945年(昭和20年)8月14日
ポツダム宣言受諾。日本側通知に対する連合国(バーンズ米国務長官名)回答は「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、(中略)連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとする」。〔subject to=従属する〕を外務省は終戦反対派の攻撃をかわすため「制限の下に置かれる」と翻訳。結びは「日本国の最終的な統治形態は、ポツダム宣言にしたがい日本国国民の自由に表明する意思により決定されるべきものとする」。
10月11日
ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官、幣原喜重郎首相会談。マ司令官が憲法改正示唆。
10月25日
憲法問題調査委員会設置(10.27発足)閣議決定。委員長は松本烝治国務相が担当(通称・松本委員会)。
12月8日
第89回帝国議会・衆院予算委。松本国務相答弁。「天皇の統治権総攬(そうらん)の大原則には変更を加えない」など、「憲法改正四原則」を説明。
12月27日
モスクワの米・英・ソ三国外相会議で、対日管理機構である極東委員会(FEC。米、ソなど11か国構成、のちパキスタン、ビルマ参加)設置決定発表。ソ連、オーストラリアは天皇制維持反対。主導権を極東委に握られないようにマ司令官が憲法草案作成を急いだ、といわれる。
1946年(昭和21年)1月7日
米・国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC、「スウインク」)が、総司令部の憲法草案作成の指針となった「日本の統治体制の改革」承認。「SWNCC―228」文書といわれる。戦争の放棄条項は含まれていない。
2月1日
毎日新聞が松本委員会試案スクープ。その保守的内容に連合軍最高司令官総司令部(GHQ)が驚き、改正作業をスピードアップさせるとともに、GHQが作業の前面に立つ一つのきっかけとなった。
2月2日
松本委員会、憲法改正に関する甲、乙両案を審議終了。甲案は、松本委員長が議論をふまえてまとめた小改正案。憲法改正要綱として、2月8日、GHQに渡された。乙案は、委員会の意見を整理した大改正案といわれるものだが、双方とも天皇統治の「国体」維持は共通しており、出発点はすべて大日本帝国憲法(明治憲法)だった。
2月3日
マ司令官がGHQ民政局に憲法草案の起草を命令。起草にあたり次の3点を指示。いわゆる「マッカーサー・ノート」。
〈1〉天皇は元首の地位にあり、世襲である。その職務と権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本意思にこたえるものとする
〈2〉戦争放棄
〈3〉日本の封建制廃止、予算はイギリスの制度にならう。
〈2〉のマ原案は「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」となっていた。
2月4日
GHQで作業開始。10日に終了。2月12日、マッカーサー草案、一部修正して確定。「自衛戦争放棄」の部分は削除。
2月13日
GHQのコートニー・ホイットニー民政局長が、日本側の松本国務相、吉田茂外相に対し、憲法改正要綱(松本案)受け入れ拒否を伝えるとともに、英文による同草案を手交。
2月22日
閣議。マ草案に沿う、政府案作りの方針決定。2月27日、松本国務相、入江俊郎内閣法制局次長、佐藤達夫同第一部長が作業開始。GHQが作業を督促、3月2日、前文を付けない日本文の起草案まとまる。
3月4日
松本、佐藤氏がGHQを訪ね「試案」として提出。GHQは、マ草案そのままの前文を付けるよう要求。さらに「今晩中に確定草案を作成する」と通告。佐藤部長と通訳だけが残り、逐条審議で徹夜。3月5日午後、作業終了。3月6日、憲法改正草案要綱発表。4月10日、第22回総選挙。
4月17日
政府が、憲法改正草案発表(漢字、平仮名交じり、口語体)。
4月22日
幣原内閣総辞職。5月22日、第1次吉田内閣成立。6月8日、枢密院で改正案可決。6月19日、憲法担当の国務大臣に金森徳次郎氏が就任。
6月20日
第90回帝国議会開会。憲法改正案、衆院に提出。6月25日、衆院憲法改正特別委員会を設置。委員長に芦田均氏互選。この後、共同修正案作成のため、芦田氏を委員長とする小委設置。
8月1日
小委の第7回会合で、九条に関する「芦田修正」まとまる。
(政府案) 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない
(委員会案) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。(現在の九条)
8月21日
共同修正案、衆院委可決。8月24日、衆院本会議可決、通過。共産党、無所属2人の計8人反対。
9月24日
マ司令官の指示で、ホ局長が吉田首相に対し、極東委の主張である閣僚のシビリアン条項などを盛り込むよう、要求。貴族院修正となる。
シビリアンにあたる日本語がなく、「文民」が造語された。10月6日、貴族院修正可決。
10月7日
衆院本会議で新憲法案可決、成立。10月29日、枢密院で可決。
11月3日
日本国憲法公布。1947年(昭和22年)5月3日、施行。
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