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1992/01/31 読売新聞朝刊
読売新聞社「憲法問題調査会」初会合の内容 憲法と「貢献の道」探る=特集
 
◆「国際国家」日本の責任
 日本は国際国家として世界の平和、国際的協調に大きな責任を持っています。今や無責任な一国平和主義や一国繁栄主義は通用しないと言えるでしょう。憲法を尊重しなければならないことは当然ですが、わが国としても国連の平和維持活動(PKO)に積極的に参加し、活動する道を探るべきだと思います。この観点から、憲法と国際貢献の関係を幅広く議論するために各界有識者による憲法問題調査会を設置しました。今後、当調査会の論議の内容を紙面で紹介しながら国民世論の喚起に努めたいと思います。
 (司会の播谷実・読売新聞社調査研究本部長のあいさつから)
 
◆タブー恐れず議論を 渡辺恒雄 読売新聞社長・主筆あいさつ
 読売新聞は元来、あらゆるタブーに挑戦することを編集方針にしており、いろんな意見を掲載してきました。この方針には今後も変わりはありません。
 憲法に関して言えば、昔から「護憲」という表現はかっこ良く進歩的であり、「改憲」というと右翼、反動というような先入観念がありました。しかし、最近では湾岸戦争以来の国際貢献問題を通じて、憲法解釈についていろいろ議論されるようになりました。
 憲法問題調査会は、言論機関として国際貢献と憲法の関係をきちんと考え、意見を提案していこうというものです。
 憲法には問題がたくさんあります。九条だけでなく、他の条項でもハッキリした解釈のできないような条項がないわけではありません。
 例えば、財産権と公共の福祉との調和の問題も極めて抽象的です。どのようにも解釈できるので、成田空港建設問題などでも難しい問題が出ています。このように憲法上の解釈が非常に難しいことが随分あると思います。
 集団的自衛権の問題では、サンフランシスコ講和条約、日ソ共同宣言、日米安保条約等に「日本は集団的自衛権を持つことを確認する」とハッキリ明記しているので、私は存在するのではないかと思っています。しかし、それは九条違反だという説もあるし、九条の解釈もいろいろあって九条自体が憲法の前文と矛盾していないかという大きな疑問もあります。
 憲法一四条の「法の下の平等」ということも、憲法解釈上いろいろな議論があります。私は門地とか、身分、家族制度の廃止、そういうことを言うために制定当時はあったのだと思いますが、実際には「一票の格差」の問題に一四条が適用されて、多少行き過ぎの面もあるのではないでしょうか。平等とは何かといったら、キリがない問題になります。
 そういう問題がいろいろあるにもかかわらず、新聞は、憲法記念日に「憲法を守りましょう」という社説だけ書いてきました。新聞自身が非常に及び腰で、今まで憲法の持ってきた矛盾についてはなるべく触れないのがいいという傾向もあったわけです。
 二十一世紀に向かって、この憲法の生い立ちを身をもって知る皆さんや我々がどういうふうに解釈するのかということを、次の世代の人々に引き継がなければなりません。
 そうした考えから、この際、憲法問題調査会をつくっていろいろな角度から自由に議論していただき、適時これを紙上に発表することにしました。国民を啓発するのに役立てば幸いだと思っています。自由な立場からぜひ活発な議論をしていただきたいと思います。
 
《出席の委員》
 猪木 正道:(会長=平和・安全保障研究所会長)
 宮田 義二:(会長代理=松下政経塾長)
 北岡 伸一:(立大教授)
 斎藤 鎮男:(元国連大使)
 佐藤 欣子:(弁護士)
 島   脩:(読売新聞論説委員長)
 田久保忠衛:(杏林大教授)
 西   修:(駒沢大教授)
 西広 整輝:(防衛庁顧問)
 三浦 朱門:(作家)
 諸井  虔(けん):(秩父セメント会長)
 (会長、同代理を除き五十音順、敬称略)
 ▽海外出張中の田中明彦・東大助教授は紙上参加。
 ▽香西茂・京大教授は、健康上の理由で委員を辞退されました。
 
