第24回作曲賞入選作品
佐井孝彰
Takaaki Sai
1978年 兵庫県生まれ
2000年 第17回現音作曲新人賞受賞
2001年 学内にて安宅賞受賞
2002年 東京芸術大学音楽学部作曲科卒業
現在、同大学院音楽研究科作曲専攻に在学中。
これまでに、藤原嘉文、浦田健次郎、小山薫、土田英介の各氏に師事。
管弦楽のための「讃歌」
(Anthem for Orchestra)
この作品は、私にとって初めてのオーケストラ作品です。
息の長い、持続力のある音楽を書きたいと思い、2000年の6月から翌年2月にかけて作曲しました。
今回作曲するにあたってオーケストラの表現の可能性というものを私なりに考えたのですが、音響的な効果や表現を多用することによって、私自身が、素直に感じる音楽が妨げられないように、そしてそれぞれが、よいバランスをもって作品全体が構成されるように考えました。
曲は大きく分けて2つの部分で構成されています。
冒頭、ソロで奏されるヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのそれぞれが、組み合わせを変えながら、弦楽器の背景のなかでこの作品の核となる旋律を歌っていきます。そして、この旋律が弦楽器全体に受け継がれ、息の長い持続的な音楽へと発展していきます。後半は管楽器が主体になり、クライマックスをむかえ、やがて全ての楽器がffで奏するユニゾンヘと向かい、曲は終結します。
オーケストラには、音域、音色、音量などたくさんの表現の可能性がありますが、今回の作品では、まだ中途半端な部分や数多くの問題点が残っていると思います。今後、それらの一つ一つについて追求していくためには、実際作品を音にして、客観的に作品を聴くことが一番大切な事であると思います。
今回このような音になる貴重な機会を与えて下さった関係者の皆様、そして本日演奏して下さる皆様に心から感謝申し上げます。
森 佳子
Yoshiko Mori
1962年 1月29日大阪生まれ
1985年 東京芸術大学音楽学部作曲科卒業
1987年 同大学大学院音楽研究科作曲専攻修了
その後、東京をはじめ、大阪、名古屋等各地で室内楽作品を発表。
2000年 第9回「作曲家二人展」に出品。
2001年 「メルボルン音楽週間2001」に参加。
これまでに作曲を池内友次郎、宍戸睦郎、原博の各氏に師事。
現在、洗足学園大学講師、作曲家協議会会員。
The Voice of Trees for marimba and orchestra
(マリンバ協奏曲)
樹々の魂を奏でる様な深い響きを持つマリンバ―その音色に魅せられ、今まで何度か室内楽作品に取り入れてきましたが、かねてより一つの目標であったマリンバ協奏曲を昨秋脱稿致しました。
私にとってマリンバの音色は、長い時を経て地球上の生命を育んできた樹々そのものと、常に結びついています。自然の持つエネルギーは、私達が計り知れない程多様でダイナミックである反面、ひとたびバランスが崩れると非常にもろいものでもあります。「Voice」という語は、声や音の他、(感情、考えなどの)表現、表明等の意味合いがあり、私はこの曲で、人類に因る様々な急激な環境の変化の為危機にさらされながらも、芽吹き続ける彼ら(樹々たち)の思い―悲しみ、叫び、嘆き、そして祈りを、私なりの感情に置き換え、彼らの生命力への畏敬の念と、マリンバの響きと樹々への愛情を込めて書き上げました。
曲は、多様な生命の息づく森での緩やかな時間の推移から始まりますが、一転速度を増し、混乱とうねりに飲み込まれそうになりながらも反発するマリンバは、やがてカデンツァヘと導かれ、終結へと向かいます。
今回この作品の発表の場を与えて下さった関係者の皆様に深く感謝致しますとともに、本日演奏して下さるマリンバの山口多嘉子さん、指揮の飯森範親氏、並びに東京交響楽団の皆様に、心より厚くお礼申し上げます。
長生 淳
Jun Nagao
1964年 3月1日生まれ
1984年 第2回日仏現代音楽作曲コンクール特別賞受賞
1985年 第54回日本音楽コンクール作曲部門
1位なしの第2位入賞
1987年 現音第4回新人賞入選
1988年 第57回日本音楽コンクール作曲部門入選
1989年 東京芸術大学大学院修士課程修了
2000年 同年度武満徹作曲賞受賞
作曲を永富正之、野田暉行両氏に師事。
春―青い泡影(ほうよう)
(Le printemps−L'illusion bleue)
四季を標題にいただき、巡る季節によせて自然と生命の循環をことほぐ4部作―ないし4楽章の交響曲、その一曲目として「夏―朱い忘却」を作曲したのは99年の秋でした。その後、「秋」には手をつけぬまま「冬」を書き(但し発表の機会は得てゐないけれど)、2年たつた昨年の秋におよそ一月をかけて書き上げたのが、この「春―青い泡影」です。
私は、作曲に際して音の動き・響きなどをひたすら追ひ求めるのではなく、心象風景と音とを重ね合はせるやうにして書くたち(よきにつけ、あしきにつけ)であるだけに、この曲にどのやうな思ひを重ねてゐるのかを記すのも満更意味のないことでもないと思ふのですが、それを知つて戴くのに、うつてつけの一首―この曲を書きながら、次第に気持ちに重なつてきた歌―があります。
それは小中英之の「今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅」といふもの。と、これだけ書けばあとは言はずもがな、標題の「泡影」も考へあはせれば、凡そのところは察して戴ける、とは思ひつつ、敢へて贅言を費やせば・・・春は、打ちひしがれてゐた命が再び力を取り戻す季節といへるでせう、しかしその季節もまた移ろひの中にあり、さう思つて眺めるとき、ひときは美しく感ぜられるものではないでせうか。それはまた、抱擁の喜びがつかの間のものであり、それだけにくるおしいばかりに燃えあがるのになぞらえられませう。この曲はさういつた春への、私なりの頌歌なのです。
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