1991/10/25 毎日新聞朝刊
[特集]外交文書/1 軍備強化か、経済か――池田・ロバーソン会談
今回、関係文書が公開された一九五三年の池田勇人自由党政調会長(後の首相)とロバートソン米国務次官補の会談は、今日の自衛隊の基礎を作った会談として知られている。すでに池田氏の随員兼通訳をつとめた宮沢喜一参院議員(当時)の「東京―ワシントンの密談」や、会談に同席した鈴木源吾大蔵省財務官(同)のメモをもとにしたジョン・ダワー氏の「吉田茂とその時代」などで、陸上防衛力を三十二万五千人に増強するよう迫る米国と、憲法や経済的制約を理由に抵抗、逆に経済援助を引き出そうとする日本とのやりとりが描かれており、今度の文書公開で全容が明らかになることが期待されていた。しかし、会談録など核心部分はすっぽり抜け落ち、すでに明らかにされた事実を部分的に裏付けただけに終わっている。
吉田首相特使として渡米した池田氏には愛知揆一大蔵政務次官らが同行。交渉は十月二日から三十日まで米国務省で続けられた。最大のテーマは朝鮮戦争を受け、日本の再軍備とこれに対する米国の援助だった。
池田氏は会談の冒頭で日本経済の底の浅さを一方的にまくしたて、憲法上の制約も強調。「大きな防衛計画を作ることは無理だ」と主張した。ロバートソン氏は「憲法改正はできないのか。何年ぐらいしたら改正できるか」と迫るが、池田氏は「憲法改正はできない」と突っぱねた。(「東京―ワシントンの密談」)
「陸十個師団三十二万五千人」を迫る米側に池田私案を提出したのは十三日。しかも「一個師団の人数を縮小すれば総兵員を十八万人にできる」との線を譲らなかった。
米側は「五十万のソ連・中国合同部隊が電撃攻撃をもって日本に攻め込むだろう」(「吉田茂とその時代」)と日本に増員を求めるが、日本の関心はもっぱら米国の対日経済援助に向けられた。十九日の覚書で主張したのも「東南アジアへの賠償支払いを助け、同地域の開発に日本を参画させる」「(朝鮮戦争後の)韓国の復興に日本を参画させる」「対中共(中国)貿易の制限を緩和する」など経済関係の要求ばかりだった。
立法まもない米相互安全保障法(MSA)は軍事援助の法律だが、池田氏らは純経済援助が引き出せると信じており(十六日の新木栄吉駐米大使から外務省への公電)同法をつかった経済援助を要請している(八日公電)。これについて米側は再三「経済援助の意思はない」と表明したが、それでも日本側は可能性を探り続けた。
会談は結局、日本が陸十八万人の防衛力を約束し、米側が日本の東南アジアへの賠償の支援と開発への参画と中共(中国)貿易の欧州並み緩和を検討することを表明したほかは、すれ違いに終わった。
池田氏は帰国後「米国の再軍備要求を拒否し、対日経済援助の端緒を作った」と成果を強調したが、政府内には「期待した経済援助が得られなかった」(土屋隼外務省欧米局長の意見書)との不満が残ったようだ。
一方、池田氏は会談の随所で憲法解釈について「直接侵害に対する防衛は憲法改正せずにできる」と明言しており、五十嵐武士・東大教授は「憲法解釈を言葉のあやでごまかして世界第三位の軍事予算を持つ現在に至った経路を作った」と位置づけている。
《証言》
鈴木源吾元大蔵省財務官(87) 吉田首相の考え方は、富を作ってから国防をやるということだった。米国はドイツを引き合いに再軍備を迫ったが、日本は、ドイツは米国から援助を受けたから経済の立ち直りが早かった、と主張して援助をもらおうとした。池田ミッションに大蔵省の者しか同行しなかったのは占領時代から司令部と通じて予算を取り仕切っていたのは大蔵省だったからだ。
◇池田・ロバートソン会談の経過◇
1953年(昭和28年)10月 |
2日 |
国務省で会談内容を決定 |
5日 |
第1回会談。日本側は、防衛力増強の憲法上、経済上の制約を主張<ロ氏と憲法改正論議>。午後、一行、ダレス長官と会見8日 |
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第2回会談。米側は11万保安隊を陸10個師団32万5000人に増強するよう要求し、差し当たり7万人の増員を援助すると表明<日本側は、日本の東南アジア賠償への援助、米相互安全保障法(MSA)による非軍事援助を要求する覚書を提出> |
12日 |
第3回会談。国防省担当官が32万5000人の防衛計画を説明 |
13日 |
第4回会談。日本側が「陸上兵力を3年間で10個師団18万人に増強。海上兵力は5年で210隻15万6550トン、航空兵力は5年で518機整備する」との池田私案を提示 |
15日 |
第5回会談。午前、ブラウン海軍少将らと会談。米側は「1個師団は3万2500人が必要」と発言。午後、米側のMSAの専門家と協議。非軍事の経済援助のためには別途経済協力協定(ECA)を結ぶ必要があることが判明。夕、第6回会談。米側が8日の日本側覚書に回答。MSA援助は軍需品の買い付けに使用すべきだとし、経済援助は拒否 |
19日 |
第7回会談。日本側覚書を提出。防衛力増強に対する制約を列挙し、対日経済援助を要求 |
22日 |