◆不磨の大典扱いは誤り/宮田 義二氏
 私は憲法とか法律はしろうとで一般的な話しかできないのですが、現在の日本の憲法は「不磨の大典」(永久に伝えられる憲法の意で大日本帝国憲法の美称=広辞苑)になっているのではないか、改正することがタブーになっているのではないか――というのが私の率直な感想です。
 しかし、「不磨の大典」というのは誤った考えだと思います。世界が大きく転換し、いろいろな情勢が変わってきている時に、いつまでも同じ憲法でなければいけないというのはおかしい。いろんな意味で不都合があるとするならば、やはり国民合意によって憲法を改正する仕組みを、少なくとも明確にしておく必要があるのではないかと思います。憲法改正をタブー視しないということをまず考えておくべきです。
 憲法の中身のどこをどうするかという問題の前に、私は(各議院の総議員の三分の二以上の賛成で発議し、国民投票の過半数で承認を得るという憲法改正の手続きを定めた)九六条にポイントを置きたい。この九六条をめぐっては、憲法改正権の限界説なるものがこれまで何回か議論されたように記憶しています。
 例えば、「国民主権」については変えてはいけないという意見があったり、戦争放棄を定めた九条も改正権の限界の範ちゅうに入るので改正は許されないという意見もあります。また、改正の手続きそのものもほとんど法律化されておらず、国民投票法といったものは日本に存在しないし、作ろうという発想もありません。
 つまり、この九六条によって、憲法改正が不可能な状況になっているわけです。その関門をまずくぐらなければ、いくら憲法改正の論議をしても、手続き上いろいろな問題を起こすのではないか。だから、限界説は本当にあるのかどうか、あるとすれば何なのかをキチッと整理したうえで、中身の議論に入っていただけるとありがたいと思います。
 
◆有効でない非軍事主義/北岡 伸一氏
 憲法は人間が作った制度です。人間が作った制度には、必ず欠点があります。特に人間社会の現実がどんどん変わっていくと、ズレが広がるのは当然です。世界はどうあるべきか、日本はどうあるべきかという課題に照らして、憲法を柔軟に解釈し直し、場合によっては条文そのものを作り直すことが必要だと思います。
 実は、戦前、日本はこういうことはできず、修正はタブー視されていました。大日本帝国憲法があって、その下に法律と勅令があって、さらに内規、先例があって、そのどれもが動かしてはいけないもののようになっていました。
 例えば、統帥権とか、軍務大臣現役武官制などが、いかに日本の自由な政治の運営を妨げたかはご承知の通りです。憲法の修正は許されない、また憲法によって理論化された国家の仕組みは動かせないという戦前の憲法観は、非常に奇妙なものです。
 ところが実は、今日の憲法にもそういう傾向があり、これをいじることに強い抵抗感があると同時に、世界に冠たる憲法だという妙な議論もあります。これが、積極的な国際協調のあり方にブレーキになっているのではないかとの印象を持っています。
 憲法の平和主義は、むしろ前文に盛られているのであり、九条は正確に言えば非軍事主義だと思います。昭和五十年代前半まで、日本が非軍事に徹することは世界平和の役に立ちましたが、それは非常に消極的な平和主義です。世界の中で現在の地位を占めるに至って、さらに積極的な平和主義に転換する必要があるのではないでしょうか。
 そのためには、非軍事主義を貫くことが有効とは言えません。つまり、憲法九条の厳格な非軍事的解釈と平和主義とは両立しなくなったのだと考えています。
 
◆日米安保条約も視野に/斎藤 鎮男氏
 まず、憲法の基本的性格を詰める必要があります。憲法が制定された占領下の敗戦国の立場と、国際貢献の役割が量、質とも高まっている今の日本とでは大きな変化があり、第二次大戦の結果である国際情勢も大きく変化しています。日本自体の変化と国際環境の変化を前提に「不磨の大典」をどうみるのか、この調査会で国民に方向づけを示していただきたいと思います。
 その際、日本国憲法だけではなく、サンフランシスコ講和条約、国連憲章、さらに日米安保条約を見る必要があります。安保条約とその周辺に憲法についての米側の考え方が出ています。
 その実例として朝鮮戦争が始まった直後に、マッカーサー最高司令官が日本国民に与えた年頭メッセージがあります。「日本の憲法は国政の手段としての戦争を放棄している。この概念は、近代の世界が知るにいたった最高の理想の一つを代表している」と指摘した後に「仮に国際社会の無法状態が、平和を脅かし人々の生命に支配を及ぼそうとし続けるならば、この理想があまりにも当然な自己保存の法則に道を譲らなければならぬことはいうまでもない。そして、国際連合の原則の枠内で他の自由愛好諸国と協力しつつ、力を撃退するために力を結集することこそが諸君の責務となるのである」と。平和憲法といわれる憲法の平和性が維持できなくなれば、それを維持するために力に訴えることはしなければならないということを言っているわけです。
 憲法のこれからの研究には法律的側面、国際政治的側面、国民心理的側面の三つがあると思います。本日は法律的側面だけにしますが、私は憲法九条によって日本は主権制限国家になったと思います。特に、二項の戦力の制限は他の国にはありません。にもかかわらず、自衛権を含む自然権と国際義務は放棄できないと思います。
 改定前の安保条約の前文には、防衛的な自衛権発動はかまわないということと、国際憲章に基づく義務は放棄していないということが書いてあります。
 
