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 「おいおい、おい梅喜さん、どうでもいいがねェ、眼ェあいて杖をついているのはおかしいよ」
 「へ?眼・・・(物が見えるのに気づき、しみじみと杖を見て)あッははは、ははは、そうですか(杖を横にしてささげ)長いこと癖ンなってるもんでござんすからね・・・しかし、旦那の前でござんすが、この杖にも・・・(目をしばたき、ささげた杖を一つ戴いて)長いこと厄介になりました。ヘェッ、あたくし忘れないようにこれ、家ィおまつりいたしておきます・・・へェッ、ではお供いたします。旦那そばへ来てくださいよ。あたくしはね、嬉しくて嬉しくてねェ、早く帰りたいと思うんですがねェ・・・ああッと・・・(右手を大きく上へ、左手をなかば上げて、車を除ける形ちで驚いて右手から左手へ視線で追いかけて)ああびっくりした、なんです?旦那、いま前をすうッと行きましたねェ、なんです、あれは?」
 「あれァお前人力車だよ」
 「はは、そうですか。あたくしども子供の時分にァ(杖を胸にか帰るように、左方にずっと見送り、一つ大きく首をふり)あんなものはなかった。よく家内がねえ、お前さん車が危ないからッて出る度にそ言ってくれましたが、乗ってるのは女のようですね」
 「芸者だよ」
 「あれが?そうですか。あたくしはよくわかりませんけども、いい女のようですね」
 「いい女ッてお前、東京で、何の某という、一流の、指折りの、芸者だ」
 「あれが?・・・つかんことをうかがいますがね、旦那の前ですが、いまのねえ、なんですか、芸者とねェ、あたくしどものお竹とどっちがいい女でござんしょう?」
 「おい、変なことォ言っちゃァ困るよ、推察って知れそうなもんじゃァねえか」
 「するとなんでござんすか、あたくしどものお竹のほうがいくらかまずうござんすか?」
 「おい、ずうずうしいことォ、言っちゃァいけない。いまの芸者は東京で指折りの芸者だ、お前さんとこのお竹さんは、お前さんの前では言いにくいが、東京で何人という指折りのまずい女だよ」
 「そんなにあたくしどものお竹がまずうござんすか?」
 「ひとが悪口に人三化七なんてえことを言うだろう?本当のことを言うと、お前さんにはわるいけど人無し化十といって人間のほうィ籍が遠いんだよ」
 「人無し化十ですか?はあァそうですかねェ。そんな女とも知らずに、長いこと夫婦ンなってたんだが、知らないてえものはしょうがない、みッとものうござんすねェ」
 「おい、ふざけちゃァいけない。ひとは眉目よりもただ心、いくら顔容がよくッたって心だてが悪かった日にゃァなんにもならない。お前さんとこのお竹さんはねェ、心だてからいって東京はおろか、日本に何人といって指を折ってもいいくらいのもんだ、実に。聞いているけど貞女ってもんだ、お前さんに一と人嫁がせちゃァすまないと、夜も寝る目も寝ずに他人仕事をする。第一お前さんに口返答を返えしたことがないてえじゃァないか。あたしどもの家内に小言をいうときにいつもお前さんのこのお竹さんが引合いに出るくらいのもんだ・・・しかし似たもの夫婦なんてことをいうがね、お前さんとこの夫婦ッくらい変った夫婦はないね。いま言うとおりおかみさんは、悪いけどまずい女だ。それに反対にまた、お前さんはいい男ッたって、役者だってお前さんぐらいの男は、いま無いと言ってもいいくらいのもんだよ。・・・あ、そうだ、役者で思い出したがね、お前、山の小春を知ってるかい」
 「ェェ存じております、春木家の姐さんでしょお?療治にうかがいます、お顧客でござんすから」
 「あの小春にこのあいだ逢った。芸者五、六人よんで飯ォ食って、お約束〔例のとおり〕だ、役者の噂だ。あの役者がいい男、この役者がいい男、役者の噂・・・そこへ小春がつィと入ってきて『お前さん方はいい男ッてと役者の噂をするが、世の中には役者ばかりがいい男じゃない、家ィくる按摩、あのくらいな男は、あたし、役者にでもないといってもいいくらいなもんだ』ッて、小春がたいへんにお前に岡惚れしてたぜェ、一と苦労してみたいなんて・・・」
