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MS氏:できればみなさん方からの、こういうことがこうだというのが、何か趣旨みたいなものが出てくると我々も考えることが出てくるんですけど。
SI氏:「座頭市」ではですねえ、座頭市に対して「どめくら」のような言葉が投げかけられますよねえ。それを今テレビで上映されますと、そのまま消えちゃう訳ですよね。仮にそれが流されたら視覚障害者の立場として不快に感じます?
YG氏:これは個人的な意見になっちゃうけど、「座頭市」というタイトルでもあるし、そのまま行っちゃうと思います、多分。
SI氏:YGさんなんかは何とも思わないけど、感じる人は感じる・・・。
YG氏:そうじゃないかなと思います。個人的に言うと、僕はいいんじゃないかと。
OO氏:僕も同じですね「座頭市」は、自分の生活観にリアルにあるものではないので(笑)。まあ、障害者を扱うドラマ・映画というのは、そういう異質なものが多かったのですけど、最近はもっとリアリティーを追求して、そういう問題もクローズアップされてきてはいる。「座頭市」の「どめくら」というのは、「あっ、そう」って感じで流せるのかもしれないですけど。逆にもっと本質的なテーマにがっちりかまされたようなドラマで、そういう表現が出てきた時に、僕でも感じないこともあるでしょうし、感じてくるのは実際問題の質・・・
SI氏:質問してもいいですか。なぜ落語界でも禁止されているのかという問題が私もよくつかめない。だから、おっしゃっているように、バーンと取っ払ってもいいんじゃないかと考える方もいるんですが・・・。出来ないというところをちゃんと捉える必要があるんじゃないかなと。不快なことは止めるべきだという、これが最低の共通項のような捉え方をみなさんされていたけれども、そんなこというたら、いろんなこと不快な人がたくさんいるんだから、全部出来ないということになってしまう。
 私は差別偏見の問題というのは、不快か不快じゃないかの問題ではなくて、事実に反することをあたかもそうであるかのように、障害者のマイナスイメージを与えるような報道をすること。これが間違ってるわけだから、これはまさに偏見に基づいた間違いだから訂正させる必要はあるけれど、その感覚の問題についてまで踏み込む必要はないんじゃないかと思うんですよね。こんな所も含めて一つご意見聞かせて頂ければと思います。
進行:それでは時間も余りありませんけれども一言二言、それではこちらから・・・
 OOさんからどうぞ。
 
OO氏:さっきMSさんが、障害者側に、いわゆる統一見解みたいなものがあればという質問でしたけれど、一般的な倫理観が多種多様なように、障害者の中でも障害者観、あるいは家族が持つ障害者観は多種多様であります。先ほどKRさんがおっしゃってらしたように、障害者間でも、見えない人は聞こえない人を蔑視し、歩けない人は知恵遅れの人を蔑視しというように、団体ごと個人ごとにそういうことがある訳ですよね。
 ある程度どういう感覚に踏み込むのかっていうお話がありましたけれども、難しいと思うんです。その辺をどうやっぱり折り合いをつけるかを・・・。起きないようにするんじゃなくって、いったん起ったことをどうやってその問題と向き合うかって言うことは、私自身、障害者を含めて考えていかなくちゃいけないんだろうなあと、再認識した次第です。
進行:ありがとうございます。じゃあDさん
 
YG氏:落語だけじゃなくて他にもいっぱいあると思うんですよ。例えば、子供に教えるべき歌、童謡の中の「山田の中のかかし」の2番に、「弓矢で脅して力んで踊る、山では鴉がカアカアと笑う、耳がないのが山田のかかし」という歌詞があって、これは馬鹿にしたような感じに捉えられても仕方がない。そういうことについても話し合うべきだなあと思う。
 それから無責任一代男という歌は「めくらばん」という一言の為にあんまり今は放送されていません。だからそういう意味ではこの会を次に催すときにはですね、申し訳ありませんが、AKさんのようなテレビの方だけじゃなくて、ラジオの関係者の方のご出席も、主催者の方にお願いしたいなと思います。実は、民放テレビでは落語はほとんど扱われていません。少ないけどきっちり落語を扱っているのはラジオなんです。よろしくお願いします。ありがとうございました。
進行:それじゃああの、マネージャーさん。
マネージャー:落語が、レッドブックに載るぐらい貴重なものになってきています。小学校・中学校で落語会を開く時には、着物で座布団の上に座って1人でしゃべり出して、右と左で何やってるんだこの人達と、ほんとに知らないものに対するこの子供たちの引きかたってのはすごいなあと。もうどんな枕を振ろうが、子供たちは何だこれという目で見てしまう。それをなぜお話したかというと、言葉を違うものに置き換えてしまって、まったく触らない、扱わないということよりも、使ってしまって、それから不快だと思う方ですとか、それって何だって思う方達が出てきて頂いて、それに対して議論があって互いのことを知り合う。落語の世界ではこういう話があって、この言葉を使わないと成り立たない表現の仕方なんですよというのを理解して頂く。なおかつ、意見の交換があってお互いを知り合ったところで、始めて理解、表立って話していくという雰囲気ができていくのかなあと。というところでKYの方と話していまして、互いを知り合うような表現の仕方・議論の仕方を知っていければと思います。
進行:じゃあ順番ということで、OKさん
 
