タイセツな思い
誰でも一度は経験する自分探しの旅。
なぜ、自分は存在しているのか?なぜ、大人にならなければいけないのか?ナゼ・・・。少年少女たちは何度も自分自身に問い掛ける。しかし、答えが出ない。答えが出ないことに苛立ちを感じ、答えが出せない自分をダメだと思い責め始める・・・。
「大人になりたいな」彼らが心に思うこと、それは周りが「もう少し大人になりなさい」と口を揃えていうから。今のままでいたいのに自分を繕って“大人”になろうとしてそのギャップで悩む、じゃぁ“子ども”と“大人”の境界線は一体どこで引くのか?身の周りのことを一人で何でも出来ることなのか、自分で稼いだお金で生活をすることなのか、親を思いやることなのか、人の気持ちを分かってあげることなのか・・・それとも全てが揃っていればいいのか?でも、そんな何でも出来る全てを兼ね備えたスーパーマンのような超人間がいたら真面目に怖い。
親(大人)の立場から子どもを見てみると「この子は一人では何も出来ない」「何でだめだって言うのにわからないの」別に自分の子どもを嫌いだからとか世間体を気にしてこう思ってしまう訳ではなく、むしろ好きだから愛しているから思うことで、こうしたらこの子は周りからもっと良く思われるだろう、良く思われればもっと幸せになるだろうと考えているからだ、[子どもの幸せ=親の幸せ][親の幸せ=子どもの幸せ]と思うところがある、実際に間違っていないと思う。
結局、親にとって自分の生んだ子は永遠に“子ども”のままである。しかし子ども側から見て必ずそれが当てはまるとは限らない、子どもにとって親は立派な“大人”だけどいつかは自分よりもたまに“子ども”に見えてしまうことがある。
私が母に人生論を説かれ、しかも押し付けられるといつも必ず言う言葉があります
「お母さんは子どもを生んだと同時に一人の人間を生んだのよ、何でも親の思い通りには動けない、思い通りにしたかったら今は便利な時代だからちょっと高いけどロボットでも作ってみて、子どもは親によって育つけど、人間は人間にしか育てられないと思うよ」
さすがに親は何も言えないらしい・・・(笑)
「私がやっている事、やろうと思っている事」
カウンセリング講座――この内容を友人から受け取ったとき私の頭の中には具体的なものが何もありませんでした。しかし迷いの気持ちを打ち消すほどの強い興味を私は覚えました。
私は、現在高3になる長女が幼稚園の頃から自宅で子供の為のピアノ教室を開いています。ご承知のように音楽は、自分の心を映すもの、自分の気持ちを表現するものです。オトに心を映す―それは時に本人の意識の上にだけでなく、無意識のうちに具象化することがあります。
私は、いつも小さなノートを用意してレッスンの間の出来事を報告するという形を採っています。始めは親に子どもの様子を伝えたいという気持ちでした。熱心に読んでくださっている方全然読んでいる気配のない方、この小さなノートに対する親の扱いは、様々です。それはそれでよいと思っています。これはまったく私の感じ取ったままの子どもの情景をリポートしたものに過ぎないからです。長くなるので今回は省きますが、この小さなノートは時に親の悩みを引き出すことになったり、子どもから私が直接お家に伺い(余計なお世話でしたが)実際に父親の子どもへの性的虐待が明らかになったこともあり、書き手の私としてもいつも真剣にならざるを得ません。
さて、私の教室では始め教則本を使わないようにしています。これは、私のちょっぴり辛い幼児体験(無理やりいくつも先の曲まで予習させる熱心な親でした)から子どもが一番尊敬し大好きなはずの親に無理強いをさせてはいけないと思うからです。他のときにはやさしいのにピアノをやりなさいというときの親の顔がこわいとそんなことを親にさせるピアノの方を嫌いになってしまうと考えるからです。
子どもの好きな曲、あるいは方言のイントネーション、消防車のサイレンの音、CMの曲、導入に使える音はいろいろあります。その子どもが一番興味をもっている場面が実は音で構成されていることを分かってもらうのです。えっ!あのテレビ(の場面が)このピアノで出せるの?初めて聞いた子どもはびっくりします。そして音に興味をもってくれるのです。この場合子どもはまだピアノを弾くことはできないわけですがからとりあえずその音の出る鍵盤をたたく、という反復作業に集中することになります。その集中ぶりはその子どもの心を映します。(― ― ― ― ― ―)音を写すことに必死な子ども(家に帰ったとき自慢したい)と考える子はもっと必死にこちらの顔など見る余裕などなくただひたすら自分の頭の中に音をいれています。うまくできないと帰ってから怒られると思ってしまう子どもは、傍らにいる親の顔を、目線を体全体で感じているので、鍵盤は押していても表情は引きつり無感動なままです。冷たい息を感じます。家ですぐにたたかれている子はびくびくして弾いています。私はこういう子どもには大丈夫だよという表情で決して怒らないようにしています。繰り返していくうちにここではたたかれないのだということを学びます。こういう子どもとはすぐ仲良くなることができます。なぜか分かりませんがいつの間にかお母さんや妹やお家のことを自分から話してくれるようになるのです。
ひとつ大切なことを云い忘れました。私のところに見える方にはまずふたつのことを言います。「ピアノをもっと続けていきたい専門的にやっていきたいと思ったらいつでもいい先生を紹介するからね」「私のところではまず音楽が好きになってくれること。自分の好きな曲をリラックスして弾けること!」それでよいと思った人が来てくれているので私の所に生徒が滞在する時間はまちまちです。30分きっちりで帰る子。「はいおしまい」といったのに次の子がくるまで引き続ける子。「じゃあ!」といって「宿題教えてね」と甘える子。少し普通の教室とは違うということを分かっていただけたでしょうか。