◆夢を込め制度論じたい/佐藤 欣子氏
 憲法九条にもとづく幻想的平和主義というものは、今や日本の国是になっています。PKO、国連平和維持隊(PKF)などと言うと多くの主婦は顔色を変えて怒ります。
 日本国憲法についての私の考えは、私の「お疲れさま 日本国憲法」という本の中で書いています。この中で私は、日本国憲法の恩恵をいかに私たちが受けてきたかを書きました。男女平等、平和主義、国民主権・・・。すべてありがたいのですが、よく見ると根本的な欠陥があるのです。
 これは憲法前文と九条を併せ読めばわかります。まず、(日本国憲法の制定を)大日本帝国憲法の議会の手続きにもとづいた形をとりましたが、これはまやかしであり、このまやかしが憲法全体を覆っています。次に、この憲法は、戦争に敗れた日本が世界、特に連合国に向けて書いた“おわびの証文”であるということです。
 よく国会議員の先生方も九条について平和主義とおっしゃいますが、日本国民が大変申し訳なかったということを言っているに過ぎないのです。
 憲法九条が自衛権や制裁戦争に参加する権利を奪うものではないのに、これを日本国民が無視し続け、特に一定の目的のもとに政党が否定してきたことは問題だと思います。私はもっと憲法について夢を語りたいのです。どういう憲法があれば私たちはもっと幸せになれるのか。この憲法に欠けているのは、国民の政治的、社会的、あるいは経済的な連帯を保つために必要な義務を免れることはできない、という記述です。ほとんどの憲法に書かれていることなのですが・・・。
 もっといい制度を持とうではありませんか。例えば、憲法裁判所をどうして持たないのか。国会は今のままでよいのか。大統領制を持ってもよいのではないか。そういうことを夢を込めて憲法を論じることが、主権の存する国民の権利であり、義務だと思うのです。
 
 ◆国会論戦、旧思考脱皮を/島 脩氏
 今の憲法が公布された時、私は旧制中学の二年生でした。学校で憲法の前文を暗唱させられたのですが、非常にまばゆい感じを受けました。国土が荒廃している中で、憲法は国際主義を高らかにうたい上げている。当時は、とてもこんなことがやれるはずがない、というのが実感でした。現に、憲法二五条で健康で文化的な生活を保障されているにもかかわらず、ヤミ米を拒否した判事が栄養失調で死亡するというニュースがあったくらいでした。とても国際社会を顧みる余裕はない、というのが当時の実感でした。
 占領軍の初期の対日政策は日本を徹底的に非武装化しようというものでした。日本も戦争はご免だと言う。国の内外の意見の合致が九条ということになった。それが行き過ぎをかえって招くことになったと思うのです。日本さえ平和であればという一国平和主義は実はここから出て来たのではないでしょうか。
 今、日本はようやく憲法の理念を実践できる国力を備えてきているし、国際社会もそういう日本の役割を求めていると思います。PKOをはじめとする国際貢献は憲法上の要請でもあるというのが私の認識です。
 問題は国会の論議です。何をするべきかを論じるべきなのに、あれもダメ、これもダメといった意見が主流を成しているのは非常に嘆かわしいことです。こうした冷戦時代の旧思考の論戦では、国際社会に貢献することはできません。
 憲法も四十五年たって、制定の経緯を離れて私たち自身の考えを打ち出すべき時に来ていると思います。私はこの調査会では特に、国連憲章七章の平和回復機能と憲法九条の関係、本当に(九条を)改正しなければならないのかどうか、この辺を考えていきたいと思います。
 
