日光養魚場の採卵成績簿とふ化成績簿
加藤 禎一
この2冊の帳簿は、中禅寺湖のふ化放流事業が帝室林野局直轄となった明治39年から昭和29年までの間に日光養魚場が取り扱った全ての魚種について、採卵から放流までの現存数が記載されている公式帳簿である。これらの帳簿は明治時代から数十年に亘って使われたため背表紙の表題がはがれていて表題が判らない。このため、今回は整理の都合上その内容から採卵成績簿、ふ化成績簿と呼ぶこととした。
採卵成績簿とふ化成績簿は日光養魚場の業務の内、魚に関する業務を年度毎にまとめた公式帳簿で、予算の収支をまとめた帳簿と共に日光養魚場の最重要書類の一つである。
このうち採卵成績簿には、採卵日毎の採卵尾数(雌、雄)と採卵数が各魚種別に表にまとめられて年度別に記載されている。その資料には過去の産卵日の傾向や、採卵に使用した親魚数や採卵数の変遷、さらには平均採卵数の変化など、産卵と成熟に関する貴重な生物学的情報記録されている。また、備考欄には、年によって千手、湯の湖、光徳沼、湯川など親魚の捕獲場所が記録されている。注意して調べると、例えば、昭和6年から10年頃はほんますと呼ばれている魚の80〜90%が千手で捕獲されていたことなど、今では想像できないような興味深い記録も残されている。現存するのは明治42年度から昭和29年度分までの46年分だけであるが、このような長期に亘る記録は外に例がないだけに貴重な資料である。
ふ化成績簿は帝室林野局直轄となった明治39年度から記録されているが、記載項目は産地、採卵月日、発眼月日、発生月日、遊泳月日、放流月日など経過に関するものと、卵数、ふ化数、遊泳数、放流数など現存数に関するものが記載されている。例えばヒメマスを見ると、最初の移植が明治39年で、十和田湖からヒメマス卵40万粒到着したのが12月28日、このうち35万尾がふ化して翌年4月に317,774尾放流したことが判る。また最初のニジマス卵は明治40年6月28日に到着し82,100粒中68,580尾がふ化したが、次の年の2回目の卵が着いたのは8月9日で、輸送した2万粒中ふ化したのがわずか 308尾だったことが判る。
このように移植された記録は全てこのふ化成績簿に詳細に記録されているので、現在でもそれぞれの魚種について移植年月日、移植元、移植数、放流数などを調べることができる。また日光養魚場で採卵したものについても同様で、現存数の変遷や外の県への卵の分譲状況も記録されている。ただ、現存するのは明治39年度から昭和29年度までの48年分で、昭和30年度から昭和39年度分が記載されている帳簿は所在不明で現在調査中である。
これら2册の帳簿は、移植などの重要事項が全て記載された公式帳簿であることや、採卵に関する多くの生物学的情報が長年に亘って記録されていることから、外に類がない貴重な資料である。それだけにこれらの貴重なデ−タを活用できるようにする今回の取り組みは極めて有意義であり、記録の編纂に係わった一人として嬉しいことである。
ただ、これらの資料は枚数が非常に多い上に内容も項目が多岐にわたるのでそのままコピ−したのでは現存のもののように利用し難く、あらためて取り上げる意味がない。このためここでは今回の目的である奥日光湖沼群の魚類に関する情報に絞って、帳簿の中から関連記録を抽出して魚種別に示す方法を採った。なお、養魚池の記録については天然水域と異なるので割愛した。
表1 中禅寺湖のヒメマス採卵記録
*:10月(*)と読む
|
採卵尾数(雌) |
採卵数 |
平均卵数 |
平均産卵日* |
明治 |
42 |
1909 |
1,374 |
556,900 |
405 |
40.1 |
43 |
1910 |
2,100 |
926,000 |
441 |
24.2 |
44 |
1911 |
90 |
26,200 |
328 |
28.1 |
45 |
1912 |
45 |
32,200 |
716 |
24.6 |
大正 |
2 |
1913 |
65 |
35,400 |
544 |
24.6 |
3 |
1914 |
227 |
142,000 |
626 |
24.9 |
4 |
1915 |
1,146 |
574,300 |
501 |
27.9 |
5 |
1916 |
1,060 |
552,700 |
521 |
18.3 |
6 |
1917 |
925 |
501,400 |
542 |
22.5 |
7 |
1918 |
1,604 |
1,194,200 |
