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「不登校と訪問カウンセリングについて」
 「登校拒否・不登校を考える親の会」に参加している中での体験、そして8月に新潟で開かれた「登校拒否・不登校問題 全国のつどい」に参加した中で感じたことをまとめる。
 
 登校拒否・不登校は年々増え続け、平成12年度の文部省の報告によるとその数は13万4000人を越えている。しかしこの数は国公私立の小中学校を対象とした数値であり、高校・大学における中途退学者数、そして就労や人間関係に困難を抱いている人の数は含まれていない。つまり実際に登校拒否・不登校として、もしくは経験者として問題や困難を抱えている人の数は、報告されているより圧倒的に多く、またそれだけの人に適切な支援がなされているかといえば、そうではない。
 多くの親が語るには、不登校は学校を卒業すると同時に終わる。しかしそれは本質的に問題が解決して終わったのではなく、学齢期が終了したことによって“不登校”ではなくなることを意味する。つまり学校に行けなくなった、または行かなくなった根本の問題はいまだ残るので、それを引きずり続けることが多い。内にこもった引きこもりではないが、外に出たくでもそのきっかけと勇気が持てずにこもりがちになったり、もしくは外に出ていても人と接することを拒否している人が多数いる。そのような人達は人との関係作りができないことや、人に対する恐怖心、人に気を遣いすぎることで、社会に出ていくことの困難さや恐怖を感じている。
 この困難さや恐怖を消していくには、人との関係作りを始める必要がある。ここに、訪問カウンセリングの可能性があり、必要性が感じられる。特定少数の人との信頼関係を築いていく過程で、他者を受け入れ、また訪問者と断続的な関係を持つことで人間関係の回復、そして次のステップヘの準備をしていく。最終的に訪問者との信頼関係が築けた時に、外への広がりの可能性が具体的に見えてくる。社会に出ていても他者と関われない人は、バランスを崩したり、なにかのきっかけでいっきに拒否へと戻ってしまい、社会に出られなくなる恐れがあるが、そのような事態を未然に防ぐためにも、訪問カウンセリングのように特定の人と、回数は少なくても長期的に関係を継続して、人間関係の回復をしていくことは必要で可能なアプローチであるだろう。
 引きこもりがちな子どもをもつ親の話を実際に聞いているかぎりだと、こもりがちであっても、外に出て行くきっかけを待っているといった受身の姿勢が見られる人が多く感じられた。そこに訪問カウンセリングで関わっていくことは十分可能と思われるし、また必要であると強く感じる。
 
夏期課題「実際に訪問カウンセリングをしてみて感じたこと」
 今現在、僕は一人の不登校の少年と関わらせてもらっている。その中で、自分の中で気づきとして体感してきたものを、この機会に言葉として表し、整理していきたいと思う。そして、今後の糧となっていければよいと思う。
 
 自分が今まで、感じたことは以下のことだ。
・その子にとっての安心な場所とはどういうことか?
・人間関係の大切さ
・待つということの大事さ
・沈黙の利用
・会話、心的な場を操作すること。
・関係性の変化
 
