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心眼(しんがん)
 で、尋常に杖を突いて(右手に杖に見立てた扇を膝前の床に突き)歩いていて見よいもので、・・・なかには小僧按摩やなんかが杖を担いで(扇を右肩に担ぎ)鼻歌ァ唄って歩ッているのがあります。しかし心眼とかいいまして心の眼で見るから、その割合に間違いてえものがないんだそうでございます。
 
 「おや、お帰えんなさい、お前さんたいへん思ったより帰りが早いようだけども、横浜もあんまり大したことがなかったと見えますね」
 「はッは、どうも驚いたよ・・・どうも、いずこもおなじだねェ。いいえねえ、夜ね、おそくまで流して歩ッてるんだけども、まるっきり療治がないんだよ。で、あんまりたいしたこともないから、そいからね、あきらめて帰ってきちゃった」
 「(情のこもった言い方で)それァ仕方がありません、どこが景気よくッて、どこが悪いてえわけじゃァなし、世間一帯が不景気なんだから。またお前さん・・・景気のいいこともあるんだから、仕方がないからこッちでぼつぼつ稼ぐんですね・・・(夫の顔色がただごとでないのに気づき)おやッ、どうしたの?たいへん顔の色が悪いようだけど、心持ちでも悪かないかい?薬でも買ってくるかね?・・・お医者さまでも呼んでくるかい?」
 「(元気なく)へッへッへッへ、なにそんなに心配するこたァない、実はねェ、横浜からね、歩いて帰ってきたから、疲れが出たんだろう」
 「(あきれた顔、たしなめながら)なんだねえ、横浜から帰ってくるものがありますか。お前さん、わずかな汽車賃でかえ?・・・(さてはと気づき)梅喜さん、お前さん金さんといさかいかなんかしたかね?いいえたしかにしない違いない、あたしがまた余計なことを心配すると思って、お前さん隠してなさるんだろうけれども、そ・・・(見ると涙ぐんでいるので、びっくリして)どうしたの?(あやすように)どうしたんだい?(愛情を込めて静かに)どうしたんだよ・・・梅喜さん」
 「・・・(両手を膝に、うつむき加減で、肩をゆすりしゃくりあげ、左手の手首の内側で目を拭う)」
 「お前さん、泣くほど悔しいことがあったら、連れ添う女房じゃないか、語をしてお聞かせなさいな、どうしたんだよ、梅喜さん」
 「(こらえていたが、くいしばった声で)う、う、う、う・・・えッえ、え、え・・・(嗚咽)お竹、・・・俺ァ、どうして俺ァこんな不自由な体ンなっちゃったんだ・・・俺ァこれなに悔しい思いすんなら、俺ァ、いっそのこと俺ァ死んでしまったほうがいいや・・・(間。やや落着き普通に)なにしろいま言うとおりね、おそくまで流して歩ッてんだけど、まるッきり療治がないン、え?家ィ銭を持って帰らないだろ?飯代がはいらないんだろ?するとあの金公の野郎がね・・・『この不景気に、ど盲、食いつぶしに来やがった』・・・(涙声で、やや低く)『この不景気にど盲、食いつぶしにきやがッた』ッて、箸のあげおろしに俺のことォ『ど盲ア、ど盲』ッて言ゃァがるン。畜生め、悔しくって悔しくってたまらないから、あいつの喉笛ェ俺ァ食いついて、やろうと思ったこともあった。あったけど、こっちゃァこんな不自由な体だ、そんなことをした日にァ反対にこっちが負けてしまうし、いっそのこと悔しいから面当てに、軒ィでも首ィくくって、本当に俺ァ死んでやろうと思ったこともあったけれども、風邪ェひいてもお前がたぶん心配するんだから・・・もし、俺が死んだてえことォ聞いたら、さだめし、さだめし、お前が力を落すだろうと思って・・・知らない道を聞きながら、俺ァ横浜から、実は、あ、歩いて帰った・・・これというのもつまり俺が目が不自由なればこそ、そうやって他人がばかにしゃァがるんだからね。人間はね、一心になったらねェ、どんなことでもできなことはないてえからねェ、茅場町の薬師様へ一生懸命信心して、たとえ片一方の目でもいいよ、片ッ方の目でもいいからねェ、俺ァご利益で治していただくつもりで・・・信心する料簡で、知らない道を聞きながら、横浜から、実は、あ、歩いて帰ってきたんだよ」
 「どうも様子がおかしいと思ったから、きっとそんな事だろうと・・・(左の襦袢の袖口で目頭を拭って)梅喜さん、お前さん信心も結構だけど、悪い料簡じゃないかい?金さんだってこれが悉皆の〔全くの〕他人ならそんなばかげたことォ言う気遣いもなかろうけども、そこが親身の兄弟だけに、遠慮がないから、金さんがそう・・・それをお前さんがいちいちまッ赤ンなって腹をたてて・・・それじゃァお前さん、あんまり大人気ないじゃないか」
 「じょッ、じょ、冗談言っちゃァいけないよ。冗談言っちゃァいけ・・・冗談言っちゃァいけないよ。お前はね、俺と金公の仲を悪くしまいと思って、そうやって取りなしてくれるんだけどね、金公なんてやつァ大体もう、そんな人間じゃァないよ。俺ァもう今度てえ今度ァあきれけえッちゃッた、あんな薄情なやつァないね。よく考えてみな、あいつ、小さい時分に(念を押すように)俺が育てたんだよ、え?まるッきり俺が育てたんだよ、仮にも俺ァ兄貴だ。その兄貴ォとッつかまえて、たとえどうあろうと、(怒りがこみあげ)どッ、どッ、ど盲ッてえやつがあるかい」