745 |
21.4 |
8 |
1919 |
787 |
503,600 |
640 |
22.9 |
9 |
1920 |
516 |
305,600 |
592 |
17.3 |
10 |
1921 |
459 |
238,900 |
520 |
16.8 |
11 |
1922 |
579 |
416,400 |
719 |
21.4 |
12 |
1923 |
963 |
764,600 |
794 |
22.7 |
13 |
1924 |
346 |
273,500 |
630 |
27.6 |
14 |
1925 |
450 |
331,200 |
736 |
28.7 |
15 |
1926 |
352 |
321,000 |
912 |
23.1 |
昭和 |
2 |
1927 |
143 |
175,000 |
1,224 |
27.6 |
3 |
1928 |
335 |
245,800 |
734 |
25.1 |
4 |
1929 |
168 |
122,000 |
726 |
24.7 |
5 |
1930 |
181 |
151,000 |
834 |
19.3 |
6 |
1931 |
141 |
112,000 |
794 |
26.7 |
7 |
1932 |
171 |
140,000 |
819 |
29.1 |
8 |
1933 |
196 |
145,200 |
741 |
24.2 |
9 |
1934 |
223 |
185,000 |
830 |
25.3 |
10 |
1935 |
223 |
215,000 |
964 |
25.6 |
11 |
1936 |
263 |
253,000 |
962 |
24.4 |
12 |
1937 |
1,256 |
1,011,700 |
805 |
21.6 |
13 |
1938 |
650 |
608,000 |
935 |
22.1 |
14 |
1939 |
453 |
407,400 |
899 |
28.2 |
15 |
1940 |
1,236 |
1,180,000 |
955 |
22.6 |
16 |
1941 |
893 |
809,000 |
906 |
9.9 |
17 |
1942 |
1,338 |
1,200,000 |
897 |
19.7 |
18 |
1943 |
837 |
882,000 |
1,054 |
31.3 |
19 |
1944 |
592 |
590,000 |
997 |
32.0 |
20 |
1945 |
310 |
320,000 |
1,032 |
14.0 |
21 |
1946 |
59 |
62,400 |
1,058 |
32.1 |
22 |
1947 |
187 |
171,000 |
914 |
24.4 |
23 |
1948 |
263 |
240,000 |
913 |
23.7 |
24 |
1949 |
112 |
91,000 |
813 |
17.9 |
25 |
1950 |
80 |
52,000 |
650 |
15.9 |
26 |
1951 |
90 |
56,000 |
622 |
13.2 |
27 |
1952 |
83 |
66,000 |
795 |
20.8 |
28 |
1953 |
66 |
48,000 |
727 |
21.3 |
最大 |
2,100 |
1,200,000 |
1,224 |
40.1 |
最小 |
45 |
26,200 |
328 |
9.9 |
平均 |
525 |
382,991 |
767 |
23.6 |
|
表2 中禅寺湖のほんます採卵記録
*:10月(*)と読む
|
採卵尾数(雌) |
採卵数 |
平均卵数 |
平均産卵日* |
明治 |
42 |
1909 |
17 |
14,000 |
829 |
28.2 |
43 |
1910 |
130 |
74,300 |
572 |
26.5 |
44 |
1911 |
1,033 |
453,300 |
439 |
22.8 |
45 |
1912 |
411 |
212,900 |
518 |
17.3 |
大正 |
2 |
1913 |
581 |
433,100 |
745 |
14.2 |
3 |
1914 |
1,046 |
611,700 |
585 |
24.0 |
4 |
1915 |
761 |
460,300 |
605 |
20.8 |
5 |
