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フリースクールにおけるボランティアのあり方
久下沼有希子
明日飛学園(福島県東白川郡鮫川村)
親元を離れて自然のなかで暮らしたいと希望する小学生から高校生までの子どもたちを受け入れ、大家族での生活をします。子どもたちは通学のかたわら、農作業、養鶏など様々な自然体験活動を行っています。
10数名の子どもたちとの日常生活の中で、生活指導、健康管理、学習指導などをスタッフとともに行います。また、農作業・養鶏・家事・事務仕事・行事の企画、進行なども担当します。
1)はじめに
このプログラムに参加する以前、教師として働いていた。都市部にある大規模な公立中学校、全人格的な成長を目指す小規模一貫の小学校、中学校。どの学校にも豊かな経験と実績を持つ先生がおられ、さまざまな悩みを抱えた子どもとその家庭に向き合っておられた。これらの学校での経験が、プログラムに参加する動機となり、派遣先であるフリースクールで子どもたちと付き合っていく土台となった。
プログラムを終了するにあたり、教師として、フリースクールのボランティアとして、子どもたちと関わり学んできたことを述べたいと思う。
2)教師の苦悩
ここでいう「教師」とは、一般的な教師ではなく、わたし個人が教師として子どもと接した時の経験を指す。
教師とは学ぶ喜びを演出する演出家であると教えられたわたしは、学校は楽しく授業はおもしろいものであるという演出を心がけた。教師の仕事の実態は子どもにあれこれさせることである。子どもたちはさせられることに飽き飽きしており、いかに自主的、主体的に活動させるかに苦心した。矛盾も感じたが、子どもたちが楽しんでいれば打ち消すことができた。
どの学校にも光をあてにくい良さを持った子がいた。学級や授業のルールに合わないため認めてあげられなかった子、学級や学校に居場所を見つけられなかった子。明らかに個別の関わりを必要とする子どもがいるにもかかわらず、教師が中立的であることには子どものみならず父兄も敏感に反応し、学校はそういう摩擦を避けたがった。そして教師は二重三重の足かせをはめられ子どもと向き合うことになる。
新任の、まじめな教師には、子どもたちの精杯の自己主張をほほえましく思ったり同感したりすることは、許されないという思いがあった。子どもの行動の裏には「気にかけて欲しい」「大切にして欲しい、特別扱いして欲しい」というメッセージが隠されている。ベテランの教師には、この要求をほどよく満たせる方がおられ、「他の先生なんか気にすることないよ。子どもはあんたのこと信じてるんだからしっかりと信念を持ったほうがいいよ。」とのアドバイスをいただいたが、一日二日でできることではない。教師という立場の抱える矛盾や限界が、いつしか学校以外の場で、なんの肩書きも持たない自分に戻って子どもと向き合ってみたいという思いに変っていった。
3)フリースクールのボランティア
派遣先は山村留学生を家族の一員として受け入れている施設で、半年を過ぎる頃から学校に通うことを前提としない受け入れも開始した。
山村留学生を受け入れていた頃の仕事は、寝食の世話に勉強の手伝い、一緒に働きそして遊ぶこと。子どもに何かを要求したり、必然性がないことをさせる必要がないということには、肩の荷を投げ捨てるような開放感があった。
子どもの、いわゆる問題行動の多くには直接の理由の他に、きっかけとなる何かがある。学校でも「なぜ」という理由は追求されるが、どちらかというと二度と繰り返さないようにという指導のほうに重点が置かれる。ところが、子どものうまく表現できない思いや不満が解決していない場合、問題行動は果てしなく繰り返される。
フリースクールにくる子どもたちはすでに具体的な問題を抱えていることが多いが、その問題によってその子の全てが否定されるようなことはない。スタッフはその子がより良く充実した生活を送りたいと願っていることを信じて様々なきっかけを与えている。ボランティアに求められるのは子どもたちと本気で向き合い、大人の代表として、子どもたちが自由で充実した社会生活を連想できるよう、自身の生活を充実させることであると考えている。
4)まとめに
不登校の子どもたちは常に不安や不満を抱えている。はじめの頃は表向きの意味にだけとらわれ、過剰に振り回され疲弊することが多かった。カウンセリングの初歩は、話を聞き、共感をしめすことであるというが、共感を示しながらも相手に呑まれず、かといって自分を押しつけず、一定の距離を保ちながら聞きつづけるというのは簡単なことではなかった。子どもたちの話には、言葉にならないメッセージが込められていることが多い。今後はこれらのメッセージを汲みとり、受け止められる力を磨いていきたいと考える。
