カウンセリングとは
カウンセリングに対する関心が世間で高まっている。カウンセラーを目指す若者が急増しているし、最近はいろいろなところで、カウンセリングという言葉を聞く。
ところが、実はカウンセリングという言葉の意味は不明瞭だ。例えば、カウンセリングと心理療法はどう違うのかということひとつとっても、諸説ある。カウンセリング(C)の中に心理療法(P)が含まれるとの考え方もあれば、逆にCがPに含まれるという人、CとPはまるで一致しないという意見、逆に一致するとする説、また部分的に重なるとの考えもある。アメリカ心理学会(APA)はCにPが含まれるとの立場だという。逆の考えではCは「正常な人の軽いパーソナリティの問題を比較的表面的に治療する」のに対し、Pは「パーソナリティの組織をその深層から再構成することであり期間も長い」のだそうだ。
では、カウンセリングの意味を心理療法も含んで幅広くとらえると、この中味は千差万別で技法の違いを見ていくと日本で知られているものだけで五十種は軽く超えてしまう。米国では百や二百のオーダーで様々な手法が発展しているという。
最初は催眠術から始まって、フロイトが精神分析に発展させ、アドラー、ユングと連なるのが、力動論的立場。人間の心の構造や働きに「無意識」の持つ力が強く影響するとする考え方らしい。治療はその無意識にある自認しにくい自己の秘密を表現させ、自覚させるということになる。
こうした流れに対し、日本で最大の流派になっているのが、来談者中心法カウンセリングだという。これはC.R.ロジャースが1940〜50年代に開発した技法で、日本にも戦後浸透し、当初は「非指示的療法」といっていた。カウンセリングというとすぐ、「非指示的」と出てくるのはこのなごりなのだそうだ。この技法自体は、相手のいかんを問わず単調で、とにかく相手の陳述に対し共感をこころがけ、こちらから積極的な介入や指示は与えないのだという。こんなことで有効なのかと思うが、ケースによっては案外効く。ただ、ロジャース自身、最初は子ども、次は親、そして神経症、精神病と、どんどん難しい相手に挑戦していったため、最後は行き詰まってしまったらしい。児童や思春期の子どもが相手であれば、放っておいても「成長」してくれる。よく話を聞いてやり自己表現を促進していくだけで、かなりの改善が期待できるし、世間一般からは得られない「無条件の暖かい心」や個人的な打ち明け話のはけ口が用意されるのだという。
で、この技法に飽き足りなくて、もう少し積極的にと考え出されたのが、行動療法。これは「実験によって確認された心理学理論を治療に応用したもの」で、いってみればネズミの心理学を人間に当てはめたものなのだという。ところが、これはこれで、具体的に特定された治療目的にはよく効くらしい。さらに外的な行動だけでなく、内面のついても練習の効果をあげようと認知療法が生まれたりしている。
また、これまでの個人に対するものよりも家族全体を相手にする家族療法をはじめ、環境や雰囲気を考慮に入れた環境療法、作業療法、集団療法といった集団を相手にすることでパワーアップする技法が生まれてきたという。
これほど、様々な方法があって、治療効果はたいして変わらないという研究データもある。いずれにしろ、「カウンセリング」と一言でいってもその意味は実に多様だということを知っておくべきではないだろうか。
参考図書 心理療法(朱鷺書房)カウンセリング(日本文化科学社)カウンセリングを学ぶ(有斐閣選書)カウンセリング・幻想と現実(現代書館)
今の私にできることは?
