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第4章 嵯峨の春
 曲は前歌一手事一後歌の三部構成の手事物である。前歌半ばの小歌は『閑吟集』(1518)にも載っており、謡曲《放下僧(ほうかぞう)》あるいは当時流行した筑子(こきりこ)踊の歌などから取りいれたものと考えられる。
 
第1節 曲の構成
 《嵯峨の春》は、本調子の曲で、前歌半ばで三下りに転じ、手事から再び本調子となる。歌詞のまとまり、調弦の変化、手事の位置から、次の3つの部分に分けることができる。
 
1. こぞ見にし 弥生なかばの 嵯峨の春 嵐の山の 山桜 色香妙なる 花の宴
散りても残る 心の花に 思い乱るる 憂き身にも また繰返す この春を
汲むや泉の 大堰(おおい)川 浮かぶ筏(いかだ)の 行く末は
人の手活(ていけ)と なる花を
恨むやおのが 迷いをば 払(はら)うは法(のり)の 御(おん)誓い
[このあと三下り]
2. 嵯峨の寺々 回らば回れ 水車(みずぐるま)の輪の 臨川堰(りせんせき)の 川波
川(かわ)柳は 水に揉まるる ふくら雀は 竹に揉まるる
都の牛は 車に揉まるる 茶臼は ひき木に揉まるる
[このあと手事][本調子]
3.われは色香に 揉まれ揉まれて 玉の緒も 絶えぬばかりに 思い川
床(とこ)に淵なす 夜半のきぬぎぬ
 
第2節 歌本にみる歌詞の伝承
 《嵯峨の春》の津田歌詞を、
『歌曲時習考』文政元年(1818)、『琴曲新増三津のしらべ』天保8年(1837)
『琴曲千代の壽』天保13年(1842)の3冊の歌本と比較検討した。
 表にみるように異同は3ヶ所のみである。
 
  津田歌詞 津田歌詞と異なる歌詞 津田歌詞と異なる歌本名
a このはる このはる 歌本すべて
b わのりせんせきの りせんせきの 『歌曲時習考』『琴曲千代の壽』
c たえぬばかり たえぬばかり 『琴曲新増三津のしらべ』
 
 《嵯峨の春》は《貴船》《さらし》よりも新しい作品であるためか、歌詞の異同が少ない。
 aは、伝承の中で変化したと考えられる。
 bは、謡曲《放下僧》などから採られたと考えられる挿入歌のところである。謡曲では「水車の輪の臨川堰・・・」となっているが、『閑吟集』では輪のが欠落している1 。歌本『歌曲時習考』『琴曲千代の壽』でも欠落しているが、『琴曲新増三津のしらべ』には輪のがあるところから、2通りの伝承があったと考えられる。
 cは『琴曲新増三津のしらべ』のみ、のになっている。
 なお、2,3の挿入歌は『閑吟集』、女歌舞伎踊歌『おとり』の「ばんじ」2に入っているが、江戸初期から歌われてきたといわれている東京都小河内の鹿島踊の一曲《こきりこ》や茂山家狂言《花折》にも同歌詞が歌われていて、当時流行した歌と思われる。
 結論:《嵯峨の春》は3曲の中では、最も新しく、当道の組織も固まっており伝承も確かなものであったと考えられる。
(鈴木由喜子)
 
第3節 歌詞の抑揚と歌の旋律
1. 節付けの特徴をみるための3つの視点
 《嵯峨の春》では、歌われる歌詞の節付の特徴をみるために、三つの視点を用いた。
 視点1は、言葉に節付された旋律の特徴をみるために、次のIからVの分類の基準を設定した。なお、この基準は、各旋律が後半では抑揚を離れて平板に歌われたり(以下、平板化という)、動きのある旋律で歌われたり(以下、旋律化という)することもあるので、主に言葉の初めに当てはめて考えている。
 