1916 |
1,369 |
786,800 |
576 |
24.9 |
6 |
1917 |
1,017 |
586,800 |
577 |
22.0 |
7 |
1918 |
451 |
287,500 |
636 |
- |
8 |
1919 |
262 |
145,150 |
554 |
24.9 |
9 |
1920 |
769 |
556,600 |
724 |
23.6 |
10 |
1921 |
279 |
138,700 |
497 |
22.2 |
11 |
1922 |
685 |
455,700 |
665 |
24.6 |
12 |
1923 |
690 |
407,300 |
590 |
30.6 |
13 |
1924 |
1,760 |
968,000 |
550 |
26.2 |
14 |
1925 |
812 |
411,300 |
507 |
30.2 |
15 |
1926 |
1,343 |
755,400 |
562 |
31.0 |
昭和 |
2 |
1927 |
1,093 |
741,100 |
678 |
21.7 |
3 |
1928 |
514 |
382,900 |
745 |
19.3 |
4 |
1929 |
409 |
330,500 |
676 |
28.7 |
5 |
1930 |
1,397 |
904,500 |
647 |
26.9 |
6 |
1931 |
757 |
534,000 |
705 |
19.6 |
7 |
1932 |
593 |
402,000 |
678 |
28.6 |
8 |
1933 |
1,180 |
788,000 |
668 |
24.1 |
9 |
1934 |
369 |
305,000 |
827 |
26.9 |
10 |
1935 |
223 |
215,000 |
964 |
34.0 |
11 |
1936 |
270 |
284,000 |
1,052 |
37.4 |
12 |
1937 |
178 |
132,500 |
744 |
22.6 |
13 |
1938 |
206 |
132,000 |
641 |
22.7 |
14 |
1939 |
488 |
357,000 |
732 |
26.7 |
15 |
1940 |
492 |
354,000 |
720 |
17.2 |
16 |
1941 |
118 |
182,500 |
1,547 |
14.2 |
17 |
1942 |
650 |
367,000 |
565 |
31.0 |
18 |
1943 |
396 |
257,000 |
649 |
24.4 |
19 |
1944 |
520 |
278,000 |
535 |
23.8 |
20 |
1945 |
489 |
333,300 |
682 |
16.2 |
21 |
1946 |
815 |
359,800 |
441 |
22.1 |
22 |
1947 |
102 |
95,100 |
932 |
18.8 |
23 |
1948 |
361 |
202,000 |
560 |
16.2 |
24 |
1949 |
452 |
300,000 |
664 |
19.4 |
25 |
1950 |
1,017 |
531,500 |
523 |
22.2 |
26 |
1951 |
1,242 |
632,700 |
509 |
17.6 |
27 |
1952 |
1,325 |
606,500 |
458 |
25.4 |
28 |
1953 |
774 |
370,500 |
479 |
33.8 |
29 |
1954 |
1,556 |
806,000 |
518 |
31.0 |
最大 |
1,760 |
968,000 |
1,547 |
37.4 |
最小 |
17 |
14,000 |
439 |
14.2 |
平均 |
683 |
411,810 |
658 |
24.1 |
|
(2)移殖、放流の歩み
奥日光水域における養殖、放流事業の歩みについては、田中(1967)が次のように記述している。
『1887年(明治20年)奥日光の官有地が御料地に編入され、中禅寺湖も宮内省の所管となった。深沢のふ化場では、卵のふ化を行い、稚魚を中禅寺湖に放流していたが、放流数が多くなり、搬入に不便であった。そこで、中禅寺湖の西北端地獄沢に水温9℃、pH7.2の湧水があることに着目し、放流にも好適な場所であったため、1890年(明治23年)にふ化場を菖蒲ヶ浜に移し、農商務省の指導のもとに、地元住民がふ化放流事業を行った。