◆能動的平和主義に転換を/猪木 正道会長
 憲法問題調査会というのは今、非常に必要なものだと思います。言論機関として有識者を集めて憲法問題を検討されることにもろ手を挙げて賛成しました。
 第二次世界大戦の火付け役は日独伊だけに、憲法九条が平和主義を鮮明に打ち出したことはよかったと思います。しかし、それが行き過ぎて、自衛権もないとか、自衛権はあるが自衛力は持てないとか、いろんな奇妙な解釈がなされました。自衛隊も国民に認められるようになって、特に湾岸戦争以来、だいぶ見方が変わってきています。
 憲法制定経過を見ると、占領軍総司令部から提示された原案になかった「前項の目的を達するため」という一項が九条二項に書き加えられました。このため、国際紛争を解決するための手段として陸海空軍その他の戦力を保持しないのであって、自衛のためには陸海空軍を保持しうるという有力な解釈が唱えられてきました。
 法制局はネコの目のように変わる憲法解釈を行って、国民の不信感を強めました。(法制局は)個別的自衛権はあるが、集団的自衛権は発動できない、と言っていますが、おかしな解釈です。一九五一年九月調印のサンフランシスコ講和条約第五条C項に「連合国としては、日本国が主権国として国連憲章五一条に掲げる個別的または集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障とりきめを自発的に締結することができることを承認する」と明記しています。
 私は憲法を解釈するには、サンフランシスコ講和条約と国連憲章と日本国憲法の三つを一緒にして解釈しなければならないと考えています。特に、憲法の場合も条文だけでなく前文も深く意味を読み取って解釈すべきだと思っています。
 安全保障問題とは別に、非常事態に対する規定がありません。これは世界に例がないことで、占領下にあったため非常事態が起こったら占領軍が出動するつもりだったんでしょうが、残念なことです。
 憲法制定にたずさわった人が、米側との折衝は憲法というよりむしろ条約の制定作業に従事しているような感じだったと言っていますが、憲法は国際社会から放逐された日本に、国際社会へ復帰するための条件として課せられた非常に高い入会金であったと解釈できます。戦後、日本が戦争を放棄したことは非常に賢明な選択でした。しかし、日本が戦争を放棄しても、戦争は日本を放棄しません。湾岸戦争がそれを示しています。
 今後、従来の受動的な消極的な一国平和主義の立場では世界の国民総生産(GNP)の一五%を占める経済大国の日本はやっていけません。慎重にやらなければなりませんが、もっと能動的で積極的な平和主義に変わらなければいけないと思います。
 
◆必要なら改憲すべきだ/田久保忠衛氏
 これまで、外からのインパクト(衝撃)によって「国際貢献をしなければいけない」という機運が盛り上がったことが三度ぐらいあったと思います。
 第一は一九八一年の鈴木内閣の時です。七九年十二月、ソ連がアフガニスタンに十万の兵を入れたわけですが、八一年五月、鈴木首相(当時)は訪米中のスピーチの中で「日本は受動的受益者から能動的創造者になる」と明言しました。そして翌日、鈴木さんはアメリカのプレスクラブでの演説で一千カイリのシーレーンの防衛ということを言いました。ところが、その直後、一部の新聞に日米共同声明の軍事的色彩を指摘された際、自分はそういうつもりではなかった、軍事的意味を含まない、などと言って態度を翻しました。
 第二が八七年七月で、ペルシャ湾にイランが機雷をまいた時です。中曽根さん(首相)が掃海艇を出そうとしたら後藤田さん(官房長官)が大反対をした。つまりタブーを破ろうという人ではなく、今までのしきたり通りでいいんだという人たちが勝ちました。
 第三が湾岸戦争です。米国のベーカー国務長官が二十九か国から協力を申し込まれた時、三つの条件を出しました。それは〈1〉ビジュアル(目に見える)〈2〉サブスタンシャル(中身のある)〈3〉タイムリー(時宜を得る)――ということでした。日本は九十億ドルを財務省に振り込み、軍事目的に使わないでほしいと注文をつけました。そして(九十億ドルの支援は)湾岸戦争が終わってから参議院を通りました。これは三条件にかなっているでしょうか。
 憲法についてはさまざまな立場があります。まず、憲法を口実に、絶対、国際貢献をしないという考え方。次に解釈で何とかくぐり抜けられないかという考え方。そして憲法改正論。
 結論として言えば、日本の存在のために必要なことができないなら憲法を改正すべきです。
 
