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「今、思うこと・・・」
 約半年前、「カウンセリング」という新聞の文字に、飛びつくように参加を希望。様々な思い悩みを抱えていた中、一路の光を得たような気持ちで通い始めたこの講習会です。
 現在、学校内にある公設公営の学童クラブ指導員として、放課後の子どもたちを日々見守っています。ゆとりゆとりと言われつつ、なんだか急げがんばれの学校教育。ただでさえ放課後の自由な時間は短くなる一方なのに塾通いやおけいこごとは増えるばかり。そして家庭環境、親子関係の複雑さも相まって、友だちとの関係を上手く作れなかったり、様々なストレスを様々な形で訴えかけてくる子どもたち。そんな子どもたちに日々接しながら思うのは、保護者を巻き込んだケアがもっともっと必要、大切だということ。その為には専門性ももっと磨きたい生かしたいと思うのだが、行政の中では壁にぶつかることばかり。「子育て支援」とPRしながら、逆行していくことが多いような気がしてならない。様々な矛盾を感じながらも世の中の流れと諦めたり、仕事に対する意欲を失ったり・・・。
 私的生活の中でも、我が子が通う小学校での学級崩壊、先生の精神的病欠、そして子どもたちの不登校やいじめを目の当たりにし「何かしたい、何とかしなければ」という焦る気持ちと、どうにもできないジレンマで悶々とした日々を送っていました。
 そんな中での「いつでも声掛けてくれていいのよ」という藤森さんの言葉がどれほど救いに感じたことか・・・。自分で何とかしようではなく、何とかできるかもの一歩を見つけられた気がしました。毎回のカウンセリング講座も、日々の子どもたちの育成において、また保護者の方々をも巻き込んでの指導育成が大切だという視点からも、保護者の方へのアプローチやカウンセリング法など最大限に生かしていきたいと思います。そして後々には、皆さんの活動にもぜひ貢献したいです。そのためにもがんばらねば・・・。
 子どもたちが生き生きと輝いていけるように、こんなちっぽけなちっぽけな私ですが、できることから努力しようと、前向きな気持ちになれました。このレポートも自分自身を振り返る良い機会になりました。とにかく今この講座が大きな心の支えになっていることは確かです。みなさんに出会えたこと、そして、様々な体験を含めたご指導を心から感謝しています。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
 
レポート
「ひきこもり」という言葉及び現象は、ここ数年来で社会に定着してきた。多くの人々がこの言葉を聞いただけでどういった状態をさすのか、何となく想像でき、また本講座にも多くの人達が熱心に参加していることからも、「ひきこもり」に対しての問題意識が高まっていると言えよう。しかしながら、実際の「ひきこもり」とはどんな人達のどのような状態で、またどのような病理がその背景に隠れているかを知っている人は意外と少ない。「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」といわれるように、ひきこもりにかかわるからにはひきこもっている人のことを知り、また自分自身についても知ろうとする努力が必要ではないだろうか。そこで、本レポートでは私自身の力不足を感じつつも、精神分析的な観点から1)「ひきこもり」について簡単にまとめてみたい。
 まず、精神分析においては「ひきこもり」について説明する時に、スキゾイドという概念が用いられている。フェアバーンによるスキゾイドは、(i)精神分裂病、(ii)スキゾイドパーソナリティ(病理的)、(iii)スキゾイド性格(正常)、(iv)一過性のスキゾイド状態(思春期など)に区分される。ここで、「ひきこもり」と関連して取り上げるのは、(ii)スキゾイドパーソナリティである。このスキゾイドの特徴として挙げられるのが、(i)万能的態度、(ii)孤立と孤独、(iii)内的世界への没頭やこだわりなどである。万能的態度というのは、他者を自分の思うままに支配しようとする態度のことである。また、スキゾイドパーソナリティの人にとって、情緒的なものを人に与えることは、心理的内容物を失うことを意味し、人とつきあうこと自体が疲弊することである。したがってこういう人は、長いこと人と一緒にいると「からだから力がぬけてしまった」ような気がして、そのあとは、こころの中の感情のタンクがまた一杯になってくれるのを待って、しばらく一人でじっとしている必要があると感じてしまうのである。2)
 以上のようなことが、「ひきこもり」といわれる人達の内部に多少なりとも存在するとされる心の仕組みである。私が知る限りでは、「ひきこもり」に決定的に効果にある心理療法は存在せず、未だ模索の段階である。しかしながら、例えカウンセラーでなかったとしても、「ひきこもり」にかかわろうとするのであるならば、彼らについて知ることが彼らを理解する大きな手助けになる。そして、何よりかかわり方の失敗を防ぎ、それによるかかわる側の受ける心の傷をも少なくすることが可能になると言える。私自身も、「ひきこもり」についてまだまだ充分に知っているとは言えないが、これからなるべく情報を得るよう努めたいと思う。
 
引用文献
 
1)衣笠隆幸:1999「ひきこもり」とスキソイドパーソナリティ.精神分析研究43(2):101−107
2)Rフェアベーン 山口泰司訳 1995 人格の精神分析学.講談社学術文庫
 