子どもたちの抱える不安や不満に特効薬はない。しかし、話すことには心の中に詰まったものを吐き出すカタルシスの効果や、考えをまとめたり気持ちを整理したりという作用がある。第三者であるわたしたちにできるのは、子どもの持つ可能性を信じ、子どもが安心して自分と向き合える環境を用意して、根気強く見守りつづけることであり、それこそが最善の方法であると自身が確信を持つことなのではないかと考えている。
[26歳/茨城県出身/臨時講師(退職)]
子どもが遊ぶ、子どもと遊ぶ
沖田明子
(NPO)キープ(長野県下伊那郡豊岡村)
「障害のある人もない人もすみなれた地域で普通の生活をおくること」を柱として、知的障害児者への支援を目的に設立されました。現在では、学童保育や野外教室、不登校児への支援にも取り組んでいます。
ボランティアは学童保育の活動を中心に、子どもたちの豊かな遊びの場をつくるお手伝いをします。若いスタッフを中心に構成された団体の中で、幅広い活動を共に創りあげていく仲間として期待されています。
この一年間、遊ぶことこそが、私の活動の大部分であった。『遊ぶ』。決して子どもだけの営みではない。遊びは、そこにエネルギーが惜しみなく注がれるにもかかわらず、遊びによって新たなるエネルギーを得ることができると感じる。子どもや大人の遊ぶ姿を改めて目にしたこの一年間の活動を通して、活動の中の遊びを振り返る。
【こどもが遊ぶ】
小学校の放課後のグランドをのぞくと、子ども達のにぎやかな声があふれている。ジャングルジム、ブランコ、鉄棒、サッカー。たくさんの子どもが遊ぶ。自分が小学生の時も同じであった。今も変わらず、子どもは飽きることなく、毎日遊ぶ。
この一年間の活動では、放課後の小学生の学童保育、養護学校児童・生徒の放課後・休日のお預かり(レスパイトサービス)を中心として、子ども達の遊びの場に関わってきた。毎日良く遊ぶ子どもの姿が、改めておもしろく見えた。現代の子ども達の遊びは、乏しくなってきているとはいわれているが、それでも、変わらず毎日子ども達は遊んでいる。
子どもの遊び方は、とても格好良い。楽しいときには顔は輝き、新しいアイディアをひらめかせ、休むことを知らない。感じたままに心を動かし、体を動かし、そしてそれまで以上に元気になる。エネルギーの出し惜しみはしない。マラソン大会の後でも、今ある元気を遊びに注ぐ。遊ぶことが最優先であるためかもしれないが、子どもと遊びは堅く結びついている。一つの遊びに集中しているときもあれば、遊びが次々と展開していくこともある。どちらの場合でも、子ども達は正直である。楽しいことは続ける、つまらなければ遊びは変化していく。遊びのルール一つにしても、どうすればもっと楽しくなるのか、小さい子も楽しめるのか、たくさん考えていく姿もとても興味深い。
子どもが集まり、遊ぶ中では、笑う、泣く、怒る、様々な感情が正直に飛び出してくる。中には、友達に感情をぶつけることが得意でない子どももいる。それでも、どの子も、嬉しいこと、楽しいこと、残念なこと、不思議なこと、綺麗なもの、魅力的なもの、いろんな出来事や物事に対して、心が素直に動くという印象を受ける。海洋生物学者のレイチェル・カーソンは、すべての子どもは生まれながらにして「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」をもっていると著している。大人になるにつれて、自然なものから遠ざかり、人工的なものに夢中になることなどで、その澄みきった洞察力、美しいもの・畏敬すべきものへの直感力を鈍らせてしまうという。子ども達の素直な感情、美しいものを美しいといえること、新しいことへの不安、興味、驚き、そして次々飛び出してくる小さな疑問。そのまっすぐな感性は、そのまま子ども達の遊びとなる。遊ぶことでさらに、様々な感情を抱き、次の遊びへと移行していく。遊びを通して、様々なことを感じたことは、子ども達の中にしっかり残っていくのであろう。
【子どもと遊ぶ】
学校の、休み時間や放課後のグランドでは、子どもたちの遊ぶ姿の中に、大人の姿はあまり見られない。一方、学童保育では、子どもたちが遊ぶ中に大人の姿が混じる。子どもの遊びの場に、なぜ大人の存在が必要なのだろうか。
