日本財団 図書館


プログラム第1日目
10月10日(木)
会場:国立京都国際会館 2階 ルームI
分科会4 時間15:00〜17:30
 
テーマ:
働く
趣旨:
就労を支援する制度は、色々と模索されているでしょうが、働くのは、何と言っても本人(当事者)です。
そこで、今回は当事者の方々の生の声を聴き、働くことの多様なあり方を考えるきっかけになればと思います。
 
報告者
  
A
  
(NPO法人陽だまりの会 大阪府)
 
 
 
 
「精神障害者の社会復帰」
報告者
 
岩崎 和子
 
(クッキングスター 東京都)
 
 
 
 
「働き続けてこられたのは、回復への願いとサポートがあったから」
報告者
 
松本 和夫
 
(ピークヤム株式会社 千葉県)
 
 
 
 
「私にも働き続けられる仕事と出会え、とても嬉しいです」
指定討論者
 
広瀬 明彦
 
(社会福祉法人 相楽福祉会 常務理事 京都府)
座長
 
山下 俊幸
 
(京都市こころの健康増進センター 所長)
 
分科会4 働く
精神障害者の社会復帰
A(NPO法人 陽だまりの会 大阪府)
 
 僕は、1995年に学生の時、病気である事が判り、それから暫くは家でぐうたらしていました。そんな僕をみて、母が、それなら行ってみるか、と誘われたのが、保健所のグループワークと、作業所の陽だまりです。そういう所に通っている内に、ちょっとずつ元気になり、1999年にNHKのテレビに出演した時には、「陽だまりは、就職へのステップと考えている」と発言する程になりました。そして、2000年の秋に、僕の得意とするコンピュータへの入力作業の仕事で、障害者枠で、紹介があったので、就職して、現在に至ります。
 障害者が仕事に就く事を一般に社会復帰、とも言ったりします。社会復帰とは、いわゆる、最低賃金以上の給料を貰える職業に就く事を指したり、そう考えられたりしがちですが、僕は、作業所に通う事も、社会復帰と言えるのではないかと思うのです。家に閉じ込もって仕舞って、外に滅多に出かけない状態では、社会と言える、他の人間とのコミュニケーションを取る事がない訳で、そういう状態を社会復帰、とは言えないと思いますが、作業所等に出て来て、仲間や職員さん達と交流を深めている場合は、それは、社会の一員として、何らかの活動をしている、と言う事で、ある意味で、作業所等に通う様になった時は、社会復帰をした、と言えると思います。
 精神障害者が、「社会復帰」する時、問題となる事で、一番多いのが、人間関係に悩む、という事らしいです。僕の場合も、そうですね。作業所に出る時にしろ、会社に就職してからの時にしろ、人間関係が、一番、難しかったです。就職した当初は、問題は発生する筈(はず)無い様に見えましたが、暫く経って、あれは、お客さん扱いしてくれていたんだ、という事が判りました。何時も、周りの人が、自分に対して、にこやかに接してくれるとは限らない、障害者でも、それ位の事は慣れなければならないとは思います。何時でも、ちやほやしてくれる訳では無いのは、自然な事だとしても、激し過ぎる言い方を気を付けるとか、大抵(たいてい)の事なら、怒るのではなく、注意する程度に止(とど)めるとか、それ位の事までは、障害者として、気を使って貰わないと、とは思います。
 僕個人の話をすれば、仕事に就いて、最近になって、上司とは、少し距離を置くような感じになって、それで、うまくいっています。近況はその様な感じです。
 
「働き続けてこられたのは、回復への願いとサポートがあったから」
岩崎和子(クッキングスター 東京都)
 