OK氏:昔は地域の中にいろんな障害者の方がいたと思うんですね。それが施設や病院にどんどん入っていく中で、地域に住んでいる人達がいなくなってしまった時代があったんだなって思ってます。特に精神障害の方は、戦後の政策が進められたこともあって、地域に住んでいる人も非常に隠れて住むような感じだと思ってます。その中で、言葉の問題というのは非常に大きくクローズアップされてきたのかと思います。だから差別的な言葉を使わないとなっていて、それが今の行き過ぎたような状況になっているんじゃないかと思います。
 今、ノーマライゼーションという事が言われて、障害者が地域に住んでいるのが当然のことだと言われています。精神障害者ももっと声を挙げていこう、自分達が地域に住んでいるってことをアピールしていこうという時代になってきている。そういう中で、単に言葉の問題だけじゃないと感じる人も多くなってきていると思うんです。70年代にピークだった言葉狩りみたいなものに、見直し時がきたのかなあという感じがします。それが社会の成熟というか、障害者問題の成熟度の度合いを示すことだというに思います。
 そういう意味でいろんな議論をするべきだし、今放送禁止観みたいなものがあると言われてたんだけど、どうもそのテレビ局でも放送禁止にしている歌なんてないという話があったりして。そういう今までタブーとされてきているものを、もう一回議論していく必要があるのかなと思います。そういう意味ですごくいい企画ですし、こういう場に呼んでもらってほんと感謝しています。
進行:MSさん、お願い致します。
MS氏:今回の言葉狩りのような話、報道のほうで規定している言葉は、おそらく大概のものは苦情や注文がきた言葉なんです。今は「屠殺場に引かれる牛のような表情」というのは使ってはいけないのですが、これはその殺すという言葉で部落問題のものだったのでしょう。私の経験では、実際にこういうものがありました。声を挙げてもらって初めて気づくというのはあるんです。言ったもん勝ちあるいは部落問題とか声の大きい人達に言われるとなんかこう受け入れてしまうという体制があると思う。その時に議論はして、恐らく決めているとは思うんですが、それは我々の若い世代に伝わってきてはいない。ただそれは排除するだけの言葉になっている。本当はなぜいけないのか、どういう場なら使ってもいいのかを、本当は考える必要があるのではと思います。なかなか現実はそうなっていかないからこそ、そういうことを考える記者もなかなかいない状況です。
 私としては考える機会があったんですが、若い人達はなかなかこういう議論をしていない。わたしは長野で経験したのですが、逆に障害者=聖人、まああの聖書の聖ですね、そういう、いい人に見られるという逆差別的な扱いを止めてくれって意向も何人もあって、そこもまた気をつけて言わなければならない。ごく普通の1人の人間、まあ健常者も障害者も、やってることはほぼ同じであるという事も意識しなくてはいけない。
 ということでなかなかこう考えがまとまらないまま今日はいるんですけど、まあ勉強になったというふうに感謝したいと思います。
進行:ありがとうございます。WTさんひとつ・・・
 