活動に入ったばかりの頃、私にとっては学童保育の存在すら理解しがたいものであった。学童保育についての知識は皆無に等しい中、活動内容は「安全に」という部分を守りつつ、とにかく子どもと遊ぶことであった。学童保育の場を管理する大人達が、子どもと遊ぶとは・・・などと考えていると、いよいよ遊ぶことができなくなってしまっていった。
他のスタッフや活動から学んだ姿は、本気で大人も遊ぶ、ということであった。半端に子どもの遊びに寄り添うことや、ひたすら傍から見守ることでもない。子どもが遊ぶ中、大人も同じように子どもと遊ぶ。川や雨でずぶ濡れになる、芝生の坂をごろごろ転がる、滑り台を一日に何十回と滑る、公園の凍った坂道をソリで滑る、鬼ごっこもみんな真剣になる。どんな遊びでも、本気で遊ぶと楽しくなり、本気で遊ぶからこそ、遊びは様々に展開していくのだと感じる。そして、大人も本気で楽しむからこそ、子どもの遊びの中で、子どもにとっても大人にとっても楽しく過ごすことができるのである。
大人が一緒に遊ぶ意味は、楽しむだけではない。本気如何に拘わらず、子どもの遊びは、いつも安全であるとは言えない。楽しさの追求や好奇心の増大も伴って、遊びにはたくさんの危険が潜む。遊びの場での危険の1つは、遊具など、遊ぶ環境の整備の不十分さによって起きる、招かざる危険である。子どもたちが、楽しく安全に遊ぶためには、この危険は取り除くように努めなければならない。また、別の危険には、子ども達にも予測できる危険、「リスク」がある。例えば、高い木に登って、そこから飛び降りる。子ども達は、挑戦意欲をかきたてられると共に、本当に自分にできるのか、飛び降りてこけるかもしれないなどの不安や危険を予測しつつ、その遊びを判断する。これは、前者とは異なり、自分で考え行動できる年齢の子どもには、危険でありながらも、達成感を得る時でもあり、自分で考えて行動する機会となる。事故を恐れるがために、大人が安全性ばかりを追い求めてしまうと、子どもの遊びは様々な制約のもと、おもしろみを失ってしまう。子どもだけならば禁止されるであろう焚き火や川遊びなども、近くに大人が居ることで可能となる。過剰に安全性を求めた遊びの場でなくとも、子どもがリスクを見極め、楽しく遊ぶことのできる環境を整えていくことは可能であるはずである。
ここでも、大人が子どもと遊んで楽しむことは、大切な意味を持つと考える。子どもたちがどのような遊びを、どのように展開させていくのか、今どんなことができるのか、など、子どもの遊びにかかわり、遊ぶ力に触れることで、遊びをやたらに制約せずとも、子どもたちと一緒に遊びを楽しむことができる。
子どもがめいっぱい楽しく遊んでいる姿をたくさん見た。年齢、性別、グループの人数などによっても、子ども達の遊び方は様々に変化していく。一緒に遊ぶ子どもによっても、そこに居る大人によっても遊びは変わってくる。子ども達が求めているのは、疲れない遊びでもなく、あぶなくない遊びでもなく、なによりも楽しい遊びである。子ども達の発想は実に豊かで、際限なく湧いてくる。しかし、それも様々な制約のついた場所や、注意ばかりする大人のもとでは滞ってしまう。大人から見て、子どもの遊び方に学ぶ部分、惹かれる所、また、遊ぶこと自体の魅力、自然の中にあふれるたくさんの不思議や神秘さはたくさんあるに違いない。子どもの遊びの場に、子どもと遊ぶ大人がいることは、子ども達が楽しく遊ぶためにも良い点もあり、また、大人にとっても改めてたくさんのことを感じるよい機会である。再びレイチェル・カーソンの言葉を記すと、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない、と著している。子どもはなぜ遊ぶのか、どんな風に楽しんでいるのか、何に興味を持つのか、様々なことを、実際に子ども達と遊ぶ中で、さらには大人だけででも本気でめいっぱい遊ぶ中で少しずつつかめてきているように思う。きっと、子ども達も、遊びの中でたくさん肌で感じながら、色々なことをつかんでいくのであろう。子どもが遊ぶ姿、そして、子どもと遊ぶこと、これからも遊びを通して、たくさんのことを感じ、考えていきたい。
参考文献
*遊び場づくりハンドブック 大村璋子 (株)ぎょうせい
*センス・オブ・ワンダー レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳 (株)佑学社
*シリーズ学童保育 中川定著 大月書店
*子ども白書 2002 草土文化
[22歳/大分県出身/大学生(卒業)]
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