視点1 言葉に節付された旋律の形による分類
I
:言葉の抑揚と合っている旋律
譜1
II
:言葉の平板抑揚と合っている平板な旋律
譜2
III
:言葉の平板抑揚と合っていない旋律
譜3
IV
:言葉の抑揚と合っていない平板な旋律
譜4
V
:言葉の抑揚とは逆の旋律
譜5
 
譜1
 
譜2
 
3
 
4
 
5
 
 また、視点2は、言葉の節付の特徴が、旋律のどの部分にみられるかを調べるために、歌詞の七五型あるいは七七型の意味のあるまとまりを単位として、次のように、三つの「コトバ」部分に分けた。なお、《嵯峨の春》の詩型には、曲の初めや三下りの部分、後歌の初めに、三つの部分に分けられないものもあるが、その場合は、「中程コトバ」部分を除いたり、詩型を七七五型にまとめたりして検討した。
 
視点2 三つの「コトバ」部分
「歌い始めコトバ」
:例「やよい」
「中程コトバ」
:例「なかばの」
「段落コトバ」
:例「さがのはる」
 
 視点3は、視点1で述べた、旋律の後半でみられる「旋律化」の一つの方法として用いられる定型旋律に注目した。《嵯峨の春》は、本論文で検討した前2曲に比べて短い曲であったが、その中にも、各「コトバ」部分で、あるいは、段落部分で、旋律を豊かに歌う定型旋律が大きく分けて4種類、使われていた。その4種類をE、F、G、Hとし、さらに、その定型旋律の詳しい機能をみるために、それぞれのリズムや音形など、多少細部の異なる形のものも加えて、E1〜2、F1、G1〜2、H1〜2で示し検討した。
 
視点3 歌の定型旋律の種類の分類
E1:譜6−1,-2のような定型旋律
E2:譜7−1,-2のようなE1のヴァリアンテ
F1:譜8−1,-2のような定型旋律
G1:譜9のような定型旋律
G2:譜10のようなG1のヴァリアンテ
H1:譜11のような定型旋律
H2:H1のヴァリアンテ
譜6
 
譜7
 
譜8
 
譜9
 
譜10
 
譜11
 
譜12
 
 以上の三つの視点によって、《嵯峨の春》の旋律を、その「コトバ」部分ごとに、IからVの分類基準を示し、さらに、定型旋律E1〜2、F1、G1〜2、H1〜2を、使われる言葉の近くに示したものが表1である。なお、*印は、伝承者の抑揚による分類を示す。
 
表1
《嵯峨の春》の「コトバ部分」ごとに節付された旋律と定型旋律の一覧
歌い始めコトバ 中程コトバ 段落コトバ
I こぞ見にし    
III 弥生 IV なかばの IV 嵯峨(E1)の春
II 嵐の IV 山の I 山桜(G2)
IV 色香(G1) I 妙なる V 花のI宴(E2)
IV 散りても(H1) IV 残る IV 心の(G2)花に
IV 思い、(H1) IV 乱るる I 憂き身にも(F1)
IV また III*繰返す III 行く(G2)末は(G1)
III 汲むや(G1) IV 泉の III*大堰川(E2)
III 浮かぶ(F1) III 筏の(H2) III 行く(G2)末は(G1)
IV 人の I*手活と(G2) I なる IV 花を
IV 恨むや(F1) III おのが I 迷いをば(E1)
IV 払うは IV 法の IV 御誓い(E1)
IV 嵯峨の V 寺々 IV 回らば(F1) I 回れ(E2)
III 水車の IV 輪の(E1)臨川 V 堰の川IV波
III 川柳は(E2)   III 水に揉まるる
III*ふくらIV雀は   III 竹に揉まる(E2)る
II 都の牛は   III 車に揉まるる
I 茶臼は III*ひき木に   III 揉(E2)まるる
I われは IV*色香に III 揉まれ(G1)II 揉まれて(E2) V 玉の緒も
IV 絶えぬ V*ばかりに(E1) III*思い川(G1)
III 床に I 淵 I なす I 夜半の V*きぬ(G1)ぎぬ
 