 「あはは、旦那、(杖を左脇に抱え、右手を振り)からかっちゃいけませんよ、いやだなあ・・・あ、旦那ごらんなさい、むこうから来ましたねェ、あれ女乞食でしょ?あの女乞食と、あたくしどものお竹と、どッちがまずうござんす?」
 「そうさ、あの女乞食のほうがいくらかいいだろう」
 「あれよりまずいんですか?(がっかり)へえェ、なさけねえなあどうも・・・おや、たいへんにぎやかンとこへ来ましたが、ここはどこです?」
 「浅草の仲見世だよ」
 「仲見世?ちょいと待ってください、仲見世ならあたくしゃァちゃんと心得あるン・・・ちょいと待ってくださいよ・・・(改めて目をつぶっり、杖をことこと二つ三つ突いて見せ、白眼をむき。うっすら笑って)、・・・ああ、仲見世だ」
 「おい、変な格好しちゃいけないよ」
 「ヘッ、あいすみません(目をあき、左右をきょろきょろと見廻しながら)へえェ、にぎやかですな・・・変った玩具ができましたなあ、ああなるほど、へえ、ああこれが仁王門ですよ、ごらんなさい、ええ?ああ、旦那ごらんなさい、鳩がいます鳩が。可愛いじゃァありませんか、ごらんなさいどうも・・・ああ、これがお堂だ、(前方上を見て、また旦那の方に向き)ねえ旦那、あたくしゃァねえ、いつもこのお堂の下でお詣りをしてるんですがね、今日は上へあがってお詣りをしたいと・・・、旦那つきあってくださいよ」
 「あぶないよ、大丈夫かい?」
 「へェ、大丈夫なんですよ、どうもありがたいな、どうも・・・(合掌瞑目)へい、このご恩は決して忘れません、へ。いずれお竹が、お礼詣りに伺います、ありがとう存じます、ありがとう存じます、ああ、ありがたいな・・・(なおも合掌のまま)おや、ごらんなさい旦那、たいへんなお賽銭、えらいもんですねェ、ご利益があるんで・・・あたくし一年働いたってこんなにお賽銭いただけやァしませんよ。観音様・・・旦那、旦那、ふしぎふしぎ、ごらんなさい、箱ン中から人間が出てきました(指でさす)」
 「へッ?あたくしと?あな・・・はァはァ、ああ、なるほど、(両手を胸前に重ねて)なるほどあたくしだ、なるほどあたくしはいい男ですな。あなたはこっちですか、あッはは、なるほど、あッは、貴方ァまずい面だ」
 「おい変なことを言っちゃいけないよ」
 「旦那あいすいません、堪忍してくださいよ、旦那・・・おや?(あたりを見回し)いなくなっちゃッた、あんなことを・・・おこって帰っちゃッたのかな・・・旦那ッ、上総屋の旦那ッ、上総屋の旦那ッ」
 「そこにいるのは梅喜さんじゃァないかい?」
 「へいッ?あたくしは梅喜でござんすが、貴女はどなたさまで?」
 「まァ、なんだねェこの人は、声柄でも知れそうなもんじゃァないか・・・あたしゃァ山の小春だよ」
 「へえッ?貴女が小春姐さん?(下から上へ見あげて)ああなるほどいい女だ」
 「なにを言ってるんだね」
 「姐さん喜んでください、あたくはねえ、目があきました」
 「まァ、本当に嬉しいじゃァないか。いまね、上総屋の旦那にお目にかかったんだよ、梅喜がこれこれこういうわけで目があいて、いまお堂にいるてえから・・・あたしァあんまり嬉しいからとんで来たんだけども・・・梅喜さん、まァよかったわねえ」
 「姐さん喜んでください、あたくしァねえ、こんな嬉しいことァござんせん」
 「立ち話もできないが、何処かでご飯をあげたいと思うんだけど、お前さん一緒につきあっておくれでないか」
 
 富士横丁の富士下に、『釣堀』という、ただいまでいう待合へ、これへ二ァ人が入った。上総屋の主人が女房のお竹にこの話をした。女房が喜んでお堂へ来てみると、梅喜の姿が見えませんから、ああ、嬉しまぎれにかるはずみなことをして、怪我でもしなければいいがと、高いお堂から富士横丁のほうを見ますると、たしかに二ァ人づれがそれらしゅうございますから、あとから見えがくれについてまいります。つづいて連れ込み宿ィ入って、庭の植込みンとこィしゃがんで中の様子をうかがっている・・・。
