フリートーキング・・・
進行:それでは後段の方に移って行きたいと思います。差別の問題というのは、まだ他にも考える方法があろうかと思います。たとえば藤村の「破壊」という小説から、どのように捕らえていくかとか。いままで世の中でいろいろの捉え方があったんでしょうが。
日本ペンクラブでは差別表現を非常に重要な問題として、1992年に評議委員会を開いて「差別表現と言葉狩り」ということで検討に入っております。とにかく会員のみなさんの意見を聞き、分析しながら、重要な問題はずっと追いかけていくというように聞いております。特に差別用語ということでは、人種、民族、地域で生じ、身分、階級でもある。身体、精神的特長にもある。職業上の表示でもある。性によってもある。宗教、政治関係でもそういう差別用語が出てくる。慣用語の中でも出てくると、7つばかりに分類しています。それらの差別用語というのは、今までみなさんがおっしゃった中で、どう捉えていくのかということで、今後真剣に考えていこうと問題提起がなされていると思います。
もう一つ、時代によって違うだろうと、こういう分けかたもあるけれども、その時代では別に偏見でも、差別用語でもなかったことが時代が移り変わってくると、偏見・差別となり得る等いろんな問題の捉え方があろうかと思います。
今後これをどういう形で捉えて世の中にアピールをしながら、言葉狩りではなくて、本当に差別のない社会を構築していくにはどうしたらいいのか、そういう面でお話をしていただければと思います。
今まで開催してきた中でアンケートをしていただきましたが、その概略を事務局のほうから説明させていただきたいと思います。
(資料に従い事務局説明)
進行:今まで上演をしてどういうような傾向にあるかということと、それぞれの主な意見を要約して書いてあるのがこれからの資料でございます。さて、この偏見差別ということをもう少し掘り下げて言っていただければと思います。
昨年9月名古屋で初めて会を催しました。そのときにMSさんに新聞の記事で相当大きく取り上げていただき、差別・偏見問題の提起をしていただきました。かかわっている者としては感謝しているんですけれども、感想としてほとんど多くの人が古典落語については偏見等を感じないと言っておられます。しかし、中に1人か2人、容認できないという人がいる。1人でもいるということは、記者として悩ましいと書いておられたと思いますが、その辺から最初に発言をしていただいて、それからAKさんのおっしゃったドラマの内容まで踏み込んでいければありがたいと思います。
MS氏:お聞きしたところでは、「かなりひどい」という意見はお一人だったようですが、じゃあ一人だったら使ってもいいのかと、思いそうになったのは事実です。
私は長野県で松本サリン事件の取材に直接かかわって、新聞の力というものを体験しているということがありまして、一人でも悪い印象を持ったらいけないだろうと思っております。ただ、では書かなければいいのかというと、それもまた違うと思っているものですから。歯切れは悪いんですけども。もっと多くの方の意見を聞きたい。障害者の方にも聞きたいし、いろんな方にも聞きたい。そういう挑戦していきたい課題があります。
ちなみに「めくら」という言葉をあえて1ヵ所だけ入れて書いた記事に対して、2件だけ反応がありました。一つの意見はこの問題をずっと関心を持っていてくださいという励ましのものでした。もう1件は、今おっしゃったとおり、一人でもいやな思いをする人がいる、私もちょっと引っかかりました、という感じのご意見でした。その方はあとで本を3冊くらい贈ってくれまして、私としては励まされました。失敗を恐れずに社会的な議論も起こしてゆきたいなと、微力ですけれども思っております。
進行:名古屋で上演した時に、ご参加いただいた名古屋大学法学部大学院の教授より「座談会を次回もう一回やって下さい、そのときは是非参加させていただきたい」というメッセージを頂いております。色々な所から反響を頂いておりますけれども。もうお一方、WTさん。
WT氏:報道とか、言葉の問題で申し上げれば、精神障害の問題にしても通常伝える記事と違う形で、いかに現実性にあったものを、文脈を含めて報道できるような環境をとったらいいのかと、常々みんな考えているところだと思います。