◆国際常識まず踏まえよ/西 修氏
 日本国憲法の世界の憲法の中における位置づけだが、「新憲法」とはとても言えず、いわば「化石憲法」です。約百六十か国が憲法を持っているが、一九九一年現在、日本は古い方から十七番目です。もっと古いものも米国憲法のように、第二次大戦後にも改正されていますから、日本のように四十五年間も憲法が全く改正されていない国はほとんどないということを認識しておく必要があります。
 他国の新しい憲法を見ると、例えば環境保護はほとんどの国で規定しています。平和主義についても、国連憲章の順守、尊重を明記している国はアジア、アフリカ、中東諸国に十四か国あります。非核化とか外国軍の軍事基地を置かないとかを定めた国もあります。平和主義というのは何もわが国の独占物ではないということを、広い視野で見ていくべきです。
 わが国では、憲法は施行以来、金科玉条のように思われていますが、そういう認識を変える必要があると思います。
 また、いわゆる国際的活動を行う場合に、国際常識に従ってやっていかなければなりません。PKOについての国会論議で、PKOのモデル協定案や標準行動規範(SOP)が話題となりました。この二つの文書には、PKOへの参加要員は、「任務遂行にあたり国連以外の指示を受けてはならない」と規定してあるのですが、国会答弁の中で、政府は、何かあった場合にはわが国だけは引き揚げるのだとか、どうも国内向けの答弁であって、国際的にはとても通用しない解釈ばかりをしています。
 わが国は国際社会でやっていかなければならないのですから、国際常識ということを考えなければなりません。いずれにせよ、憲法のあり方を本質的に考えていくことに賛同します。
 
◆理念守り骨太解釈必要/西広 整輝氏
 わが国の立国の条件から、世界の資源やマーケットに自由にアクセス(接触)できることが死活的に重要です。その意味で、日本は国際的秩序の維持や公平なルールを一番必要としている国だと思います。世界平和への国際貢献などと他人事のような言い方がされていますが、日本の命運がかかっています。
 これを国民合意による前提とすれば、PKOについても、各国と同じように参加するという選択もあるし、あるいはもっと国民にとっては厳しくなるが、兵力引き離しを行う国連平和維持隊(PKF)には参加しないが、国民の中から公平に選抜してもっと大勢の人を広い分野のPKOに参加させるということだってありえます。いずれも、憲法九条とか個人の自由と公共への奉仕という面で憲法へのかかわりが出てきます。
 憲法は国の規範を示すものですから、日本の生存のため避けて通れない道を閉ざすわけがないし、閉ざしてはならないものだと考えます。ただ、これまでは、憲法を党利党略やご都合主義で解釈していたことがままあったのではないかと思います。そうではなくて、憲法はもっと骨太であって、その理念を大事にすべきだと思います。憲法解釈はさまざまにありますが、できるだけ、理念を大事に骨太に解釈していくべきです。特に、憲法を変えられないのであれば、そうしていくしかない。
 改憲論の方もいるが、私としては現行憲法でも、皆がそういう見方で考えればやれることはまだまだあると思います。そして、国民的コンセンサスを作る政策決定のプロセスを考える必要があります。
 
◆特殊条件除き考え直せ/三浦 朱門氏
 人間だれも五十年先のことを見通すことはできません。その意味で、最も英知を集めたものでも、五十年近くたつとさまざまな点で問題が出てくるだろうと思います。
 その点で、四十五年前を考えると、憲法の前提は国連憲章、特に安保理事会と敵国条項でした。日本やドイツのような国が二度と出てこないようにと作ったものが国連憲章だと思いますが、その敵国条項の中で、日本占領国の米国が最善と思われるものを書いたのが今の憲法だと思います。
 ところが、国連憲章ができた時と今は情勢が大いに違っていますので、問題点が国連憲章に出てきただけでなく、日本国憲法にも派生していると思います。
 もう一つ、憲法を書いたのがアメリカ人だったことも考える必要があります。国の体質は変わらないもので、南北戦争の時、勝った北軍は南部を軍事占領し、元の指導者を追放して圧迫されていた黒人を州議会に多数登用したり、また七年後に元の支配層の復権を認めたりしましたが、これと似たことを日本占領にあたって米国はやりました。
 十九世紀末のフィリピンに対する米国の占領政策も関係があります。フィリピンは、日本が大戦を始めなくても、やはり独立したと思いますが、日本国憲法のようなものが米国によってフィリピン憲法としてつくられた可能性があります。
 いずれにしても、私たちの憲法には特殊な条件がいろいろありますから、それを取りはずしてみると、いい面だけでなく、これではやっていけないという面もわかってきます。例えば、これからはアメリカだけを対象にして日本はやっていけないわけですが、そういった点を含めて、初めから憲法を考え直す必要があります。
 