WT氏:今回、落語でそういう問題があるんだという、非常に興味深い話でした。今おっしゃったように、70年代の言葉狩りの運動のときというのは抗議する側も非常に強行に、その対応に大変苦労したと聞いています。あらかじめ問題を避けるため、こういう言葉は使わないようにしようとか、先輩方がやってこられたんだろうと思います。しかし、新聞杜自体もここの所は変わってきている。
 私も読売新聞で15年くらいなるんですけども、以前、新聞社のほうも訂正なんか出さないと。知らん振りして済ましてしまうという体質今よりも強かったのではないでしょうか。だからこそ、攻めるほうも一生懸命攻めてくるし、それで一生懸命ガードしようと。
 だけど前進して考えてみようと。問題があれば誤りましょうと。訂正を出しましょうと。それで納得できるか考えましょうと。ここ数年そういうふうに変わってきている。世の中が大きく動いてきているということがあるんでしょうけども。その中でこういった企画も、動いてくる中で一緒に考えていこうとは、非常に納得できるところです。
 個別の問題についての扱いは、マスコミ報道も理屈が立つことであれば、こちらの立場でやっていこうというふうに変わってきているのは事実ですから。そこはお互いに意見を出し合って進めたいと思います。こういう機会を持っていただいて非常に良かったんじゃないかと思います。
進行:AKさん
 
AK氏:一昨年になるかな、雪印乳業のいい加減な検査が大騒ぎになって、その事実を認めた会見で、「めくら判で通っちゃったんですね」と向こうの責任者が言ったことがニュースになった。その時に、夜のニュース番組と夕方のニュースと両方から相談を受けたんですね。「この場合『めくら判』って悪いですよね」というから、しかし実際はいわゆる「めくら判」でしょうと。いかにずさんな検査をしているかということを伝えることが目的だから、そのまま出すのが一番分かりやすいんじゃないかと。そう言ったら、結果的には夜のニュース番組は映像を出しましたけど音を消して、ナレーションで似たような趣旨のことに変えた。夕方のニュースのほうは音を生かして、そこをわざと聞かせて放送した。僕はそっちの判断の方が良かったと思うんだけども。
 そんな具合に、なるべくこっちとしては、よく考えてそういう趣旨ならば出しなさいと。おっしゃったように、放送禁止歌というのはないですから、そんなもの。だから、だんだん表現というものをもう少し普通に、あるいは言葉をもっと大事にしようとか、そういうことが浸透してきているかなと。
 だから、こういう機会にもっとどんどん話し合っていくと、もっとみんな肩の荷が降りてくると思うんですけどね。そんな感じです。
進行:SIさん、最後になりますが・・・
 
SI氏:ピノキオ問題に取り組んだときに、出版社との交渉の席にある運動団体の人達も参加しました。参加しているだけですごく効果があるんですよ。その人達がそのとき障害者のことを正確に理解していたというわけではないんですよね。でも、差別はいかんということで同調していた。差別ということを腫れ物のように扱うことが運動する側にも、それを受ける側にも過去にあった。そうしたいきさつを早くのりこえて本当に何が必要かというところに早く到達すべきだろうなって、すごく思います。
 そういう意味で言うと、私は差別ということを考えたときに、たとえば新聞やマスコミ報道で、先程のあの聖人という扱いがあるのと同じように、やっぱり障害者はこういうふうだという美談で描くという論調はむちゃくちゃ多いでしょ。障害者自身が頑張っていますよと言う。またそれに対して障害者に関わる人も、頑張っていますよと美談調で持ち上げる。暗いニュースが多い中で、こんなに楽しい美しい話がありますよと持ってこられるのが障害者なんですよね。それをちょっと止めて頂きたいなと、すごく思いましたね。
 例えば作業所で資金難で困っているって訳で、地元の人達に協力してもらってコンサートが出来て三十万円の資金が出来ましたってね。世間じゃ三十万円の資金なんてそんな苦労せんかってどんどん転がしてる訳ですよ。ところが障害者だけがそうであって、むしろそんなに障害者が惨めな状況に置かれてて、経済的な諸関係から切り離されてやっている。それだけ苦労しなきゃならないのだという事実が、全部隠されてしまっているんですね。
 しかし、その障害者が頑張っているというところだけ取り上げられている。この紋切り型報道ほど、障害者に対する差別的見方はないだろうと。これは見方の問題で事実としてはそうではあるけれど、報道して何が悪いと言われたら何とも言えませんけれども・・・。そういう見方そのものに、差別的な見方があるということは事実だと思うのでね。「障害者が頑張っているというだけの報道」だけでなくその根底をえぐりだしていくような報道や放送は、これから是非作っていって欲しい。それが総合的に差別を無くしていくんだろうと思うんです。過去の遺物にこだわることは早く止めてですね、新しいものを創造していくということに、みんなが手を取り合うべきだろうなあという気がします。
進行:ありがとうございました。ちょうど予定した時間で終わりました。司会がまとめるのかとは思いますが、まとめはそれぞれの方がまとめをしていただくという事で。
 本日はどうもありがとうございました。
 
2002.1.18(金)
マスコミを含めた座談会風景







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