それで、落語のことについてですが、さっき師匠に質問したかったんですが、一般の不特定多数が相手の新聞だとか電波に乗せるものと違って、寄席などで演じるのであるなら、落語協会とか落語芸術協会とかで「協会としては、落語についてこういう考え方を持っています」とか、「現在考えられる、差別に当たる言葉があるかもしれませんが、芸術として保存するために、ここで上演いたします」と、考え方を明らかにして上演することは可能なのでしょうか。
マネージャー:まったく意見がまとまっていないというか、まとまらない。というよりも、そういう問題があるの?というような。古典落語はこういうものですから、言葉を変えることが出来ないので、それをどうこうしてくださいという根本的問題がまずないということですかね。
WT氏:上演できなくなっているということは、どういうことですか。
マネージャー:自主規制ですね。
WT氏:自主規制。協会、落語は、上下の関係が厳しい世界ですよね。落語の世界は。お師匠さんからやめろといわれればもう出来ない。
マネージャー:いえ、そんなことはないです。「そうするべきではないですよ」と師からの教えになるわけですよ。
WT氏:実際問題として、演じられなくなってきているという現実がある。
マネージャー:それを実践していくのが、教えられたとおりの表現の仕方なんです。それはなぜそうしちゃいけないかという教えの意味は、そういうことを大きなホールでやると、すこしでも不快に思う方がいるということを、芸と一緒に教えていただいている。だからそういうところでやるのは相応しくありませんよと。
SI氏:そういう大きな会場でやって、問題になったということがあるんですか。
マネージャー:KY自身はないです。でも師匠の円楽の方でなったかどうかは、私も確かめてないですし、KYからも聞いていません。
SI氏:自主規制はなぜ発生してくるのか、そこが非常に大事だと思うんですがね。
マネージャー:マスコミに出られないというところも、1つの原因ではあるかと思います。また、お客様から批判を受ける。批判が本人に直接来るのであれば、対応の仕方もありますが、こういう噺をあの落語家はこういうところでしている、けしからんという話がこの世界でのってしまうと、その落語家の評判、イメージが落ちてしまうわけですね。すると、けしからん落語家だ、いかん落語家だという話になると、おまんまの食い上げになってしまうという意味も含まれているかと思います
進行:自分の生活がかかっているということは、あえて冒険に関わるようなものは出来なくなっている。それをあえてやると、協会の内部でも非常に問題児として見られるということがあって、本当に苦しい立場に置かれる。
だけども、みんながやれるような、古典落語ではこういう時代背景があって、それを楽しんで頂きたいのであれば、他のKYさん以外の人でも、上演できるんじゃないかと。そういう社会があって初めてノーマライゼーションという社会ということではないかというKYさんの意見ですね。
マネージャー:たとえば、こういう言葉が出てきますが、けっしてその方達を馬鹿にしたりという話ではございません、最終的にはこういう話ですよと。内容をいってしまうようでつまらなくなってしまいますが、注釈をつけての表現をさせてもらうのはどうかと。注釈をつけて電波・映像に乗せさせて下さいと。ただし、表現として最終的に何を言いたいかが、きちんと伝わる技量の持ち主、質の高い芸人であればやってもかまわない。それは、みんなの心でわかっていただけるのではないか。
しかし、言葉一つだけをとって、ただやらせてくれというのは問題があると。これはKYから、みなさん方へ問い掛けて欲しいと言われています。
進行:自分の社内で上演してみたという、あまり例のない取組みをAKさんの所でやっていただきましたが、その後、反響とか変わった所とかありますか。
AK氏:なかなか目に見えては分からないんですけれども。僕のところに相談してくるたいていの場合は、「この言葉使っていいですか」という相談なんです。この頃は「どうしても使いたければ使えば」と突きはなす回答をすることが多いです。「使っちゃいけない言葉というものはないんだよ。君に自信があるなら使いなさい、視聴者から抗議がきても、君がきちんと番組の意図と内容を含めて責任を持って説明が出来る自信があったら使いなさい」と。表現しちゃいけない言葉なんかないというと、ものすごく困っちゃう。いいかどうか言って下さいよと。(笑い)