住民は1886年(明治19年)以来、漁業組合を組織して事業を継続してきたが、1902年(明治35年)漁業法が制定された時、中禅寺湖が公有水面でないため組合は解散することになり、それ以後旧組合は任意組合として御料局の許可を得て漁業を継続した。−中略−
1902年(明治35年)の稀有の暴風雨による洪水のため、湖水が1ヶ月にわたって汚濁し、魚類は濁水で死滅、あるいは華厳滝から流出したと伝えられている。そこで、1906年(明治39年)宮内省御料局は、農商務省水産講習所長松原新之助に委嘱して、御料局がふ化放流事業及び養魚事業を経営することとなった。
すなわち、中禅寺湖及び地獄川(湯川の下流)にサケ・マス類の移殖を図り、また漁獲物の払下げや漁業組合員の生計等を考慮してふ化放流事業を盛んにする一方、養魚事業を促進するため同年にふ化場並びに養魚池が設置された。移殖されたサクラマスは北海道西別川から、ビワマス(アメノウオ)は琵琶湖から、ヒメマスは北海道支笏湖並びに秋田県十和田湖から、ニジマスは直接米国カリフォルニア州から卵を購入し、ふ化放流を行ったもので、これらが宮内省における養魚事業の始まりとなった。以来、年々その親魚を捕獲して採卵放流し、あるいは十和田湖、支笏湖よりヒメマスの卵を購入補給し、さらにヒメマスの原種であるベニマスの卵を千島列島エトロフ島のウルモベツより補給した。またニジマス卵も大正元年まで毎年輸入した。
これよりさき1902年(明治35年)に、英国公使官員パーレット氏は、米国コロラド州よりカワマスの卵を輸入して湯川に放流したが、その後のカワマスの繁殖は著しく、湯川はカワマスの優良な釣魚場として世に知られるようになった。−中略−
奥日光湖沼群への放流事業の歴史は養殖研究所日光支所の研究の歴史でもある。当時これらのふ化放流の管理に当たったのは、湯元地区の大類久平、南間新十郎、小林雅太郎の諸氏といわれているが、大正元年頃より、その人工産卵を日光養魚場の職員が行い、河川放流に池中養殖に増殖を図ると同時に、種卵を国内の希望者に分与した。第二次大戦後、皇室財産が物納され、1949年(昭和24年)4月、当場は水産庁へ所管換となり、全職員もそのまま引継がれて従来のままの事業を継続することになった。
当初は水産庁生産部に属したが、昭和26年漁政部へ移った。いずれにしろ当時は全国に配布する種類が少なく、種卵の生産に努力して試験場、漁業組合などに配布し、戦後の増産に努めた。』
養殖研究所日光支所は、現在は独立行政法人水産総合研究センターに属し、立地条件を生かした冷水性魚類、特にサケ・マス類の繁殖および育種に関する研究を行っている。また、試験研究成果の公開・啓蒙のため、観覧業務も行っている。
養殖研究所日光支所は、明治年代から幾度も所属が変わりながらも、奥日光におけるサケ・マス類の養殖技術の開発と普及活動、そして卵・稚魚の全国への配布などをおこなって、日本の養殖業の発展に貢献してきた。
(3)現在の養殖、放流事業
現在、奥日光水域で積極的に魚類の放流事業が実施されているのは中禅寺湖、湯ノ湖、湯川である。中禅寺湖では、中禅寺湖漁業協同組合によって、ヒメマス、ホンマス、ニジマス、スチールヘッド、ブラウンマス、コイ、ウグイ、ウナギなどが放流されてきた。特にヒメマス、ホンマスは産卵のための、湯川下流の湖岸に回帰群集する親魚を地曳網で捕獲して、中禅寺湖漁業協同組合のふ化場で人工採卵、ふ化放流を実施している。また、ヒメマスの種卵は県外にも移出されている。
湯ノ湖と湯川では、養殖研究所日光支所が冷水性魚類の各種研究を行うとともに、全国内水面漁業協同組合連合会が釣り場の運営にあたっている。放流魚種は、ニジマス、カワマスである。
現在、これらの魚種の水域は、表4-1-1のように管理されている。
表4-1-1 奥日光における水域の管理
水域 |
管理 |
中禅寺湖、西ノ湖、外山沢川、ツメタ沢、 柳沢川、観音水、横川、清水 |
中禅寺湖漁業協同組合が1963年に第5種共同漁業権を得て管理。 |
湯ノ湖、湯川、地獄川 |
水産庁が行政財産として保持し、湯ノ湖、湯川は全国内水面漁業協同組合連合会に管理を委託。 |
蓼ノ湖、切込湖、刈込湖、光徳沼 |
林野庁が管理。 |
|
出典:斎藤(1986)
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