2. 言葉の抑揚と歌の節付
 表1から、まず、視点1の五っの分類基準の使われ方をみると、多いのはIII、IV、Iで、少ないのはV、IIであった。このことは、IIIの言葉の平板抑揚は、抑揚の支配を離れて節付されやすいことを、また、IVの言葉の抑揚のあるものが平板化されるのは、抑揚に強く逆らって節付がされるのではないことを示していると思われる。IIが3箇所にみられただけであることも、平板抑揚の節付の可能性を示しているであろう。
 また、Vの抑揚と逆の旋律は、数箇所にみられたが、ほとんどが「段落コトバ」であった。ところで、Iの言葉の抑揚と合っている旋律は、段落部分では二つの言葉が連なるものも一つの言葉として扱っており、この中で単語としての抑揚を考えると、抑揚と合っている旋律もいくつかみられ、このことも合わせて考えると全体の2割程であった。
 次に、視点2からみることにしよう。視点2は、先に述べたように、歌詞の詩型が問題になるが、歌詞の伝承でみたように、三下りの部分「嵯峨の寺でら・・・ひき木に揉まるる」は、当時の流行り歌や謡曲《放下僧》などから採られたといわれる部分で、詩型に例外が多い。そこで、この部分は後から述べるとして、別に考えるとして、先に述べたVを除くと、IIIやIVは、やや「歌い始めコトバ」に、またIは、やや「段落コトバ」に多いが、Vのように登場部分が固定されることはなかった。Vには「段落コトバ」の持つ、節をまとめるという旋律の要求を満たすものがあったと思われる。
 また、以上の結果と関連させて、視点3の旋律化のための定型旋律E、F、G、Hの使われ方をみると、もちろん例外はあるが、IIIやIVの旋律で多く、他にはIの旋律で使われ、一方、IIとVの旋律では、あまり使われていなかった。IVの旋律で定型旋律が使われるのは、平板旋律を装飾するためであり、IIIの旋律での使用は、視点Iでみたように、抑揚の支配を離れて節付しやすい平板抑揚を装飾する方法であるといえる。
 次に、Iの、言葉の抑揚と合った旋律での定型旋律については、その使用が「段落コトバ」に多くみられることから、段落感を表現するための手段として用いられていると考えられる。
 
3. 「旋律化」のための定型旋律
 表2は、定型旋律E1〜2、F1、G1〜2、H1〜2の使われ方についてまとめたものである。
 
表2 E、F、G、Hの旋律での使われ方一覧
定型 用いられる部分・用いられ方とその例
E1 (1)「段落コトバ」、段落感を要するフレーズの終わり部分。例:「輪の」「ばかりに」
(2)旋律が続く場合は、前の音と同音。例:「嵯峨の春」「迷いをば」
E2 (3)「段落コトバ」部分。例:「宴」「回れ」
(4)詩形が変わった部分。他の芸能からの影響を残す部分。例:「揉まれて」
(5)旋律が続く場合は、前の音と同音。例:「大堰川」
F1 (6)転調によって、曲の表情を作る部分。例:「憂き身」「浮かぶ」「恨むや」「回らば」
G1 (7)段落感がある。例:「色香」「汲むや」「(行く)末は」「揉まれ」「思い川」
G2 (8)次に続く旋律がある。例:「山桜」「心の」「行くす」「手活と」「きぬ」
H1 (9)段落感がある。例:「散りても」「思い」
H2 (10)次に続く旋律がある。 例:「筏の」
 
 表2によれば、E1とE2は、段落コトバや段落感を要する箇所での使用が多い。また、F1の定型旋律は、転調によって、曲の表情を作るためのものと考えられる。G1は、安定感のある旋律で、旋律のいろいろな部分で歌われる。G2は、f音で終わる節で、必ず安定感のある旋律に続く。
 H1,H2については、この《嵯峨の春》では登場回数が少なく、傾向のようなまとめはできないが、H2は、G2と同様、定型の終わりがf音で、後に続く形である。歌の定型旋律については、次項、三味線の手のところでも述べる。
 