 このようなことを、具体的に書き上げていきたいと思う。プライバシー保護の為、あくまで自分の主観で書いていく。
1. 安心な場所の理解
 お互いに慣れはじめると、その嬉しさにある時その相手との距離を忘れてしまうことがあった。自分だけが許されている距離、自分(訪問カウンセリングをしている人)以外の他人が入ってくるのを拒もうとする距離がある。自分の知り合いが、その相手が自分に許している距離と同じようにその人を扱うことにはものすごく抵抗がある。そんなこともわからずに、土足で入り込んでしまうことがあった。どんなに嬉しくても、その嬉しさを適度にセーブしながら表現していくことが大事で、相手の中にある自分という存在を意識しながらその距離を保つ必要があると思う。そんな意味で、素の自分と訪問している自分とをうまく使い分け、どっしりと構えていることも大切であると思った。
2. 人間関係の大切さ
 彼との関係から、自分に翻って省みると、人間関係がどれだけ人を成長させるかということは目からウロコが落ちるほど体感できたと思う。個人の特性もあり、どれだけ他人と接触をもてるかという問題はあるにしても、これは大きなことだ。そのようなことを考えているうちに、訪問カウンセリングの最終目標は、学校に行けるようにすることでもなく、家から外にだすことでもない、その人にどれだけ人間との交わりが大事かを教えていくことなのではないだろうか・・・ということに至った。それは、決して他人と話さなければならないということではなく、色々な人々がいるということを、例えばスーパーや駅、公園などで観察しているだけでもいいのかもしれない。
3. 待つということの大事さ
 最初のうちは、相手の返答やリアクションの遅さに戸惑いを覚え、とにかく相手をせかしてしまうことが多かったと思う。あることをきっかけに、それは彼を信用していないことになるのだな・・・と気づき、彼を信頼しようと思えたとき、また自分ももっと自信を持って接しようと考えた時に、「じっくり待つ」といことに気づいたような感じがする。待っていても、リアクションがない時はない時だ。その時にまた新たに考えればいいのではないかと思えるようになった。
 同時に、田中 千穂子や斉藤 環はひきこもりの子が「考えていないのではなく、考えるだけの精神的余格がない。」、「はたから見たら、何もしていないかのように思えるが、必死で戦っている」のだと述べている。それゆえ、待つことはなおさら重要なことなのかもしれないと痛感している。
4. 沈黙の利用
 3.と同様に、会話中に沈黙ができても、慌てることはないのだと感じるようになった。これは、もう1年近くになるためだと思う。彼は、何か答えようとして考えている最中かもしれないし、またはもう考えたくない、面倒くさいと思っているのかもしれない。言葉にでなくとも、顔の表情や視線、行動を見て判断するように心がけている。「沈黙」という答え方・・・、僕自身も柔軟に対応していけるようになりたいと思う。
5. 会話・心的な場を操作すること。
 これは、実際こうだという直観みたいなものは未だ得られていない。しかし、毎週1回ただ遊びに行っているわけではない。ああしたらいいのではないか、こうしたらいいのではないかとあの手この手で相手の興味を引き出したり、ある目的に沿って訪問しているものだ。そのなかで、自分が考えたとおりにはいかない時もある。そんなときに、どうやってそのとおりに実行するか、流れを持っていくか?それは、自分の直観を頼りに、流れを自然に操作していくと抵抗にあわずうまくいくことが多かった。
 このような冷静な客観的判断も養っていければと思う。
6. 関係性の変化
 少し、親しくなってくると嬉しく感じる。その関係を保とうとする。そんな関係でいたいと、その自己満足ゆえに自分だけで判断した関係性を、無意識に相手に求めようとしたり、強制していたりする。自分の友達関係を振り返ってみれば、そんなことはなかったように思う。それと変わらないでいいと感じた。ただ、相手との距離には常に敏感になっている必要があると思うが・・・。常に関係性は変化する。その変化の町を逃さない英断力を十分に養う必要があると感じる今日このごろである。
 
最後に・・・
 以上のことは、自分が全て体験してきて振り返ったときに感じたものだ。ただ、言葉あるいは文章として表すことで大げさになってしまったように思う。さらには、まだ1人にしか関わっていないので、これから関わりを持っていくであろう子どもたち全てに共通することでもないのだろうと不安にも思う。
 1つのことを大きく捉えすぎているせいかもしれないが、そのような点にも注意して、今後の経験の糧としていけたらよいと思う。
 
