招待作品
ソプラノ、バリトン、ナレーター、合唱と管弦楽のための
「無声慟哭」
詩:宮澤賢治
VOICELESS LAMENT
for soprano, baritone, narrator, chorus and orchestra
Poem by Kenji Miyazawa
高田三郎
Saburo Takata
プロフィール
1913年 |
12月18日名古屋市に生まれる。 |
東京音楽学校作曲科卒業。信時潔、クラウス・プリングスハイムに師事。 |
1954年〜79年 |
国立音楽大学教授 |
1963年〜68年 |
日本現代音楽協会委員長 |
1978年 |
紫綬褒章受章 |
1979年 |
国立音楽大学名誉教授 |
1979年〜84年 |
日本現代音楽協会委員長再任 |
1986年 |
勲四等旭日小綬章受章 |
1992年 |
聖シルベストロ騎士団長勲章受章(ローマ法王より) |
2000年 10月22日逝去 |
主要作品
山形民謡によるバラード(管弦楽曲)2楽章(1941)/ピアノのための前奏曲集 5楽章(1948)/弦楽四重奏のための組曲「マリオネット」6楽章(1954)/ソプラノ、バリトン、ナレーター、合唱と管弦楽のための「無声慟哭」5楽章(1964)/合唱組曲「水のいのち」5楽章(1964)/独唱組曲「ひとりの対話」6楽章(1971)/オペラ「蒼き狼」4幕14場(1972)/ピアノのための民俗旋律5楽章(1978年)/混声合唱とピアノのための「イザヤの預言」4楽章(1980)/混声合唱とピアノまたは管弦楽のための「預言書による争いと平和」5楽章(1983)/混声合唱とピアノまたは管弦楽のための「ヨハネによる福音」3楽章(1985)/独唱組曲「残照」5楽章(1995)
著書
「くいなは飛ばずに」(音楽之友社刊 1988)/「典礼聖歌を作曲して」(オリエンス宗教研究所 1992)/「来し方(こしかた)」−回想の記−(音楽之友社刊 1996)/「ひたすらないのち」(カワイ出版 2001)
無声慟哭 演奏に寄せて
田中利光
(作曲家・国立音大名誉教授)
高田三郎の精神生活と音楽生活の集大成として在るこの「無声慟哭」は1964年に初演され聴衆に多大の感銘をあたえている。最初の音符を書きはじめてから完成まで八年を要したというだけあって、厖大な編成にもかかわらず、すべての要素が有機的に結びつき、そして融合し、表現上の饒舌のないまるで結晶のようなものであった。オーボエのソロに始まり、木管、弦、声と次第に厚みを増してゆくプロセスの中で、我々は、刻一刻と作品の中に引きこまれ、「旋律中に不用意に同一音がしばしば現れること、和声の中でも、同じ和音をよく使用して効果を薄めてしまう」ことについて日頃やかましく説いていたわが師高田三郎の自らの主張の証明を音響をとおして聞き、そして納得してしまうのである。
全体は「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」「風林」「白い鳥」の五楽章から成り立ち、「妹とし子の言葉」はソプラノに、「死後のとし子の言葉」は舞台裏の声として、「母の言葉」は女声合唱に、賢治の言葉として書かれた部分はバリトンに、その他をナレーターや混声合唱に役割を分担させているが、全曲を聞き終わった後にいつまでも呪文のように耳に残るあの〈あめゆじゅとてちてけんじゃ〉は、声もなく悲しむこの五楽章の集約として我々の心に死との対峙を意識させる。
彼は長野県の知人の禅寺で終戦を迎えているが、そこに住んだ二年間はその後の作風に大きな影響を與えることになった。沢庵和尚創設になるという春雨庵という所で日常的に仏教に触れることが出来たために、法華経に心酔したという宮沢賢治を身近に感じて、学生時代から心のなかに大きく位置を占めていた賢治の詩に基づくこの曲を作曲してたろうことが容易に推測出来る。
この曲の初演の直後に、「必要な音は全部書いたが、不要な音はひとつも書かなかった」と私たち教え子に語っているが、構想の段階で埋め尽くされたたくさんの音符が時間の推移とともに洗われ削り取られ必要最小限の音だけが残り、その細部に塗り込められた陰影とか微妙に揺れ動くテンポなどによって、あの透明な音の美しさを形成しているのだということが現実に認識された。より高い精神の充実は人間であることの存在の意味を自らに問いかけることにはじまり、死への視座をどのように定めるかによって決定するが、このような宗教的な背景なくしてこの境地に達するのも希有であろうことをそれとなく教示している。
この曲に限らず、あの「マリオネット」にしても「小譚詩」を含む50有余の歌曲にしても、彼の作品に一貫して流れるものは、論理的秩序の中での叙情性ということで、それがあの清潔で気品に満ちた作品として結実しているのである。
過日、御自宅を訪問したときに見せられた「山形民謡によるバラード」の譜面には驚かされた。スコアいっぱいに沢山の付箋がはられていて、それに音符がぎっしり書き込まれていた。この曲は、東京音楽学校研究科の卒業作品として作曲されたものだが、再演のたびごとに加筆修正をし、ついには原型がほとんど推測できない域にまでになっていた。「山形民謡による第2番とでも名付けようかね」と仰った嬉しそうな横顔が印象的であった。
お亡くなりになって間もなく一年になろうとしている。国立音大の校庭で野球に興じ、よく酒を飲み、軽妙なユーモアと手品でみんなを笑わせたことが今は遥か遠景の中に収まってしまったが、遺作となった「典礼聖歌」の高みは、荏苒と緩怠の日々を過ごすものへの警告としてまことに意味深いものがある。
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