 「あ、これァあたしが悪かった。金さんが悪い、兄さんにむかってそんなこと言うてはない。じゃァ、こうしましょう。一生懸命信心しましょうね、梅喜さん、あたしァね、白分の寿命縮めても、お前さん、眼を治すように一生懸命信心するから・・・そう怒ッたってしょうがない。さ、お前さん疲れてるでしょうから、床をとっときますから、とにかくお前さん、おやすみなさい」
 女房が床をとってくれましたから枕につきましたが、さあ、癇がたかぶっているから、なかなか寝られない。そのうちに昼間の疲れが出ましたものか、とろとろッとまどろむ。夜が明けましたから杖にすがって、馬道の家を出まして、茅場町の薬師様へ三七、二十一日の日参。・・・ちょうど満願の当日、
 「(左手で軽く懐の下方を押えて、右手で持った扇子の要で床をこつんこつんと右廻りに膝の前で丸を描くように突き、歩く形。ややあって、来たかな、という心で白眼をちょっとむき、扇子を膝で前へ横に置き、その上に両手をつき)へッ、へ、薬師様、梅喜でござんす、へッ。今日は満願でござんす、へッ。楽しみにして参詣りました。どうぞご利益をもちまして、両方いけなきやァ、ェェ片ッ方でよろしゅうござんす・・・ェ薬師様お忘れじゃァござんすまいなァ・・・(不平らしく)ェェ梅喜でござんす。今日は満願でござんす。薬師様、あたくしの眼は治らないんですか?ずいぶんお賽銭あげてますがねェ、お賽銭取りッぱなしですか?・・・(やや間。がっかり、やや捨てばちに)ああ、だめか・・・。へェ、よろしゅうござんす、へえ、じゃァあきらめました。こうしてください、あたくしもあきらめましたから、思いきりのいいように、あたくしをひとつ殺しちゃッてください。(大声)さあッ、薬師様、あたくしを一と思いに殺しちゃッてくださいッ」
 「おい、何を言ってるんだい・・・おい梅喜さんじゃァないか。なんだい、大きな声をして、おいおい梅喜さんッ・・・(後ろから梅喜の肩を叩く形)」
 「(両手をついて)へッ、へッ・・・ェェどなたさまです?(見あげる目があいている)」
 「どなたさま・・・?おい、お前、目があいたね」
 「へッ?(うっすら目をとじているが)なんです?あたくしが?眼・・・(再びあけて、開いた両手を目の前へ出して見比べ)あッ、ああ、目があいた。へえ、目があきました・・・目があきました・・・が、あなたはどなたさまで?」
 「いやァ、不思議なことがあるものだねェ・・・あたしは馬道の上総屋だよ」
 「ああァ、なたが上総屋の旦那ですか・・・あなたはそういう顔ですか」
 「なんだい、そういう顔てなァ」
 「(念を押すように)・・・へえ、目があきました」
 いやァ人間の一心てえものァ恐ろしいもんだ。いや、もっともねェ、お前さんとこのおかみさんのお竹さんが、自分の寿命ちぢめても、お前の眼を治そうと言って、一生懸命信心してるてェ話を聞いたが、夫婦の一念が届いたと見えるんだねェ。この先とも信心をおこたっちゃいけないよ」
 「(頭を下げ)へッ、ありがとうございます・・・(調子を変え)旦那、つかんことうかがいますがな。あなたァこれから、どちらへいらっしゃいます?」
 「あたしァ八丁堀まで用たしがあって、このまえ家内が目を患ってね。この薬師様へ大変ご利益をいただいたから、ついでといっちゃァすまないがね、こッちィ来たからお詣りに寄ったんだが。あたしゃァ家帰るんだよ」
 「左様ですか?旦那すみませんがな、あたしを一緒に連れてッてくださいな」
 「おい、変なこと言っちゃァいけないよ。不自由の時なら手を引っぱって連れてッてあげないもんでもないが、目があいたら大威張りで一人で帰ったらいいじゃァないか」
 「いえ、それがいけないんですよ。へへェ・・・不自由の時ならね、どなたもついててくださらなくッてよろしいんでござんす。目があいてね、やれ嬉しやと思ったら、さあ、何処がどこなんだかまるで見当が、つかなくなっちまいましたんで・・・」
 「ははァ(軽く個膝を打ち関心して)なるほどねェ、そんなことがあるかもしれないね。そいじゃァ、あたしが一緒に連れてッてあげよう」
 「左様ですか、少々お待ちくださいまし(使用面に向き直り)へえ、ありがとう存じます、ありがとう存じます(拍手で)ああ、ありがたいな・・・(ふと、前を見て)おや、旦那、なんです、この大きいのは?こりゃなんです?こりゃ」
 「奉納提灯だよ」
 「あ、これが、へえェ大きなもんですなァ・・・へェ、ではお供いたします・・・いやァありがたいなァ(まだ杖を突きながら)これから家ィ帰ってねェ、家内がねえ、あたしの姿を見てねェ、どれくらい喜ぶかと思いましてねェ、あたくしはね。早く・・・」







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