1990/08/29 読売新聞朝刊
[社説]湾岸貢献策づくりで「憲法の制約」の見直し論議を求める
政府は、湾岸危機への貢献策づくりを急いでいるが、集団的自衛権の行使は許されない、とする憲法九条解釈の厚いカベに阻まれて、作業は難航している。
湾岸地域の平和と安全は、わが国の存立に重大な影響を与える。知恵をしぼり、汗を流して、同地域の安定回復のために貢献している米ソをはじめ世界各国も、わが国が、どのような貢献策を打ち出すか、強い期待と関心をもって見守っている。しかし、現状では、各国から評価される具体策が早急にまとまる展望は開けていない。
こんなことでは、日本は各国の批判を浴び、世界の中で孤立する危険がある。
こうした状況下で、金丸元副総理は、憲法見直しも含めた法制整備の必要性を強調した。自民党の小沢幹事長も、国連憲章を順守するなら、自衛隊の派遣も可能であり、これは集団的自衛権行使とは別問題だという見解を表明した。
両氏の主張には、明確でない点もあるが、二十一世紀に向けた「世界に貢献する日本」の進路をめぐる極めて重要な問題提起だと考える。国会は、憲法解釈の見直しを含めて、今後の日本の進むべき道について、直ちに徹底的な論議に着手すべきである。
◆通用しなくなった“免罪符”
政府は現在、わが国の貢献策のうち、要員の湾岸地域への派遣問題については、医療、輸送、通信などの非軍事的な分野に限定して検討している。しかし、社会党など野党のみならず、政府部内にも、反対、慎重論が少なくない。
要員が、自衛隊員を除いた民間人で、直接戦闘行動に加わらなくても、その形態、方法によっては、憲法が否定している集団的自衛権の行使に抵触する可能性がある、というのが、その理由である。
集団的自衛権の行使は許されないという九条解釈は、日本軍国主義のキバを抜こうという国際世論の下で、二度と侵略戦争はしないという反省に立つ日本の決意表明として、生まれたものだ。それ以来、憲法九条は、本来、日本としてしなければならない行動をしないですますための“免罪符”としても使われてきたことは否めない。
もちろん、侵略戦争をしないという決意は、すでに国民の間に定着しており、この決意は、今後も変わることがあってはならない。しかし、免罪符の部分が拡大、強調されると、国際協調の面で、各国との間に落差が生じてしまうのは当然だろう。
第二次大戦後、日本が復興途上の“小国”にとどまっている間は、それでもすんだ。しかし、経済大国となった現在の日本を注目する国際的な視線は、日を追って厳しくなっている。
「日本は、自分に対する管理能力がないのか」「自分に対する不安感でやれることもしないのか」「日本の民主主義とはなにか。そんなに自信がないのか」−−。
日本が国際社会の中で、孤立せずに生きていくためには、こうした声に、待ったなしで、行動でこたえなければならない。
◆ポスト冷戦時代の解釈を
憲法前文を読み返してみよう。「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれている。今回のイラクの暴挙は、公正と信義を踏みにじるものであり、日本国憲法の理念への挑戦とも言える。
東西冷戦が終わりを告げたとたんに湾岸危機が発生したことは、ポスト冷戦の新たな国際秩序が確立されるまでは、地域紛争などが今後も各地で起こり得ることを示唆していよう。
歴史の大きな転換点に立って、日本は、どう対応していくべきか。
憲法前文は続く。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」。しかし、「名誉ある地位」は、日本軍国主義崩壊直後の異常な時代の免罪符をふりかざしていては、得ることはできない。
さらに前文は、「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と結んでいる。理想と目的達成のために全力をあげると言いながら、それを達成する手段(九条解釈)を半世紀近く前のままに放置し、結果として、憲法のうたう使命達成を不可能にしているのは、政府・国会の怠慢であろう。
憲法に関する過去の狭い解釈の見直しの中から、ポスト冷戦時代という全く新しい国際情勢を踏まえた新たな解釈が出てきて当然である。
◆国連活動に積極参加せよ
憲法見直しに触れた金丸発言に野党の一部は反発しているが、これはおかしい。国会には、憲法改正の発議権がある。憲法は不磨の大典ではない。
現実の問題として、今直ちに憲法を改正することは困難だが、憲法論議自体は、活発に進めるべきではないか。
わが国は、一九五六年に国連に加盟し、国連中心外交を一つの外交上の大きな柱に据えてきた。その国連憲章は、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合、安保理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛権を行使することを認めている。
つまり、加盟国が、当然の権利として集団的自衛権を行使できることを前提に、憲章は国際協力の枠組みを定めている。
わが国の「国際貢献」といわゆる「憲法の制約」の矛盾が表面化したのは、そもそも、わが国の憲法解釈が、国連憲章と矛盾していたからだとも言える。
わが国は、憲法前文の理念の実現をめざすうえでも、国連の諸活動はもとより、米国はじめ、自由と民主主義の価値観を共有する諸国の国連憲章に沿った共同行動には、積極参加をためらうべきではない。
このような行動への参加に限って、憲法解釈の幅を広げて、認めることにすれば、アジア諸国の理解も得やすいだろう。要員派遣の分野や自衛隊派遣の問題などは、国会論議の中で詰めればよい。
憲法をめぐる矛盾を解消するための論議が、危険な軍国主義の復活につながるなどというのは杞憂(きゆう)に過ぎない。我々は、戦後定着した平和主義に自信を持っているはずだ。
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