最近の事件で最も関心のある出来事といえば、自らの子どもに対しての虐待であったり、子殺しであったりする。夜泣きがうるさいから、ダンボールに詰めたり、しつけと称して紐で縛って殺して捨ててしまったり、熱湯をかけたり、食事を与えなかったりとむごいことの繰り返しである。
不幸にも我が子を殺してしまった親たちの中には、自分も幼い時に親から虐待をうけていたという者が、少なくない。殺人を犯してしまった彼ら、彼女らは、極端な例で一般的ではないにしても、最近の若い親たちが、我が子に十分な愛情を抱けなかったり、子育てが下手だったりすることは、否めない事実であると思う。そういう親たちが増えてきている。子どもを殺すまでは、いかないにしても、子どもに愛情を注げない親たちが、確実に次の世代の子供たちに影響を与えつつあるということが、とても怖いと感じている。
「三つ子の魂百まで。」ということわざは、説明しなくても、わかると思う。「ベーシックトラスト」という言葉は、心理学で使われるのだが、自分が相手に対して愛情を持てば、相手もそれに答えてくれるという信頼感のことである。私は、それらの言葉と同様、もしくは、それ以上に、以前勤めていた保育園での園長の言葉が、忘れられないでいる。この言葉が、私の疑問などをすべてクリアにした。それは、「親から、愛されているという経験や、安心感のない子どもは、友達、に関心が、向かない。」という言葉である。多分何かの本からの引用であると思うが、胸に残る言葉であった。
人間関係の基礎は、親子関係である。2歳までは、親との関係が、すべてといえそうだ。それが、うまくいってこそ次の段階は他人への関心である。3歳になって自然に友達と一緒にいることが楽しくなるのであり、自分がかかわる人間関係を広げていき、けんかしたり、仲良くしたり、泣いたり、笑ったりして人との関わり方を覚えていくのである。5歳にもなる頃には、やっていいこと悪いことの判断ができるようになっていき、小学校に上がる頃になれば、集団の中の自分を意識して、人との付き合いができるようになっているはずである。
それが、3歳までの段階で親から、愛されているという実感や、経験や、安心感のない子というのは、人間関係の初期の段階で既につまずいてしまっていると言うことは、間違いないことなのである。虐待を受けないまでも、子どもに愛情を注げないでいる親たちが増えているということは、人間との関わりが下手な子供たちは増えているということに他ならないだろうか。
私の数少ない体験のなかでも、そういったことは、多々あった。
私の娘が、小学校2年生の時の話しである。私は、この時期が、親子関係を立て直す、最後の時期だと思っている。私の経験上の話しになるが、これ以上になると、親がかかわっていくのが、段々難しくなっていく気がする。親に対していろいろな感情を隠すことができるようになっていき、よって、自分の心が満たされない腹いせにいじめてみたり、逆に学校に行けなくなったりしていくのではないだろうか。
E子ちゃんは、3人兄弟の長女である。母親は、E子ちゃんとは、馬が合わないとよく言っていて、いつもひどい叱り方をしていた。それでも我が子がかわいくないわけがなく、しっかりもののお姉ちゃんとして、母親としては、認めていたつもりではいたようである。
E子ちゃんは、本当は、甘えん坊でべたべたとしたスキンシップを求めるような子であったため、お姉ちゃんとして認められるより、だっこでもしてもらえれば、満足だったはずである。
いくら、親が、十分愛情をかけていると思っていても、受け取る側の当の子どもに通じない場合もあるはずで、タイミングがずれていたりしたら、愛情もかけてもらってないのと同じである。
彼女は、友達ができにくく、学校でも意地悪を繰り返していた。I君も同様、授業参観の日の明るい彼は嘘のように、特定の子に暴力を振るうなどして、次第に孤立していった。Wちゃんは、何をやっても一番のお兄ちゃんの影で、友達の大切なものを隠したり、捨てたりしてのいじわるをしていた。3人に共通することは、両親が、本当の子どもの姿に気がついていなかったこと。子ども自身が、寂しそうで、E子ちゃん以外の2組の両親は、子育てに自信を持っていたこと。子供たちが、親の関心を引きたがっていたこと。子ども自身、友達が少ない、もしくは、できにくいといったこと。などなどである。
人との関係を円滑に持て、豊な感情や、人間関係を持ててこそ、他人にもやさしくできていくはずである。すべては、3歳までの親子での愛情のキャッチボールが基礎であるというのが私の考えであり、一番の関心事である。