「私の夢」―壽楽―
 それは「元気で長生き」することである。「死にたくない」は言わないが、今はまだ死にたくない。生きていたい。この先、自分の気持ちがどう変わるか分からないが、とりあえず今は、生きのびることだけを考えている。
 しかし、唯生きのびるだけではない。元気で、欲を出せば「楽しく」生きのびたい。例え、拉致され消息不明になったり、ホームから突き落とされて死んだとしても、この世に恨みを残さず、あの世でも何か夢を持って貧欲に生き続けられるのではないかと思う。
 けれど、拉致されたり殺されたりしても恨みを残さないといえるのはなぜだろうか。それは恐らく、人を信じたい気持ちが強いからであろう。もちろん死ぬことはとても怖い。他殺なんてもってのほかである。しかし、人を信じる ―好きになる― 事で、どんな事でも潔く受け入れられる人間になれる気がするのだ。しかし、例え受け入れられることができたとしても、一つの不安が残る。それは「井上 文」自分自身である。
 私自身、自分という人間がよく分からない。分かりたい気もするが、このままでもあまり気にならない。自分のことはとても好きである。けれど、他人に自分を理解してもらいたいという気持ちはとても強い。私は「井上 文」いう不安を抱えながらも、希望を残しつつ果てしない我が夢を叶えるべく日々努力していることがある。それはこのカウンセリング講座を始め、友人・親戚・親・またその知り合いの知り合いというように、これまた永遠に続くのだが、彼ら全員に、私がその時に思い、感じたことを伝えるようにするということである。
 つまり、八方美人という自身の性格を利用しながら「井上 文」を世界中にちりばめようとしているのである。
 誰か一人の人に「井上 文」の全てを伝えることはできないし、伝え切る事ができたとしても一人だけというのは淋しすぎる。一人でも多くの人に知ってもらいたい。
 「井上 文」というのはいったい何なのであろう。いつの日か世界中に散らばっている「井上 文」を一つに集めることができた時に分かるのだろうか。
 私は人を信じたい。誰かに誤解されたり、悲しい思いにさせられたりしても、私を知るまた別の誰かが理解してくれ、楽しい気持ちにさせてくれる。そう信じているし、それでいいのだと思う。私は、今、このときに感じていることを理解してくれる人が世の中に一人でもいれば幸せである。私を知る人全員が同時に共感する必要はないと思う。
 先日、偶然立ち寄った花屋のおばさんの何気ない一言に私は驚かされ、同時に励まされた。人との出会いは本当に計り知れないもので、でもだからこそ人との出会いに私は自分の夢を託したいと思う。
 
参考文献 ゲオルク・グロデック「エスの本−無意識の探求−」誠信書房1991年
参考映画「もののけ姫」
 
社会的引きこもりに対しての訪問カウンセリングの有効性についでの考察
 現在、社会的引きこもりと呼ばれる状態にある青少年が、かなりの数で存在することがいわれており、一説には数十万人を超え年々その数が増える傾向にあるとも言われる。しかしその実態は調査が極めて難しいためもあって全国的な正確な把握はなされていない。斎藤(1999)は所属する研究室の関連機関を受診した患者を対象として社会的引きこもりについて統計調査を行っている。そこでは社会的ひきこもりを「二十代後半までに問題化し六ヶ月以上自宅に引きこもって社会参加をしない状態が持続しており、他の精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」と定義している。その結果から調査時の平均ひきこもり期間は三年三ヶ月であること、最初に問題がおこる年齢は平均15.5歳であり、最初のきっかけとしては「不登校」が68.8%と最も多いこと、そして問題がおこってから治療機関に相談に訪れるまでの期間が長いといったことがわかった。またひきこもり事例において、きっかけとなったかどうかに関わらず不登校を経験した人の割合を調べると90%と非常に高かった。しかしこれらの事から「学校にいかないこと」をすぐに「社会的ひきこもり」に結び付けて考えることはできない。平成五年度の不登校生徒で中学校を卒業した者を対象とした「不登校に関する実態調査」(2001)において80%以上の人が進学または就業しているという結果が出ていることからも、不登校を経験した人の大半が社会参加をしていることがいえよう。だが就学も就業もしていない人が10%以上おり、このすべての人が社会的引きこもりであるとは言えないが、不登校の一部が長期化して社会的引きこもりへと移行することも事実であると考えられる。
 斎藤は社会的引きこもりという問題が思春期の問題であると述べている。従来は思春期は十二歳から十七歳ぐらいまでをさしていたが、現在では三十歳までは思春期心性がかなり残っているといわれる。思春期という時期は子どもから大人へと変化する移行期であり、大人に対する依存と反抗の真っ只中にいるため素直に助力を求める事ができない状態であると考えられる。「不登校に関する実態調査」から中学3年当時から現在までの施設の利用状況に関して、約半数の人が病院や児童相談所といった施設を利用していなかったが、不登校時そして中学卒業後の支援については多くの人が「あればよい」と考えていたことがわかった。この事から思春期の時期に不登校であった人は心理相談といった援助を心の中では求めているが、施設における援助は受け入れにくいということがいえよう。また山中(1980)は心理療法における思春期の対象者においては治療の場をもとめようとしないこと自体が一つの中核症状であり、同時に彼らが治療者―患者という不平等な関係に極めて敏感で根深い大人不信を抱いていることを考慮して「治療者の方が自宅までおもむいたり電話したり手紙を出したりといったおよそ一般の治療空間と時間を逸脱した場が用いられる事になる。」と指摘している。ゆえに思春期の対象者に対しては、援助するものとされるものといった関係が比較的はっきりとしている対象者が援助者や施設を訪れるという形の来談者型カウンセリングに比べて、より対象者の日常生活に近い場において日常的な人間関係の中での包括的な援助をなしうる訪問カウンセリングの方が有効であると考えられ、社会的引きこもりに対しての有効的な働きかけとなりうると考えられる。
 
参考・引用文献
現代教育研究会 2001 不登校に関する実態調査
斎藤環 1999 社会的ひきこもり PHP新書
山中康裕 1980 季刊精神療法6.(2)







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