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訪問カウンセリング講座レポート
 今カウンセリングの分野で一番興味があるところは、中学生程度の児童へのカウンセリングでしょうか。もともとカウンセリングとの出会いは、父親が亡くなった事を切っ掛けに、過去に学校に行けない時期があったことに始まりました。母親の紹介で発達共助連の行う活動に参加していき、その中でなんとなくカウンセリングに触れました。子供は昔から好きでした、そこに参加するうちに小さい子の遊び相手になることが多かったのですが、現在その発達共助連でDS(児童への訪問支援のようなもの)として受け持つ子も、その頃にいっしょに遊んだ子の1人です。現在彼は中学生ですが、最初彼の担当になったときには右も左もわからない状態で、仕方なく数学を教えたという状況でした。幾分マシになった今でも、彼に何がしてあげられるのかわからず思いつきのままに活動をしている、そんな状況です。何も出来ないときに無力さを感じ、無力だなと感じるときに自分の無学さを実感します。これは中学生に対してだけではありませんが、やはりそういう意味でも勉強していきたいと思っています。
 私の他のDS担当者は、大学などで心理学を専門に学んでいる人が大半でしょう。私は心理に関しては学生でもなく、学んだ経験もないので、何を学んだらDS等の役に立つのか、わからない状況でもあります。その私にとって、当講座はいい切っ掛けに思えました。DSは訪問しての支援の為、役に立つであろうと。そして講座を受けてみて改めて思うことは、カウンセリングの心構えは、なにも引きこもりの人にだけ役に立つもので無く、広く世間一般の人に接する上で役に立つであろうと言うことです。思い返してみると、最近友人等から相談事を受けることが増えました。それは発達共助連の中や、他のボランティア活動の中で見てきたものが影響しているのかな?と思います。まずは相手の話しを聞き、紐解き、状況を知る。そして共感やアドバイスをする程度の事、現在の私の出来ることはそれだけなのですが。しかし友人はそれで安心でき、落ち着くことが出来るようです。話すこと、聞いてくれる人がいることで安心も出来るし、自分の中で整理することが出来るのでしょうか。
 正直いま私に将来的にやりたいこと、つきたい職業は特にはありません。将来カウンセリングこそが自分の職業、生きがいと思ったこともありません。そういう状況であるために自分の考えにまとまりも無く、ただ思ったままにまとまりの無いこのレポートをしていると思います。しかし人と接していく中でカウンセリングの知識が役に立っていくのならば、積極的に学んでいきたいと考えています。それが友人や自分を助けてくれるとも思います。
 祖母が「もう意識は戻らないだろう」というところから、リハビリで回復した経験があります。わからず毎日通い、食事等を手伝っただけですが、そんなことでも回復の切っ掛けになりうるようです。分野は違いますが、カウンセリングは精神的なリハビリとなるのでは、と思います。カウンセリングに関しても無知ではありますが、わからないなりにやってみたいと思っています。今自分にしたいことがあるとすれば、自分に出来ることを自分なりにするということです。
 
無題
 いま、世の中は、デリバリー主義。
 待っていても、客は、こない。だから、宅配ということなのだろうか。ゴミ出しも、高齢者には、場合によっては、取りに来てくれることもある。ついでに言えば、家族までも宅配するという。でも、かつても、あったような。しばらく忘れていたことばに、御用聞きとか往診というのがある。このデリバリー、日常生活の〈コウゾウ改革〉。というのは、出かけて行くのと、来てもらうのとでは、その立場が、微妙に違うように思うからだ。来てもらう場合は、優位な立場になれるが、出かけて行く場合は、その立場は、逆になる。
 少し寄り道。
『壁ぎわ税務官』(BCオリジナル)に、こんなシーンがある。地方税務官が、何度となく催促に訪問した後、「もう10何回も、伺ったのですから・・・」と、滞納者の支払いの気持ちを誘うところ。そうすると、それまでかたくなに拒否していた滞納者の態度が、少し軟化を始める。そのとき、思ったもの、多くの人が、あえて積極的に行ないたくないこと(優良納税者の皆さん、ごめんなさい。これは、私を含めた人のこと)でも、訪問を続ければ、変わってくるんだなと。ただ、訪問カウンセリングの場合、訪問を続けることだけでなく、そのことによって、ある精神科医(高橋和巳氏)によれば、〈理解することから、解決が始まる〉ということに、つながっていく必要はあると思う。
 とはいえ、実際に行なえるのは、まだまだ先のこと。いま、それに近いもので、できることは、ないだろうか。このところ、乳幼児やその母親に、目が行く。そうすると、いくつかの光景を、見ることがある。たとえば、バスの中。ベビーカーを持った母親が、降車しようとしたところ、高齢の女性が、ベビーカーを下ろしてあげた。また、ファーストフード店。2人の子どもを連れた母親が、1人の子を椅子に乗せようとしたとき、バランスを失ないかけそうになったところへ、別の母親が手を差し伸べた。このようなことを行なっていくことが、訪問カウンセリングの一歩と、このごろ思い始めている。
 