人間関係のつまずき、不登校、いじめ、引きこもり等の問題解決は、結局ここまでさかのぼらないと根本的な解決にならないのではないかとさえ思っている。まだ何も解っていない私が、そう結論ずけるのは、あまりにも短絡的であるかもしれないが、いつも、そう感じている。
ちなみにE子ちゃんだけは、母親が、私に頼ってくれたのと、他のお母さんも、心配してくれたこともあり、友人と、誘い合って放課後、遊ぶ中だけで孤独感もうすれていったようだ。友達に受け入れられているという安心感が、E子ちゃんを落ち着かせっていった。
母親も、同様に落ち着いていった気がする。些細な解決方であってもこの時期には有効である。他の二人に関しては、母親に子育ての自信があるだけに、かたくなであった。おせっかいな私たちの手は、借りたくないといった様子であったし、何よりも子どもの本当の姿に気がついていなかった。
これまでのことを振り返り、今の私がしたいこと、できることは何であろうか
友達とうまく関係を持てない子、いじめる子、いじめられる子、幼稚園に行きたがらない子、など、つまずきの、初期段階でカウンセリングができないだろうか。もっと、気軽に、相談を受けられないだろうか。
私のかかわれる分野は、小学校に入るまでの年齢の子供たちである。自分の子育ての経験からも、小学校低学年までの、親がまだかかわっていける年齢までである。
おまけとしては、7年の海外駐在での子育て経験から、異文化の中で育って日本で適応できないでいる子達の手助けもできるはずである。親がかかわっていける年齢の子供たちの、いじめや、引きこもり、に対処する幼稚園、保育園、小学校でのスクールカウンセラーのような立場で引きこもってしまう前の段階にかかわっていけないかと思っている。
今のままの私では、それは、夢のような話しではあるが、ずっと考えていたことである。今回自分の暖めていた気持ちを文章にすることができ、それだけでも光栄である。
子育てが、苦手な親から、また子どもに愛情がもてない親、虐待する親など、増えていかないことを願っている。
「訪問カウンセラー講座での学び」
「訪問カウンセラー講座」を新聞で見た時、訪問カウンセラーとはどこかで聞いてことが有るような、初めて聞いたような とほとんど「曖昧模糊」としていた私でした。講座に出席する回数が増えるにしたがって徐々に、訪問カウンセラーの意味とその目的を理解することになりました。
確かに、引きこもりや、登校拒否の人達がわざわざカウンセリングを受けにくることはまれで、多くは、母親両親がカウンセリングの扉をたたくのではないかと思います。
当の本人にとって、引きこもり 登校拒否をする位ですので、外に出ることは到底考えられないでしょう。外に出られない、出たくない。学校に行けない、行きたくない。社会とかかわれない、かかわりたくないと、苦悩の中で生きていかなくては行けない人々に、積極的に、あえて手を差しのべる訪問カウンセラーの意義は、計り知れずに大きいと思う。
訪問にしろ、カウンセラーの仕事に携わるとき、私として、次の三つの必須条件が浮かび上がってくる。
(1)苦悩を同苦する
(2)相手の立場を理解する。
(3)否定せず、容認する(受容)
(1)の同苦することが一番むずかしい。何故なら引きこもり、登校拒否を体験した人にとっては簡単であっても、体験していない人間にとって、同じ苦しみを味わうというのは大変な事である。
(2)相手の立場を理解する。これも同苦と同じかもしれないが、引きこもり、登校拒否をしている原因を探り、理解する。
(3)否定せず、容認する は(2)の理解すると同じ意味で、何はともあれ否定せず受容することが一番必要なことである。(1)(2)(3)は、お互いに連動して、切り離せない事柄になる。
以上カウンセラーの心得として、私情をはさまず、あくまでも相手の立場に、同苦し、理解し、無条件に認める事が最大の条件ではないかと考える。
訪問カウンセラーの講座で新たな学びは訪問する前に
(1)家庭環境
(2)両親との関係
(3)学校の成績 勉強の好き嫌い
(4)学校でのいじめの有無
(5)スポーツ、部活は何をやっていたか
(6)通院歴の有無
等々そのクライエントの誕生から減債に至るまでの状況などあらゆる情報を知ることはカウンセラーにとって必須条件として貴重な学びをさせてもらった。訪問前の情報のチェック、訪問事項などの整理は「訪問カウンセラー講座」で学んだ最大の特典であった。
いつの日か、カウンセラーをめざそう!と思っていた私にとって、この講座で学んだあらゆる事が今後の方向性に希望あるものとなった。そして全てが貴重な経験であったと心から感謝しています。
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