2002/05/27 毎日新聞朝刊
[社説]考えよう憲法/40止 国家 アイデンティティーを求めて
◇伝統文化を書けばすむのか
平和を志向する中で豊かさを追求してきた日本は、十数年前世界一の豊かさを実現した。バブルの崩壊によって世界一はきわめて短期間に終わり、日本はその後目標を失った巨艦のように大海をさまよい続けている。
再び物質的豊かさを追い求める準備をしているようでもあり、半ばあきらめて別の何かを探しているようでもある。自らそのどちらかに目標を絞ったという共通認識はまだない。
◇世界が大きく変わった
この十数年の間に世界は確実に様変わりした。世界を二分して覇を競った米ソの対立は昔話となり、今では米露が同盟を結ぼうとさえしている。世界の成長センターと注目されたアジア諸国は通貨危機を乗り越えてひ弱さから脱却しつつあり、中国は経済的実力も備えた大国としてずぬけた存在感を獲得してきた。EU(欧州連合)は現実に統合し、米国経済はこの間日本一つ分ほど大きくなった。情報通信革命の進行とあいまって世界はグローバリゼーションという一体化に進み、明らかに過去とは一線を画した別の地球を形成しつつある。
大きな変化は常に日本の外からやってきた。日本はそのつど、やれ湾岸戦争で米軍に協力だ、平和維持活動に自衛隊を出せるか、反テロ同盟で戦後初めて自衛隊の海外派兵をするかと右往左往する。銀行も企業も世界基準で活動内容を開示せよ、したがって不良債権処理を世界に対して約束する。絶対につぶれなかった金融機関が、世界との一体化でつぶれてなくなってしまう。欧米の企業が日本という国を格付けし、日本の政策を左右する。そのつどあたふたと政府はひたすら対応を迫られる。
日本は自分をどうしようとしているのか、ただ外からやってくる変化に対応する日々を過ごすだけで、自分がないではないか。こうした不安と不満が社会全体の停滞感と重なり合い、日本という国と日本人のアイデンティティーを問い掛ける状況をもたらしている。その原因を憲法に求める論が憲法改正のバックグラウンドミュージックとなっている。これは憲法制定直後からある押し付け憲法論と絡み、豊かになればなるほど自らを見失うことに反発し、反米感情と呼応しながら戦後社会を流れる通奏低音の再生でもある。
アイデンティティーとは自己の証明、正体、主体性、帰属意識、独自性、本質、個性、同一性などをひっくるめた概念だ。米国は憲法を作ってから初代大統領を選び合衆国を形成してきた。仏は革命によって主権者を変え人権宣言を発し、以降、新しい憲法の制定で国のあり方を何回も変えてきた。英国は800年かけて憲法という概念そのものを発明開発してきた。憲法が国のアイデンティティーそのものであるような西欧型国家と違い、日本は憲法制定のずっと前から定義などないまま実態として日本は日本であり続けてきた。文章で自らのアイデンティティーを定義する必要性に迫られたのは、憲法を持つことが近代国家の証しと認識された明治憲法が初めて、今の憲法が2回目だ。
敗戦後の占領下でめまぐるしく変わる国際情勢の中で制定された現行憲法に日本のアイデンティティーを盛り込むエネルギーのほとんどは、天皇制維持につぎ込まれた。その後はひたすら豊かさを目指す日本株式会社の勢いの中でアイデンティティーを問う声は潜行した。どこから見ても経済大国を目指す国と国民が表面に出た。
だがこの地球規模での大変化の中で、グローバリゼーションは世界を一色に染める気配があり、日本のアイデンティティー確立が重要事項という風潮が流行ともなった。「自己決定の回復が必要だ。日本人は人間の集団としての存在の根源、アイデンティティー、つまり我を文明史に類例を見ないほど喪(うしな)った」(中西輝政京大教授)。「本当に日本人が自らの頭で考え、21世紀にむけて国家としての新しい価値観を打ち出していく新しい憲法」(桜井よしこ氏)など「憲法改正」(中西輝政編、中央公論新社)で各氏が主張した趣旨などに代表される明治維新、敗戦に次ぐ第3の開国的な主張だ。
◇憲法で日本再生できるか
これは小渕恵三政権下で始まり森喜朗政権に引き継がれた教育制度の見直しとも軌を一にする。教育基本法の改正や奉仕活動の義務化で、日本のアイデンティティー再構築を目指し日本を国民的自信喪失から回復させようとした。
確かに誇らしい自国の歴史、伝統文化の維持発展、自国の言語や領土、国旗、国歌、国の標語などを書き込み、国の目標や国のかたちを熱っぽく訴える類の憲法と比べ、日本の憲法は無機質で日本らしさが感じられないとの批判は根強い。古くからある翻訳調でなく美しい日本語に書き換える主張もこれに合流する。
果たして憲法を改正あるいは修正して、伝統文化を維持発展せよ、自衛のための軍隊は持てる、奉仕活動の義務付け、あるいは積極的に平和や環境を守る個人個人の活動を目標にするなどのことを書き込めば、日本のアイデンティティーは確保され、日本国民は自信を回復するのだろうか。イタリア憲法第1条は「イタリアは勤労に基礎を置く民主的共和国」だ。
最終的にはやってみなければ証明できないし、それ自体戦前への回帰志向との批判も多い。憲法が先か現実の必要性が憲法を変えていくのか、世界でも十数番目に古くなった日本国憲法を一度も変えたことがない身にとって、初めての経験が訪れようとしている。
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