カウンセリング講座から
2001.10.04
 今回カウンセリング講座に参加し、改めてカウンセリグと言う言葉を振り返って見た。「カウンセリング」の言葉を辞書で引いて見ると新英和中辞典(研究社)では「相談・助言」とでている。国語辞典(三省堂)では「学校生活・社会生活の中で、悩みを持つ人に対し、それを解決するための助言を与えること」となっている。しかし、「カウンセリング」には元来単純に日本語で置き換えられる言葉以上の広い意味を含んでいる。
 カウンセリングは学生相談・結婚相談・性相談・職業相談・受験相談・家事相談・教育相談・法律相談・婦人相談等など様々な領域で使われ、いろいろな意味あいをもって活用されている。基本はロジャーズの著書「カウンセリングと心理療法」から注目された非指示的カウンセリングの技法である。一般に良く知られている受容、共感的理解、自己一致の3つの条件が挙げられている。一方、精神医学の世界では精神療法と呼ばれ、心理臨床で言えば心理治療である。単なる各種相談にみられる現実的具体的な問題解決のための援助活動もあるが、社会適応への心理的な援助が大事な問題である。そこにカウンセリングの専門性が活かされねばならない。
 今日書店に足を運べばカウンセリングに関する本が棚にずらりと並んでいて、選択に悩むほどである。その中で自分が取り組む分野でのそれぞれの意味、解釈、適応技法としてのカウンセリングはそれ等の資料を考慮にはするべきものの、結局自分自身で学んでいくことである。
 カウンセリングの心構えとして、私は基本を踏まえた上で下記のことに留意すべきと考えていることが、この講座出席で確認出来た。
1. まず聞くこと。:(1)聞き上手になる。自分が自然体でいること。こちらは構えずいつもと同じ状況にいること。今の自分の状態を知っておくこと。自然な状態でないと自然な言葉は出てこない。(2)焦らない。何事も起こらなくてもじっと待つ。その場での存在を大切にする。(3)信頼関係をつくる。良い関係を維持する。約束を守る。
2. 的確な判断をしながら自分の中で確認をしていく。:(1)直感を大事にする。先入観を入れずその場で感じることを大事にする。
3. 端的な反応を示す。:(1)自分の持ち味を生かす。万能人間でないので得手、不得手がある。自分の特性を使って対応する。(2)伝えることをきちんとする。感じたことは伝える。約束ごとも伝える。(3)主導権はとらない。主役は相手である。
4. すべて何事も無理しない。:
 訪問してとなると相手の土俵に入って行くので侵入にならないように心することは大きな配慮事項である。 以上。
 
