平成13年10月5日
訪問カウンセリングレポート
『私がこれから、訪問カウンセラーとしてやりたい事』
私は毎月2、3回、高齢者施設、不登校児の為のフリースクール、知的障害者の施設等へ行き、色彩を応用したボランティア活動を実施しております。
色彩が人に与える影響は、計り知れないものがあります。好きな色、嫌いな色、優しい色、冷たい色、元気になる色、落ち着きを与えてくれる色等。私達が何気なく選んでいる色、こころ惹かれる色は、自分自身のこころを表し、癒されている事が多いのです。
色彩を応用したボランティア活動にのひとつに、簡単なイラストにクレパスで色を塗って頂くことがあります。自分の好きな色を思い思いの色に塗るだけです。上手下手関係なく自分の気持ちをそのまま色に託すのです。塗っている時は、皆さん楽しそうです。塗ることにより自分のこころをぶつけられるという心地良さが、こころと体をリラックスさせてくれます。
完成した作品はそれぞれ違います。赤、黄、橙、緑、青、紫、白、灰色、黒等、ひとつひとつの色の持つ感情、イメージからその人の気持ちを読み取ることができるのです。ひとりひとりに絵の説明をしてもらうとその人の内面も見えてくるのです。そして皆さんの作品を全部並べてみると自分と他の人との違いが解ります。それが自分自身をより認識できる結果にもなり、又他の人のこころをも気遣う事ができるようになるのです。
色彩のこと子供達の心理のことなど学ぶべきことがたくさんありますが、こどもたちが身近にある色によって自分のこころを素直に表現でき、それを私達が少しでも理解で来るということはとても素晴らしいことです。同じ空間と時間を一緒に共感できることの楽しさと、逆に子ども達からいろいろな事を教えられて帰ってくる充実感にこれからも頑張っていきたいと思います。
訪問カウンセリングという難しい第一歩のきっかけを、いつでもどこでも身近にある色彩を応用して子ども達と共に楽しみ、共に考えていきたいと思います。
以上
無題
今まで生きてきた中で「人と人との関わり」ということを意識して考えだしたのはここ4・5年のことだけれど、ずいぶん色々なことを思い、カンジさせられた。
大学の時に入っていたサークルでは、児童相談所に関わっている「問題を抱えている」子どもたちと接していた。「問題を抱えている」子どもたちだから、私たちは慎重に、綿密な計画を立てて子どもたちと接しなければならない、1年生の私は先輩たちにそう言われ、そうなんだ、と思い子どもたちと出会った。
実際会って遊んでいくうちに、サークルの決まり事にいっぱいいっぱいになって、子どもたちと心から遊べていない自分に気がついた。そして、子どもたちに対してこんなに構えなきゃ一緒に遊べないのかなあ、という疑問が浮かんできたのだが、「私はまだ何にもわかってないんだな」と思って、疑問には思わないようにしてしまった。
思えば、これが「関わり」について初めて考えた時だったのだが、ここが頭でっかちのスタートだったとも言える。
2年生になってサークルをまとめていく役割となった。後輩が入ってきて、私は先輩から伝えられたように後輩に「関わり方」を伝えていった。後輩たちはとても素晴らしい感性を持っていた人たちで、そしてためらわずに「関わり方」の疑問を投げかけてくれた。でも私はなんたらかんたらとサークルの決まり事を述べてみたり「問題を抱えている」子どもたちだから、というように答えていた。そして後輩たちがサークルの通りに動いていないとイライラしたりもした。
そんなことを4年も積み重ねた私は、友だちとは違う人たちと接する時にその人たちの色々な情報、どんな経歴があり問題を抱えているのか?家族関係は?などを知っていないと関われない、と思うようになっていた。だから、卒業してすぐにフリースペースで働くことになってすごく驚いた。
そこでは、子どもたちに関する情報はほとんどなしで関わっていくことになったからだ。「情報ほしいの?」とも言われた。だから初めの頃は情報をよく頭に入れようとしていたと思う。でも、そのうちにまず情報を頭に入れる、という作業はしなくなった。必要ないな、と思えたからだ。また「こうしなければならない関わり方」というのもなかった。私がまりもとしてまりもの感性で関わっていいということもわかった。
そして、後輩たちの持っていた感性にもこの頃に気付いた。誰でも人が人と接する時に何かしらの枠の中にいるにしても、その枠が感性をつぶして、人と人とで関われないようにしてはいけない、とカンジた。感性をつぶしてしまったら、その人はその人じゃなくなってしまう。私が大学1年生の時にちらりと疑問に思ったことも、その頃は漠然としていたけれども「構えすぎてまりもじゃない」と思ったところだと思う。
こういうことはすごく基本的なようなことではなかったのかもしれないが、「自分」が「自分」として人と関わることが大切なことだと気付かされたのは、私の中ではすごく大きい。
これからも「まりも」らしくありたいと思う。
<きっかけ>