 皆様こんにちは。東京調布市のクッキングハウスから来ました岩崎です。
 私は今59歳です。今はマンションのお掃除をしています。お掃除は嫌がる人も多いですが、今年で4年目になります。この仕事をする時に、今まで20回も職場が変わっているので絶対に辞めないという信念を持って望みました。お掃除をしてきれいになること、お金をもらうこと、マンションに住んでいる人と挨拶をすることが喜びです。ゴミを出す人が間違って、ペットボトルではない日にペットボトルが出ていたりと、ゴミの収集の時にきちんと仕分けをするのが大変ですが、それもお給料の一つだと思ってゴミの整理をして収集に出しています。
 私の掃除の仕事場はアパートから10分位のところなので、朝7時頃仕事に行っています。薬を飲んでいるので、毎日働くのは大変ですが、週三回火・木・土で2時間です。仕事も新聞の折り込み広告で探しました。
 今までの私の仕事歴は20回。病院入退院歴も11回です。入院中は薬を飲んでいるので、退院して仕事についても薬が効いているのですが、退院すると薬を飲むのを辞めてしまうので又もとに戻り、仕事と入退院の繰り返しでした。今は昔と違って薬も良くなっているので、きちんと飲んで毎日を過ごしています。昔は薬を飲むと眠かったり、口の中が薬でネチネチしたりろれつが回らなかったりしていました。クッキングハウスでの学習会の中で、薬を中断すると一年以内に80%再発するというデータがあるそうです。自分にあった薬を飲めるように担当の先生と相談しながら減らしていくなり、体を使って疲労して睡眠剤を飲まなくても寝られる状態になるように、一日の生活を考えて行動しています。
 一人暮らしをして20年になりますが、障害年金・生活保護・仕事とクッキングハウスで頂いたお金とを合わせて生活しています。クッキングハウスにめぐりあえて編み物や料理で楽しい一日を過ごしています。
 今のマンションの仕事につくまで、いろんな仕事をしました。事務の仕事についていたこともありましたが、段々と機械化していきついていけなくなって、辞めてしまいました。職業訓練校の35歳以上のヘルパー科を勉強して、半年間でヘルパー3級の資格をとりました。そして病院で3年間働きました。最初は外科で次に老人病棟、ICUとそれぞれ1年間ずつ働きましたが疲れが出て3年間で辞めてしまいました。病院での働きは年とった人とペアを組んで、親切に教えてくださったので3年間働くことが出来ました。
 これまで上司が2人いてどちらの上司に着いていったら良いのか迷っているうちに、人間関係が出来なくなり辞めてしまうケースがだいぶありました。初めての仕事で覚えるのが大変で思うように出来なかったりして、人間関係がダメになる場合もありました。
 病気になってからの40年間、入退院、就職とよく頑張ったと思います。
 病気になって家族に迷惑をかけていると思います。お父さんやお母さんのお手伝いをすることも、働きの一歩ではないでしょうか。家でごろごろしている日が少なくなって、お料理のお手伝いや、食べた食器の後片付けや、今まで迷惑をかけている分会話してみてください。くれぐれもケンカをしないようにお互い話し合って、楽しく暮らしていけたらよいと思います。そして温かいクッキングハウスのような場所が増えることを願っています。今幸せだと思っているのは、(1)通える場を持っていること(2)好きな趣味を持っていること(3)人間関係が上手くいっていることです。最後に今は亡き私の父は、地域で保健婦さんと他の家族の方とはじめて家族会を結成しました。今回の全家連大会に私が発表できることは、何より父への恩返しだと思います。
 
私にも働き続けられる仕事と出会え、とても嬉しいです。
松本和夫(ピークヤム株式会社 千葉県)
 
 13才の僕は痩せたくて「食べた物は全て吐いてしまえばよい」と短絡的に思う。高校3年の時に閉じこもりが始まる。22才の時に貴金属加工の仕事を見つけ、何ヶ月か働いたが、他人と関わるストレスで過食はプライベートな時間の大半を占めるようになる。知人のすすめで、順天堂の精神科の閉鎖病棟に6ヶ月入院した僕に初めて付いた病名は、精神衰弱だった。
 担当のドクターは、あなたは進学をしたいんだから、その資金を貯めるようにとすすめる。僕は職安で港湾労働の仕事を見つけ働き始める。
 薬を飲み続けながら働く事への違和感から体調を崩し1ヶ月入院、また閉じこもる。以後、掃除のアルバイトをしたが、続かない。
 34才のとき、具合が悪かったにもかかわらず、何の挨拶も交わさず母親が家から出て行き一人暮らしになる。保健婦のすすめで、JHC秋桜と言う作業所に通うが、メンバーの中では浮いた存在で、所長との折り合いも悪く、利用を中止される。その6ヶ月位前より就職活動を始める。
 職安で、この病気の人間をオープンで受け入れるピークヤム(株)と言う所が有ると言うので面接を受ける。緊急雇用プロジェクトを受け、実習1ヶ月トライアル雇用3ヶ月を過ごすが、誰よりも多く仕事を休む。
 「もう辞めます!」と言うと「ダメ!」と言われるので、休みながら働く。そういい続けてくれる上司や社長に仁義を通そうと強く思ったので辞めなかった。
 そうして僕は社員になった。僕の仕事はメンバーの管理と会社の在庫の管理。
 「結果をだして下さい」と言うのが悪いんだろう。僕の思うようには、人は動いてくれない。
 ある時、僕は選択をした。家事か仕事か?
 迷わず、仕事を僕は取った。掃除も炊事も嫌やでしない。洗濯はするが乾いた衣類はたたまずに山積みしてある。
 僕は死ぬ直前まで働き続けたい。自分の夢を自分の力で叶え続けさせるために。







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