さて、ある日とうに辞めたはずの今は中学生になる子が「こんばんは!!」とやってきました。「どうしてもこの曲が弾きたい」見ればとても高度な合唱曲の伴奏譜です。私だって所見で弾きこなすことはできません。
この子がなぜうちに来たのか、私はできるだけ話を聞くことにしました。こちらから返すことばはほとんどが次の3つです。「すごー」「うそー」「なるほどね」
結局、学校でひいきをされている子が合唱コンクールで伴奏する。ぼくには伴奏はできないけど合唱までにはこの曲をどんなに下手でもいいから最後まで弾けたら自分はその子をねたむ自分の気持ちに克つことができるんだ。その子は中学3年、受験まで後4ヶ月しかありません。その日から彼は私の都合を一応気遣いながら毎日、塾の前か後に我が家に通いつづけました。この間も私はレポート用紙にお母さんあての手紙を書き続けました。お母さんから返事はありませんでした。ある日思い切って電話をしてみると「すみません。お金はいくら払えばいいでしょうか。ご迷惑をかけていると思うんですけど。」といわれました。「・・・」ことばを失った私に「じゃあ前のときと同じ月謝を持たせます。毎日行っているけど一か月分でいいのかしらねぇ。」こうして電話は切れました。私は彼にこのことを言うことができませんでした。
私はバイエルしか弾けなかった彼がソナタ以上の大曲を死にもの狂いで弾いているのを毎日じっと毎日見つづけました。ガンバ!とか一気!煮とかやれやれ!とかおよそ音楽とは関係のない書き込みもいっぱい書きました。彼は入試の前5日間だけピアノを休んでみごと志望校に合格しました。
皆さんには彼がピアノを習いにきていたのかどうかお分かりだと思います。彼は大曲を弾くということで自分の今の心を自分の本当の心にぶつけていたのだと私は思いました。合唱コンクールが終わってから「ありがとせんせ!ぼくは本当に納得できたよ!」という電話を最後に彼は我が家に来なくなりました。余談ですがその後もお母さんからの月謝など届きませんでした。それでいいと思っています。うちにきてくれた子は良しとして電話でいろいろと訴えてくれるけれど、いざ訪ねていこうとするとおうちの方に阻止(!?)されたりすることがあり、悩んでおりましたが、訪問カウンセリングという言葉をはじめて知り興味をもつことができました。
私はただの街のおばさんですが、これからは訪問カウンセリング講座を受けたおばさんとしてまだまだ素人の域を出ませんががんばっていきたいと思います。こんなピアノの先生を私は今日も細々と続けていくのです。
「相談室におけるカウンセリングの活用」
1. 相談室と不登校生徒・・・現在、私の勤務している公立中学校内にある相談室では、中学生からの悩み・相談、保護者や教職員からの相談などの他、不登校生徒の受け入れなどを行っている。一般の中学生からの真剣な相談もあるが、多くは単なるサボテージュであり、保護者・教職員からの相談は不登校生徒に関するもので、件数も少なく、情報交換的で、今のところ継続的なカウンセリングには至っていない。ここではカウンセリングの対象を不登校生徒に絞って考えてみたい。不登校生徒には、引きこもりも発症していて家から全く外出できない生徒、学校には登校できないが外出は問題ない生徒、登校は出来るが自分の教室に入れない生徒(1ヶ月に1〜2回程度登校・休みながら登校・毎日登校)がいる。
2. 相談室での取り組み・・・全く登校できない生徒の家庭では、相談員が訪問することを生徒本人だけではなく保護者も嫌う傾向がある。1〜2週間ごとに、主に電話で連絡をとり、情報交換や相談を行っている。その中で要望があればカウンセンリング的な面談を行なうこともある。何とか相談室に登校できる生徒に対しては、必要に応じて面談・話し合いが行なわれる。相談室には専任の相談員1名、非常勤の相談員1名、ボランティア相談員2名のうち、常時2名程度が勤務し生徒と接しているが、校長・担任・保健教諭などの来室もあり、生徒には多数の声かけや面談がある。登校生は、普通学級では休みがちであったり、長期に不登校であったので、学校生活に慣れクラスメイト・担任教諭に慣れていくことが必要である。個々の状態に応じ、生徒との面談、保護者との面談、三者、四者(教師が加わる)での面談・話し合いを行ないながら、登下校時間・登校後の自習の内容・見学や参加ができそうな授業・行事など、順次目標を決めて生活していく。取り組む上で不都合や失敗、又目標が達成された場合、さらにそれぞれの面談・話し合いを深めて目標を修正しながら、正規の学校生活に近づけていく。
3. 相談室の利点と欠点・・・相談室と不登校生徒との関わりは、長くても3年間。多くは途中からの来室になるので非常に短期的である。生徒の学校生活を考えると、なるべく早く教室に復帰して欲しいという思いも相乗し、じっくりと時間をかけて取り組めないのが難点である。全く登校できない生徒が働きかけに応じてくるのを待つ間に卒業となることもある。登校生とは面談・話し合いによって自身の目標を決めていても、周囲の期待が先行し、その場になると実行できないことも多い。しかし、時には行事や学期ごとの選択授業や部活など、急な働きかけにもあまり悩まずに参加して、自信を持つこともある。登校生が数人集まると、仲間意識が芽生え、良い意味での対抗意識が生まれ高め合えることもある反面、個々に対する対応の違いを出しにくくなり、それぞれの甘えが助長されてくる。時間的制約と働きかけの制約の中で、いかに効果的に接する事ができるのかが現在の課題である。
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