1990/10/05 毎日新聞朝刊
[記者の目]中東危機での自衛隊派遣 「黒白つける」は最良か
すっきり主義は日本人になじまないのではないか。中東湾岸危機をめぐる最近の論議の洪水をみながら、そんな気がして仕方ない。白か黒か、イエスかノーか、で肩に力が入っている人たちばかりが目立つが、議論はいい。しかし、世論の多数派はなにごとも黒白をつけるのが最良とは考えていない、と私は思う。玉虫色は国際的には不人気だが、「まあ、こんなところか」と納得するのが、この民族固有の知恵と文化のようにもみえるのだ。
(編集委員・岩見隆夫)
◇落ちない海部内閣の高支持率
中東を道連れなしで一人旅している海部首相は、政界では散々だが、支持率はほとんど落ちない。私は「ガクンと落ちる」とみていた一人だし、首相自身もいくらか覚悟していたらしいが、違っていた。白か黒かのすっきり主義者はそれこそすっきりしないことだろう。
だが、高支持率を素通りして、中東問題を考えるわけにはいかない。モタモタ、不決断、朝令暮改の海部批判は当たっている。「首相の適格性を疑う」という声が自民党の内外から出てきても仕方ないが、政治は結果よしというところがある。
例の四十億ドル拠出問題。米国からは「カネしか出さない」「出し方がおそい」「出す額が少ない」の三重批判が聞こえてくる。しかし「おそい」で損したのは、むしろ日本であって米国ではなく、「少ない」については、多々ますます弁ずだろうが、ブッシュ大統領もタックス・ペイヤーの日本国民も、とりあえずはこんなところと合点しているのではないか。
さて「カネしか」の対日批判が主題である。これをめぐって自衛隊派遣から憲法改正にまで議論が広がり、すっきり主義者たちの声が日々大きくなってきた。すべてすっきりできるに越したことはないが、徹底論争をしながら、一方で収めどころも考えるのが大人の論議というものだ。白と黒とこれだけ割れれば、どちらかに百%寄った処理はできにくいし、やることが賢明でもない。
◇日中正常化以来の大型論争
基本政策をめぐる今回のような大型論争は、多分一九七二年の日中正常化問題以来ではないだろうか。日本の論争は宿命的に外からやってくる。私の記憶では、当時の主役である大平外相は北京入りの前に、
「吉田総理は敗戦後の日本の状況を勘案して、単独講和の道を選択した。すなわち、サンフランシスコ体制の中に日本が入って、その体制を基盤に戦後の復興を考えたわけだ。吉田総理の判断は、ある意味において賢明な選択だったと思う。しかし、このことが、中国問題の本格的な解決を遅らすことになった。やむを得ない仕儀であった」
といった趣旨の講演をした。吉田氏が敷いた戦後体制の修正(補完といってもいい)をはっきり口にしたのである。
冷戦時代に幕が下りたいま、大平発言のうち「単独講和」を「平和憲法」に、また「中国問題の本格的な解決」を「国際平和への積極的な参加」に置き換えると、ぴったりはまるのに驚く。
あのころを思い起こすと、やはりすっきり主義者である親台湾派と親中国派のすさまじい対立は、大平氏が生命の危険を感じ遺書をしたためたほどだったが、世論の動向には日中正常化の機熟す、とみる大きな流れができていたと思う。
大平氏は、親中国というより「いまやるしかない」という現実主義者だった。帰国すると、前と後ろに二つの顔をもった「ヤヌスの神」を引き合いに、日中合意の中身を説明したりした。つまり、玉虫色に見ようと思えば見られる、という意味である。
再びいまに引き戻すと、国内の世論は同じように、「国際参加」への理解を急速に深めている。参加の手立てとして、自衛隊を抜きにはできないとも漠然と考えている。だが、すっきり「派遣」と銘打っていいかとなると、こだわりが残る。
それは無理もないのだ。冷戦時代、戦力不保持・集団的自衛権放棄の憲法と、日米安保条約の共存には、明らかに矛盾があって、国会論戦の日常的なタネになってきた。論争どまりで放置してきたのは、平和ボケと島国のずるさだったかもしれないが、玉虫色好みの政治風土とも無縁ではない。
冷戦が終わって、今度は憲法と国連中心主義の二本立てが急に言われだし、国連への自衛隊派遣は合憲だという。それこそ憲法の理念にかなっているという主張もある。理屈のうえではほぼ異論はない。
しかし、憲法と国連中心主義がぴったり重なり合うのか、不安がないではない。つまり、国連協力の名のもとに、人類史的な意義を持つせっかくの「特異な憲法」が、骨抜きにされる恐れを想定しておく必要はないのか、ということである。
◇「PKOに限る」だけ鮮明に
国連の純粋な平和維持活動(PKO)への参加は、自衛隊、民間を問わずやるべきだが、いま中東に展開中の多国籍軍は半国連的存在でしかない。「半」にも自衛隊がお付き合いするとなると、憲法の方がかすんでくる。国連の改組・強化を図り、PKOをさらに厳格に位置づけ、国連での日本の発言力も強めるのが先だと思う。
そうした観点からみると、オブラートに包んだ国連平和協力法案は、とりあえずいい線をいっているのではなかろうか。最終案づくりはまだもめていて、野党の反応も複雑だが、自衛隊使用の是非から、身分、規模、装備に至るまで、白と黒の立場の双方がすっきりさせたい気持ちはわかる
しかし、すっきりさせなければならないのはただ一点、「任務は純粋にPKOに限る」だけで、あとはギリギリ詰めることもない。玉虫色のメリットも計算した方がいい。周辺国の警戒に、誠意をもって対応するには、玉虫色は有力な手段である。
すっきり主義がよくて、玉虫色は好ましくないという単純思考だけでは、これだけの難問には取り組めない。欧米はまたまた軽べつの視線を向けるだろうが、それを割り引いても、反軍的な(平和主義という言葉は色目でみられはじめたから)日本の基本姿勢は、いずれ国際世論の共感を得るはずだ。
自民党三役の小沢、西岡、加藤の三氏らの発言が勇ましく、長老の後藤田正晴氏がブレーキをかけている図は、世代差だけでなく、自民党の幅の広さと活力を思わせるが、同時に自民党が玉虫色政党であるとも言える。中曽根時代、後藤田氏がペルシャ湾への掃海艇派遣を止めた一件について、与謝野馨氏は「異常で最悪の判断。敗戦ボケだ」と極論しているが、これなども論議の刺激剤のうちだろう。
「NOと言える日本」というが、NOと言いにくいことまでイキがって無理して言うことはない。また、同じNOの言い方にもいろいろとニュアンスがある。含み、陰影を持たせるのは日本的で、国際社会に通用しないという指摘はその通りかもしれないが、おそらく将来とも変わらないだろう。日本の土壌と日本人の性癖にしみついた伝統的なものであって、一種の文化と言ってもいいからだ。
そうであるなら、卑下することなく、玉虫色文化にさらに磨きをかけ、国際性を持たせるのも手ではないか。金丸信氏の訪朝外交に目くじらを立てるのなども、すっきり主義者の浅はかさと映るのだが。
もちろん、すっきりできることまであいまいに、ということではありません。
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