米側覚書。陸の増強目標を32万5000または35万程度にし、54年中に18万にし、54年度2000億円、55年度2350億円程度、予算計上するよう要求。経済援助は拒否したが、東南アジア賠償支援を表明 |
23日 |
第8回会談。マクラーキン国務省北東アジア局長代理と会談<日本側は米側が54年度2000億円、55年度2350億円を計上するよう要求した真意を質問> |
27日 |
第9回会談<愛知政務次官と国務省> |
28日 |
第10回会談。占領地救済資金(ガリオア)返済問題について協議 |
30日 |
第11回会談。米側は防衛問題を引き続き東京で話し合い、ガリオア問題で折衝することを要求。秘密の取り決め議事録は作成しないことで一致。夕、共同声明発表 |
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(< >内は今回公表の外交文書には見られず、「東京―ワシントンの密談」による)
◇公開文書関連年表◇
1950・6・25 |
朝鮮戦争始まる |
8・10 |
警察予備隊発足 |
1951・9・8 |
サンフランシスコ講和条約と日米安保条約調印 |
1952・10・15 |
警察予備隊を保安隊に改組 |
1953・7・27 |
朝鮮休戦協定調印 |
10・2〜30 |
池田・ロバートソン会談 |
1954・3・1 |
ビキニ水爆実験で第五福竜丸被災 |
7・1 |
防衛庁設置、自衛隊発足 |
9・6 |
東南アジア条約機構(SEATO)創設 |
9・26〜11・17 |
吉田首相、欧米7カ国歴訪 |
11・24 |
日本民主党結成(鳩山総裁) |
1955・4・18〜24 |
アジア・アフリカ会議(バンドン) |
10・13 |
社会党統一大会 |
11・15 |
自由民主党結成(保守合同) |
1956・10・19 |
日ソ共同宣言 |
12・18 |
日本、国連加盟 |
1960・1・19 |
日米新安保条約調印 |
6・16 |
アイゼンハワー大統領訪日延期決定 |
6・19 |
新安保条約自然承認 |
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◇米の圧力に終止符 政治、経済の進路に影響−−随員兼通訳だった宮沢喜一氏
池田・ロバートソン会談に随員兼通訳として加わった宮沢喜一元蔵相(当時参院議員)は、毎日新聞とのインタビューで、会談の意味について「日本再軍備への米国の圧力に終止符を打った」と強調。この会談が「戦後日本の政治、経済の進路に大きな影響を与えた」と語った。
――会談で米側は防衛問題、日本側は経済援助と、関心がまったく違っていたようですが。
宮沢氏:米国はダレス元国務長官以来、防衛は自分でやれと言い続け、国内では鳩山一郎さん(後の首相)や重光葵さん(後の外相)らが再軍備を主張。吉田さんが抵抗する、という図式だった。米国は三十二万五千人の軍備を要求する一方、約三億ドルの軍事援助を言ってきた。我々は憲法改正をしてまで再軍備するのは反対だが、防衛力漸増は否定しない。軍事色の強い援助はいやだが、復興に役立つドルはほしい、という立場だった。
――会談で最も苦労したのは。
宮沢氏:鳩山、重光両氏の批判と米国の圧力との間で、米側はどこでホコを収めようとしているのか見当がつかなかったことだ。
――十八万に落ち着けることができたのは。
宮沢氏:米軍のプランには修理部隊なども含まれていた。日本は国内で防戦するだけだから細身にできる、というのがこちら側の論理だった。
――米国は納得したのですか。
宮沢氏:そうだと思う。それと、ロバートソンと激しい憲法論議をやった。憲法改正はできないという日本の現実が、いやいやでも分かったということでしょう。もう占領時代ではなかった。我々も腹を決めてやったから、説得が成功した、と思っている。
――防衛力を、漸増していくという秘密協定はなかったのですか。
宮沢氏:それはなかった。
――軍事以外の経済援助を引き出そうとかなり努力してますね。
宮沢氏:どうせ出すならそういうものを出してもらいたいとしつこく言った。軍事から切り離したいという努力、苦労は大変だった。日本の経済界は軍事でもいいという気持ちだったが、我々は神経質だった。
――この会談は日本の再軍備の基礎を作ったといわれていますが。
宮沢氏:それはコップ半分の水を半分もあるというか、半分しかないというかに似ている。米国が占領中から戦後にかけて、毎年再軍備をしろといってきたことに終止符を打ちたい、というのが私にとっての池田・ロバートソン会談だった。翌年の吉田・アイゼンハワー会談で米側が防衛問題を言わなかったことで、勝負はすんだ、と思った。
――外務省は会談の成果に疑問を持っていたようですが。
宮沢氏:外交が有効に働くためにはある程度の軍事力が必要、というのが一般論だから、こういう抑えた会談はいかがなものか、と考えた人があっても不思議ではない。
――日本の経済発展を導く重要な会談だったとみているわけですね。
宮沢氏:その役にはかなり立ったでしょう。この会談は日米間の経済、日本の政治、経済の進路にかなりの影響を与えたと思う。
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