4. 三下り部分の節付の特異性
 ここで、後回しにしてきた三下り部分について、みてみよう。先にも述べたように、ここは、他のジャンルの芸能からの影響がみられるといわれてきた部分である。
 まず、視点1の節付の旋律については、IIIの平板抑揚に合わない旋律が多用され、三下り部分の前半と後半では、節付の形やリズムが大きく異なる。また、視点2の詩型に注目すると、三下り部分では例外の詩型、すなわち、七七型が中心に歌われる。視点3の定型旋律は、前半の「嵯峨の寺々〜川波」では、E1やE2、F1が歌われるが、後半の「川柳は〜ひき木に揉まるる」では、旋律は平板な中に、4,5度跳躍進行し、リズムは一音節に一音のシラビックな音形で歌われ、定型旋律はE2がみられるのみで、前歌前半や後歌の音形とは、明らかに異なる。
 三下り部分の歌詞と、『閑吟集』3や鹿島踊りの《こきりこ》4 、謡曲《放下僧》5、狂言《花折》6などの歌詞は、一部を除いて、お互いによく似ているが、ここでは、津田譜7や《こきりこ》8、狂言《花折》の中で歌われる「都の牛は・・・挽木にもまるる」の部分9の旋律やリズムを比較してみよう。
 
譜13−1津田譜
譜13−2《こきりこ》
譜13−3《花折》
 
 《嵯峨の春》に取り入れられた三下りの部分は、一方では、永正15年(1518)に成立した『閑吟集』に取り入れられ、他方では、譜13−2のように、民俗芸能として、また譜13−3のように謡曲や狂言に挿入された小歌として現在まで伝承されており、当時の流行の様子や人々の好みなどが窺われるところである。
 譜13は、紙面の都合上、三下り部分のわずかな部分を掲げたものであるが、まず、津田譜(譜13−1)の旋律とリズムを《こきりこ》(譜13−2)と比較してみると、リズムは異なるが歌詞と旋律の関係が似ている。また、津田譜を謡曲の小歌(譜13−3)と比較してみると、シラビックなリズムや同音進行、4,5度の跳躍進行がみられるところが似ている。
 次に、《こきりこ》(譜13−2)と謡曲の小歌(譜13−3)を比較してみると、先に、津田譜と《こきりこ》の比較でみられたと同じように、リズムは異なるが歌詞と旋律の関係の似ている部分がみられる。
 地歌《嵯峨の春》は、『日本音楽大事典』では、「謡曲『放下僧』を原拠とし、その一節を部分的に変えてとり入れ」9のように解説されている。しかし、以上の点と歌詞の類似などを考え合わせると、現在伝承される同部分の比較からは、地歌の《嵯峨の春》が、謡曲から直接の影響を受けたと言い切れない面もある。譜13の比較曲例は数が少なく、また、「当時の流行」といってもあまりに古い時代のこと故、種々の芸能が交流し、影響を受けたり与えたりしたことがあったということは言えても、芸能同士の直接の影響を断定することは難しいかもしれない。
 三下り部分の節付についての説明が長くなってしまったが、《嵯峨の春》の歌詞の節付は、以上、三つの視点からみると、音楽的な要求を満たす方向でなされているといえるであろう。しかし、一部に、言葉の抑揚と合った節付のなされている箇所もあり、こうした箇所が、京言葉あるいはそれに近い抑揚の言葉を話す伝承者や鑑賞者には、自然に感じられ、京言葉の抑揚が歌われているのではと思わせる部分であり、一方で、京言葉と異なる抑揚の言葉を話す演奏者には歌詞を歌う表現の難しさを、また鑑賞者には京都らしさを感じさせる部分なのであろう。







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