私は最近、不登校や引きこもりになる原因・きっかけは何なのだろうと考えることが多い。現在私は、日中は小学校の教育補助員、夕方からは塾の講師という2ヶ所の教育機関に勤務している。塾で毎時間ごとに行われるミーティングでは、毎回のように『勉強(学習)の遅れは不登校につながる』という話題が持ち上がる。確かにこの考え方は一理ある。しかし、所詮一理にしか過ぎないというのが私の考えである。なぜなら、まずこの考えは小学生には余り当てはまらないように思うからである。実際、初めての集団生活で人の話を聞くことから学ぶ子どもたちの内には、自分が友達より勉強ができるといった事よりも、もっと大事にしていること・物を沢山抱えて生きている様に感じる。そして、その彼らが大事にしていること・物とは、大人が日常生活の中ですっかり忘れてしまっている少しの濁りもない純粋な心であったりして、思わずはっとさせられてしまったりする。
引きこもりが開始される年齢には各々差があるが、そのような結果を招いてしまう根源には、人格形成の段階における環境が大きく影響していると感じる。私は今回の講座を受講する前と現在とで、自分が今後していこうと考えている取り組みが少し変わってきた。受講前は、どうしたら不登校や引きこもりの人達を救えるかに重点が置かれていたが、今は、まずその不登校や引きこもりになる子どもや大人がそういうきっかけを作らない環境を作っていきたいと考えている。
今回のレポートは、私の仕事上どうしても小学生(6才から12才)に焦点が絞られてしまっているが、どんなにやんちゃないたずらっ子でも心は傷つきやすくもろい。大人にとってはほんの些細な出来事が、大人の知らない所で子どもにとっては忘れられない大きな傷となっているのも事実である。傷ついている子どもに気付いてあげられたら、まだそれは幸せな方である。その子どもの傷を癒す法を見出せばいいのだから。大変なのは、傷ついた心に気付いてあげられないことである。そのたった1つの出来事が全てのきっかけとなり、少しずつ心の壁を閉ざし始めたら・・・。
私は、不登校や引きこもりを未然に防ぐために必要と考えることがもう1つある。それは、親が、教師が、大人が子どもの育成段階において、自立した子どもを形成していくことである。そして、まず家庭では(勉強も大事だが)、塾へ通わせていい学校へ入ることよりも、その年にしか出来ない体験をいっぱいさせて欲しい。また、ことば(理論)でなく、様々な体験(実践)を通して沢山の感性や感情を身に付けさせて欲しい。そして、子どもの心の声を聞いてあげて欲しい。そうすれば、子どもは成長していく過程で困難にぶつかった時、解決法の選択肢を自ら増やしていくであろう。そしてこのことは子どもにおいてのみならず、人と接する時に必要なことであると思う。私は人と接する時に、道を、与えるのではなく、道の作り方を伝授し、時には作業の手助けをしたいと思う。
最後に、この講座を通し多くの情報・これからのきっかけを与えて下さった豊田さん、藤森さんをはじめ関係者の皆様、出会った多くの方々、本当に有難うございました。
最近母親考
子育て中のお母さん達に接する仕事をしていると、最近気になることがある。いわゆる子育て中のお母さんの悩みといったら、「子供がミルクを飲んでくれない」「夜なかなか寝てくれない」などなど、発達・発育・育児に関することだった。それは、「一生懸命やっているのに」「イイお母さんになりたいのに」という“お母さん”としての心の叫びだったように思う。“母性”の叫びだったように思う。しかし、最近の相談があったお母さんは、「子供がかわいいと思えない」「何もしたくない」というものだった。子育ての悩みのあるお母さんによく言われる、「夫婦仲が悪い」わけでも、「夫が育児に協力的でない」わけでもないらしい。できることなら「子供は他人が育ててほしい」が本音のようだ。ただ、「彼に嫌われたくないから」「離婚されたら困るから」という理由で、自分が子育てしなければならないとは思っているようである。これはどういうことなのだろうか。
“母性”というものが彼女にはないのだろうか。こういったお母さんに通常の励ましは通じない。「あなたも頑張ってるじゃない」「もう少しよ、もうちょっと頑張ったら楽になるわよ」「頑張んなさい」・・・。この『がんばれ』という言葉がどうもいけないらしく、彼女いわく、「子育てを終えたおばちゃんなんかに『がんばれ』といわれるとチョームカツク」のだそうだ。こういった母親になんといって相談にのってあげるべきなのだろうか。彼女が今して欲しいことは、彼女と一緒に彼女のこれからの人生について考えてあげることなのではないか。彼女が今欲しい人は、親身になって彼女のことを考えてあげる“彼女のお母さん”なのではないか。彼女自身が“お母さんを欲している”と思わざるを得ない。
今のお母さん達に社会が応援メッセージとして送って欲しいもの、それはお母さんである一人の女性の人生への応援メッセージであって欲しい、という事なのではないだろうか。「子供を持ったのだから仕方がない」「子供がいるのだからイイじゃないか」ではなく、「子供を育てているその期間も私にとっては人生の大切な時間、諦められない時間だし、その間も私だって成長している、どうか私のことをちゃんと認めて」と言っているのではないだろうか。これから各地で立ち上がっていくであろう『母親サポート施設』がどうか、“母親”ではなく、“一人の女性”を応援をする所、であって欲しいと思っている。
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