◆PKO不参加おかしい/諸井 虔氏
 憲法はアメリカ、マッカーサーが決めたものということなんでしょうが、すでに制定当時から日本人は「変えない」と思っているんです。が、現在となっては、この憲法は日本人が自分で責任を持たなくてはならないと思います。大部分の人が考えていると思うんですが、日本は侵略戦争はしないという、この点については、コンセンサスは出てくると思いますし、将来もそういうことでしょう。
 東西冷戦後、地域紛争が頻発していますが、これからもこれが、世界の平和、日本の繁栄を脅かすと思います。これに対するPKOは、絶対に侵略的ではなく、逆に侵略を抑えるもので、これに日本が参加しないのは全くおかしな話です。法律家ではないので、PKOへの日本の参加を憲法では否定しているのかどうかわかりませんが、もし、否定されているのなら、憲法は改正するしかないですね。解釈として憲法の範囲内でPKO派遣が可能なら、国民にきちっと納得してもらうよう努めればいい。
 海外派遣された自衛隊が、いずれ侵略行動に移るのではと心配する人もいますが、前の戦争から五十年もたって、日本の民主主義が当時と同じと考えるのはおかしな話です。自分たちの民主主義を否定しているようなものだと思います。
 日本の民主主義に問題もありますが、これぐらいのことは今の民主主義体制できちんと自制できます。むしろ、国内で心配するから、海外は余計心配するのではないでしょうか。はっきり、私たちは「侵略しない」「協力はする」と明確にすることが、海外から見て一番安心な日本ということになると思います。
 
◆集団的安全保障明確に/田中 明彦氏
 今の憲法の基本はいいと思います。よくできているし、その精神は正しい。人権にしても政治システムにしても、平和主義にしてもいい。
 ただ戦後の政府の、とりわけ九条解釈は非常に苦しいことは、その通りだが、冷戦時代の世界情勢を考えると、正当化しうる面がありました。
 しかし、それにしても苦しい解釈でした。
 冷戦の最中はそれでよかった。国際貢献というのはなにも国連協力だけではないと思うが、国連を通じた国際的安全保障に関して憲法は明示的にはっきりさせていません。
 従って私の解釈では、国連の集団的安全保障に関して日本が自衛隊派遣を含めて、参加することは解釈上問題ない。禁止してないが、はっきりしていないことは確かです。
 従って、自衛権に関してこれからは二つの行き方があります。
 一つは自衛権という概念と集団的安全保障をはっきり区別し、自衛権に関しては従来通りの政府解釈で構わないが、集団的安全保障に関しては憲法は禁じていないし、前文の精神では支持している。従って解釈明確化の必要はあるが、改正の必要はありません。ただ解釈としてはいまでも苦しい。
 もう一つの方法は、従って十分議論し、もし政治的に可能だというのなら、明示的に集団的安全保障が可能なように憲法を改正する方がいいかもしれません。私としてはこの二つのどちらとも判断をまだ決めかねています。
 
◇個別的、集団的自衛権
 他国からの武力攻撃に一国だけで対抗することは、主権国家に固有の権利として認められており、これが個別的自衛権に当たる。これに対し、武力攻撃を受けた国が自国と同盟関係など密接な関係にある場合に共同で防衛に当たる権利が集団的自衛権である。
 昭和五十六年五月二十九日付の政府答弁書では、「わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは当然だが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものと解しており、集団的自衛権の行使は、その範囲を超えるもので憲法上許されない」としている。
 
◇憲法前文(抜粋)
 日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う・・・
 
◇憲法九条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 
 
 
 
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