判断してもらいたいんですよ。それでちょっと意地悪して、自分で考えさせるようにしている。それが最近だいぶ浸透してきている。何を言いたい為にその言葉を使いたいのと聞いて、「別にこれじゃなくてもいいんですけど」と答える場合はやめなさいといっている。でも、「うまく説明できないけれど、どうしてもこの言葉じゃなければ伝わらないと思う」という主張がある場合には、それでいいじゃないかと。使っちゃいけない言葉はないんだということを、みんな内心恐いなと思いながら、実はそうなんだ、という認識がだんだん現場のほうに伝わってきていると思っています。
YG氏:ちょっといいですか。いまの話で思ったんですが、先ほどAKさんがおっしゃった車椅子の台本の話ですね。これね、変える必要ないと思うんですよ。要するに最後にこの人達は「性生活がなくても、幸せになれるのね」というのがあるわけですよね。これを生かす為には、ちょっとインパクトが強すぎるかもしれないけれども。「いくらお金持ちの人でも車椅子の人と結婚しますか」と、これは個人が変な想像、幼稚な想像を描いていたのを、後のほうになって、そうじゃないんだと分かる為のものでしょう。それだけの信念があるとしたら、思い切ってやったらいいと思うんですよ。
抗議がきたら、ちゃんと説明する。むしろそこで抗議してくる人というのは、ドラマを最後まで見ないで、言葉じりだけ捉えている人だから、そういう人に対しては、あなたは最後までご覧になったんですかと、聞けるだけの信念があるんだったら、変える必要はないと思いますね。落語にしてもそうで、やっぱり、作り手がどれだけ信念を持っているかで、逆に差別的に思っていた事がそうじゃないんだということが分かる。公共の電波で出てくれば、見ている人も「あ、そうなんだな」というふうに思うかもしれないし、逆にいいチャンスなのかなと僕なんかは思いますね。
AK氏:そうですよね。現実的に世の中では、障害者の人は車椅子の人と結婚するかね、と乱暴に言われていますよ。それは腹も立ったりとかするだろうけれども、それがリアルな社会なんですよね。
ところが僕の部署の若いスタッフは、「そんな女盛りにいくら金持ちとはいえ、車椅子の人とは結婚します?」というところを、「そんな女盛りに、いくら金持ちとはいえ、夫婦生活とか・・・」というふうに、あいまいにね、車椅子という言葉はずしたほうがいいんじゃないかという意見です。まだ結論は出ていないんだけど。
進行:ここが今、意見が分かれるところかと思いますが、SIさん一つ
SI氏:基本的には、YGさんのおっしゃるのに賛成なんですが、1つ気になるのは、その女性刑事さんがそのセリフを吐くに当たっては、その車椅子の障害者の夫は性的不能者と、情報として伝わっているんですか。
AK氏:・・・それは伝わっていないです。
SI氏:伝わっていないのに、それがもし、車椅子イコール性的不能者みたいなイメージを、偏見を持って言っているのであれば、まさに差別的表現ですよね、これは。情報として知っていて言うのであれば、私はそれは充分理解できますよ。
OO氏:よろしいですか、テレビドラマっていう質のものですよね。2時間解決のものですから、まあ最後まで見ればある程度は分かるだろうし。先程、文脈って話が出てましたけど、その文脈で考えた場合に、その辻棲が合うという所で納得する視聴者も獲得することは出来ると思うんですよね。ただ、たぶんこれ、刑事が話しているころは9時半ちょっと前・・・。(笑)そうすると大体これを見てチャンネルを変えて、抗議をするというパターンにはなるんじゃないかなと思うんですよね。まあ今、SIさんがおっしゃったようにそこが実際抜けてて、なんで車椅子イコール性的不能なんだっていう抗議がまさに来ると思うんですよね。
それで、その辻棲をうまく合わせた上で、その抗議に耐えうる論理をもってして出すというなら僕は賛成しますけども。その辺の、いわゆる相対化がテレビ局内で即座にできるかという事が一番重要な問題だと思います。