*** カウンセリング講座レポート ***
 カウンセリング講座を受けさせてもらって、はやくも前半が終わってしまった。ほんとあっという間だったけど、毎回が楽しい。最初、もっと心理学っぽいことをするのかと思っていたら、ワークが多いので自分でいろいろ体験できて勉強になる。初回のAさん、Bさんを選ぶのでも、みんなそれぞれ意見があって判断の仕方の違いがおもしろかった。だいたいの意見はふつうは若い女性を選ぶが、男性のほうに行く人が少ないと思ったから自分はBさんを選んだという人が多かったが、若い女性を選ぶのが普通というのも自分ではあとで疑問に思った。同じ人間で見た目や世間ではという言葉で無意識のうちに物事を選んでいることが非常に多いけど、見た目で中年男性より若い女性を選ぶというのも何か心に囚われがあるような気がする。あのワークでは自分を含め、心の囚われを少しずつ外していけたら今よりもっと人との付き合いも幅がでてくるように思う。
 カウンセラーとクライアント役のふたてに分かれての傾聴法を実際に体験するワークでは以前にも講義を受けて、“人の(相手の)話を聞く側”ということを自分にも言い聞かせていたはずが気づくと自分がどうしてもしゃべっていて自論を語ってしまっていた。相手と同じ目線に立つこと、相手をそのまま受け入れることの難しさを改めて味わった。この頃は、相手に寄り添うことを意識しているが、ただ、相手に寄り添おうとする場合、自分の心地いいと思っている距離と相手のパーソナルゾーンがいつもかみ合うとは限らない中、自分から訪問していかなければならないのでどうしても慎重になりすぎてしまう。カウンセラー役二人が訪問してきたときも相手の座る位置によってかなりの圧迫感を感じたし、“今、どんな感じ?”とか質問を受けているときもなんだか事情聴取されている気になって安心できる雰囲気ではなかったので、実際の現場に自分が入って、余計に相手に不快な気分を与えてしまうのではと思うと不安になる。そして、こども以上に母親の存在を抜きには考えられず、母親ともどういう関わりやコミュニケーションを図ったらよいかいろいろ課題がある。それに皮肉なことに一般的には良い子に見られているこどもの母親に限ってすごく禁止令が多いと聞くし、仕付けなどに厳しい母親が多いのでこころの囚われなどを解放させていくのはとても大変に思う。
 ここ半年間、自分自身もユング心理学を基に自分の内面を探り、自分の物事に対する囚われをいろいろなワークを通して知ることができたけど、やはり自分の幼い頃の体験や母親や家族との関わりがもっとも影響していることに気づかされた。子どもたちは身近にいる人から感情を教えられていくけど、同時に創造性も伸ばしてあげていってほしい。そのための手助けとして、カウンセラーがいてくれればきっとひきこもりなども減っていくのではと思う。
以上
 
無題
 人間は、人間関係の中で成長していく、そんなあたりまえのことに、今更ながら必要性を実感している。(類的存在)
 子供たちの引きこもりは、引き込まざるをえない、今の社会状況を変えていかなくては直らないと思う。
 その一つの方法として訪問カウンセリングがあると考えられる。
 私は仕事で公的介護保険のケアマネジャーをしているが、お年寄りが家に閉じこもることで、どんなに身体的精神的悪影響を被るか、目のあたりにしてきた。年を取って何らかの原因で外出できなくなった人間が、寝たきりになり、痴呆になり、人間らしい生活を送れなくなる。同様に今の狂った日本の社会の流れに、敏感に反応し、抵抗している繊細な子供たち。引きこもりをせざるをえない子供たちの可能性を引き出し、人間と人間が触れあう中で成長のきっかけを作ることは大切だと思う。
 自分をどう思い、どう考えるのかということの表現能力の開発は、戦後教育は行ってこなかったと思う。(文部省)戦後教育を経て高度成長期に教育を受けた私は、話す、討論する、能力開発を受けてこなかったし、それは今の私のハンディとなっている。では聞くことはどうか?否である。自分の気持ちを素直に表現し、それを相手に伝える。相手の気持ちを真に受け取り、自分の意見を返す。その作業を通して成長していきたいと思うし、子供たちにも成長して欲しいと願う。
 人間ひとりひとりが異なっていて<自分なりの自身のことばを獲得したい、させたい>と願うのは私だけではないと思う。
 聞く力、話す力を鍛錬し、訪問カウンセリングを通して自分も一緒に成長したい。
 
<>内 出典「ことばが劈かれるとき」竹内 敏晴 思想の科学社







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