 こちらはさしむかいで・・・、
 「さァ、梅喜さん、お前さんお汁が冷えるといけないよ」
 「へ、へえッ、姐さん、あたくしァもうお酒は頂戴いたしません、ェェお猪口に二杯いただいたらいい心持ンなりました、へえ。それではお汁のほうを頂戴いたします・・・(椀の蓋をとり)おや、これはお味噌汁ですね?」
 「味噌汁てえやつが・・・味噌吸物てんだよ」
 「これが?左様ですか、どうもねェ眼があいて、ここで姐さんにご馳走になろうとは思わなかったなあ(箸をとり)へえ、では頂戴いたします、へえ戴きます・・・(椀を手に取り上げて、一と口吸い)むッ、ア、うまいなァ・・・うまいわけだ、中ァお魚だ。へえ、あたくしどもァ奢ったとこで菜ッ葉か豆腐ぐらいなもんで、へえ・・・む、これなんです?お刺身?はァそうですか・・・このお刺身の色気てえもなァ、あたくしはどこかで見たことがござんすよ、この色気を・・・あ、そうだ、提灯の色とおんなしだ」
 「なにを言ってるんだね」
 「あッはは、あいすみません」
 「まァ梅喜さん、よかったねェ、本当のことをいうと梅喜さん、あたしァねえ、お前さんを永いこと想っているんだよ。いくらあたしが想ってェても、お前さんにゃァりっぱなお内儀さんがあるからつまらないやね」
 「ヘッ、家内?知らなかったン。よく聞いたらねえ、人無し化十だって。驚きましたね。眼があいたら、あんな内儀さんと一緒ンなっちゃァいられませんよ」
 「それじゃァお前さん、いまのお内儀さんと別れるつもりかい?」
 「つもりもなんにも、あんな化物みたいな、みッともなくてあなた、一緒ンなっちゃァいられませんよ、別れちゃいまさ」
 「じゃァ梅喜さん。あたしを女房にしておくれでないか」
 「姐さん本当ですか?からかっちゃァいけませんよ。ありがたいな、貴女が女房ンなってくれればねェ、あたくしァうちの化けべそァ、あたくしァたたき出しちまう」
 一杯機嫌の調子高、
 「(両手で胸倉をつかむ)ちょいと、梅喜さんッ」
 「(左手で自分の襟をつかんで肘を張ったのが相手のつもりで右手でこれをはずそうとして)おや、なんだい、だしぬけに俺の、胸倉をつかまえて、お前はなんだ?」
 「(また両手で胸倉をつかみ)なにもくそもあるか、この薄情野郎。お前の女房の、あたしゃァお竹だ」
 「(また左手で自分の襟をつかみ)へッ?お竹か?しまった、堪忍してくれ、おいお竹、(しきりにその左手の肘を上げ下げし右手でこれをはずそうとしながら)おいッ、悪いッてあやまってる・・・おいッ、苦しいッ・・・おいッ、お竹ッお竹ェッ」
 「(小さく下手の床をとんとんと叩く)ちょいと梅喜さん、どうしたんだよ。どうしたんだよ梅喜さん(またとんとん叩き)梅喜さんッ、梅喜・・・」
 「(うつむいて目をつむった形から、やや体を起して、以下、また目をつむったまま)俺が悪いッて、あやまってえるじゃァねえか。俺が・・・お、なんだい、お前お竹じゃないか。お前いま、俺の喉を締めやァしないかい?」
 「なァにを言ってるんだねェ、この人は。あたしゃ台所で水仕事していると、お前さんがあんまりうなされてるから、とんで来たんだけど。梅喜さん、お前さんこわい夢でも見やァしないかい?」
 「ええッ?・・・ああ、夢か・・・(がっかり吐息)」
 「さッ、ご飯ができました、一生懸命信心してね」
 「お竹、俺ァもう信心はやめだ(両手を膝へ重ねてうつむく)」
 「(ゆっくり)きのうまで思いつめた信心を、なんでお前さん、今日ンなってよす気になったの?」
 「(左の袖へ右の手をいれて、さびしく)へへへへッへッへッへッへッへ・・・。盲てえものは妙なもんで、(袖の中で右手で左腕を軽く叩きながら)寝てェるうちだけ、よォく見える」







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