AK氏:それはさっき話していて気づかなかった。
進行:OKさん、今の問題提起二つあるんですが、まず、こういうふうに自信があって説明ができるのであれば堂々と言葉を使ってもいいんじゃないかというのと、それから今度は、ドラマの話と二つ。
OK氏:前段のお話は、まさにその通りだと思いますね。そういう意味ではAさん、番組担当者としての責任を引き受けようかという立場かなと思いますね。
精神障害当事者が作っているバンドのグループがあって、精神病院へ入院した体験をふまえた歌を歌って言いました。その中に「きちがい」という言葉がある。自分達が「きちがい」扱いされて、それに憤りを感じているわけですね。それをラジオ番組の中で紹介したいと。しかし、上がOKを出さない。そこで担当のプロデューサーが、私の方に相談してきて、どう思うのかと。我々はおかしいと思わない。むしろそれが出てきたほうがインパクトがあるので、やってはどうかと話をしたんですけども。ディレクターなりがそう思っても、なかなかトップの番組審査部長の人がOKを出さないことがあるんじゃないか。
AK氏:それはあると思いますね。僕はその方針でやっているから、今はそういう雰囲気になっているけど。僕じゃない人がチーフに来てトラブルを起こしたくないとなると、ダメダメという感じになってしまう。
OK氏:テレビはすごく慎重で、精神障害者を扱った番組をなかなか作れないと現場のディレクターが言っていました。
AK氏:そうでしょうねえ。作れないようにしてしまう。
OK氏:我々はもっと踏み込んで、精神障害者の生活とか精神医療の問題を取り上げてほしいのですが、なかなか二の足を踏んでいる。トップの方が特にそうだと感じますね。
AK氏:その意味では御紹介したケースは、さっきご指摘頂いたことがすごくよかったので、そういうことを踏まえてプロデューサーとじっくりと話をして、何とかストーリーとしてきちんと組み立てたい。むしろそういうことが伏線としてちゃんと踏まえてあれば、最後のストーリーの落ちもあるわけだし、多分うまくストーリー展開できると思うので。
WT氏:その、ドラマのことでいくと、誰がそう言っているんですか。
AK氏:その夫婦怪しいんじゃないかと言っている刑事の会話。
WT氏:その刑事は、ドラマの中では主役の人なんですか。
AK氏:脇役ですね。で、刑事部屋で雑談してるんですね。あの2人は結婚するのおかしいんじゃないかと。何かあるだろう。犯罪に絡んでいるだろうというふうに思っている。ちょっと雑談ぽく。
WT氏:仲間うちで会話している。そうしたときにね、変な想像するの止めろよという、フォローの仕方になっていますが、それは言い過ぎだとかが入っているほうが自然なんじゃないかと思いますよね。
OO氏:かなりリアリティーがあると思うんですよ。実際、警察が捜査するときは、検察側はかなり差別的、偏見的目線で見ますから。そのリアリティーはこのシーンでは、結構出ていると思うんですよ。それに視聴者を意識して、そういう発言したときに仲間内はどうフォローするかは、まあ効果はあるかなと。一視聴者としてもそう思いますけれど。
KR氏:ちょっといいですか。同じ差別は、障害者の中でもあるんですよ。身体障害者は我々の知的障害者を、馬鹿とは言わないけれどもIQが低いと。我々は、「お宅は精神科行っている」といわれても、「いや神経科行っている」といいます。知的障害者は絶対に自分のことで「精神」という言葉を使わない。「あの人はちょっと精神が」と、精神障害者のこという訳ですね。障害者の中でも段階的にあるわけですね。
AK氏:もう一つ情報としては、この車椅子の登場人物は精神科医でもあるんです。ちょっと話としては複雑になっているんです。精神科医だから、女性の心の傷とかいろんなことも分かっているし「あの二人はそういうこと(性生活)がなくても幸せに、いい夫婦になれるのね」というセリフも最後の方で出てきます。
MS氏:みなさんの、障害者に関係する団体の側というのは、共通認識というのは取れていない状況で、バラバラでしょうか・・・。
進行:いやあ、もうバラバラというより共通認識を得ようとする段階に入っていません。
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