「ライフカウンセラー」
(訪問介護の場で生かせるシニアカウンセラーをめざして・・・)
 私たちは、高齢になるに従い社会的身体的に喪失するものが多くなります。その寂しさや心細さは、たとえ家族にでも理解しえない場合があると思います。
 実際、介護の現場で仕事をしていて、肉体的だけではなく精神的なストレスもあり、心身の健康にまで悪影響を及ぼす結果になりかねないということを目の当たりに感じました。
 日々の自分の身体に不安を感じている方は身体面での不調は、往々にして精神的にも大きく影響し、ともすれば人間の気持ちをより閉鎖的で不安の強いものにさせるでしょう。
 このような方の心の声に耳を傾け、対話を通じ、深い孤独感や喪失感、不安感を共有することで和らげ、より前向きな姿勢で、生きることを援助したいと思います。
 又、それに伴い病人や高齢者を日々介護し、精神的な疲れを感じている家族の方のケアも、とても重要なことだと思います。
 家族の世話は、特別な、心のこめ方があるために、精神的な、ストレスもかなりたまりがちとなり、ましてや病気で寝ている方や、体が不自由になった方への世話は、家族にとってなお一層大変なことです。長期になればなるほど、介護する家族の精神衛生の維持が重要なポイントになり、献身的に介護を行っている様々な苦労話に耳を傾け、精神的なストレスから少しでも解放できるようにお手伝いができればと思っています。
 現代のように社会が複雑化し、変化のスピードが速くなるにつれ、悩みを抱え、心を病む人も増えてきました。
 不登校、引きこもり、子育て、夫婦の問題、家族の問題etc.高齢者のケアだけではなくそれぞれの分野でも今後クライエントとカウンセラーの温かく受容的な人間関係の中で自己受容をめざし、問題解決への可能性を共に探ることができたなら・・・と考えています。
 
「今、出来ること」
 昨今の引きこもり、いじめ、児童虐待など悲惨な現実は子ども達の自己評価の低さが原因ではないか。それはとりも直さず親自身の姿を映していると云えましょう。子ども達の内なる叫びに大人よ気づいてと願わずにはいられません。私自身ここ数年学んで気がついたのですが、夫は子ども時代のトラウマによって、知らぬうちに生き方をコントロールされ、枠にはまらぬ私に暴力→私が長男に心的外的暴力→非行→長男が私に暴力という生活を17年繰り返した結果離婚。長男のシンナー→私に暴力→早期通報→公的施設で矯正→社会復帰という体験を経て、当時の警察官の言葉が鮮やかに思い出されます。『息子さんは軽い方ですよ。内に向かったら一生ですよ。』
 アリスミラー、トリイヘイデン、斉藤学の本と出合う中で、気付かなかった私の家庭内のトラウマが鮮明に浮かび上がって来ました。ありのままにぶつけ、親を許し自分を受け入れる。自分の体験を苦しんでいる人の為に役立てたいと、様々な機会をとらえ発言してきました。最近積極的に対話し、心が痛んでいるのに気がつかない人の多さに驚かされます。
 『こんな風に受け止めると楽だよ』とさりげなくアドバイスして、そしてその人が元気になる姿を見て喜んでいる私。
 ところで日本人の多くは人権感覚が鈍い様に思われます。肌の色、地位、財産、成績など外見や好みで評価していないか。考え方の違う人を個性とみなし認められる。相手を誉め、可能性を信じ引き出す、そんな環境で育てられた子の自己評価は決して低くはないはずですし、他者を傷つけることはないと思います。
 最近、毎日新聞紙上で日本人気質をズバリ云い当てている記事を見つけました。
 『日本の政治、経済、教育の崩壊は誰のせいでもなく、あなた任せの無責任な大人ひとりひとりの行き方が招いた必然的結果である』
 在日30年のオランダ人の国際政治評論家、ウォルフレンも著書『日本の権力構造』の中でこう云っています。『日本人特に中流階級の“仕方がない症侯群”世界に通用せぬ悪しき政治システムを支えている。それを破る為に、市民レベルのネットワークを広げてゆく以外にない。』
 個人や家庭の幸福は、社会がこそ成り立つものだと思うのです。安定は何もしないで保てるものではなく、人々との地道なネットワークをもって、社会の悪と厳然と立ち向かう勇気のある生き方を通して、勝ち取るものではないでしょうか。内なるエゴと闘わずして、他者に依存している限り、本当の幸福(平和)はない事を、今こそ、大人達が姿をもって子ども達に示す以外にないと思うものです。
 その為に、私らしく努力して生きてゆく決意をしています。







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