日本財団 図書館


関係者の立場から・・・
OK氏:全家連のOKと申します。この問題については全家連内部でも議論をしていませんので、私の個人的な問題としてお話することになるかと思います。
 個人的にも落語がすごく好きで、子供のころからテレビで見ていましたし、落語の本も読んだりして非常に誇れる文化遺産だと思っております。その中で、こういった障害者にかかわる落語が上演禁止になっているというのは、私も初めて知りました。テレビ・ラジオで放送しないというのは、ある程度分かるんですけども。高座でも出来ないというのは、意外に思います。
 落語に精神障害者というのはどれくらい出てくるのか分からないんですけども、我々がマスコミ関係のことで問題にするのは、あまり言葉自体を問題にしていないんですね。むしろ、どんなふうに報道しているのかということを問題にしているところがあります。先ほどおっしゃったように、マスコミではあからさまに差別的な言葉を使わなくなってますから、「きちがい」みたいな言葉は出てこないんですね。
 だから、そういう言葉を使ったからおかしいというよりは、犯罪報道でマスコミのルールとして、少年事件と精神障害者の事件だけは匿名報道をするんだということになっております。少年事件だと「少年A、何歳」と、匿名になっていることが読者に分かるけれども、精神障害の場合は名前を書かないと、なぜ匿名になっているのか分からない。この男は精神病院に通院していたとか、あるいは精神分裂であったという報道のされ方が多い。そういう書き方をすると、事件と病気が短絡的に結び付けられて、病気だから事件を起こしたというふうに思われ、精神病院に通院している人が、そういう事件を起こす可能性がある人たちと思われてしまう。そのところを考えていただきたい、という問題提起をしているわけですね。
 去年6月の池田小学校の事件は非常に悲惨な事件で、マスコミの方たちも大変だったと思いますが、あの事件も容疑者が精神病院に入・通院していたという記述がありました。そのことが事件の原因、あるいは核心であるかのような報道が当時されていました。しかも、容疑者本人が精神科の薬を大量に飲んで、この事件を起こしたんだというようなことを言っているということもありました。真偽は分かりませんけども。そういう形で最終的に流れたものですから、精神科の通院歴があればそうなのかなあと思ったりもして、非常に難しいケースだったと思うんです。
 ただ、そういう報道をされる時点で、精神障害者のやった事件という攻撃が出来上がってしまった。そのあと精神障害の治療をしていたとか、いろんな報道が出ていまして、何が真実なのかよく分かりませんけども、実質的には精神障害者が史上類を見ない凶悪事件を起こしたという話になっています。
 そのことによって、罪を犯した精神障害者は刑法の対象にならないケースがあるものですから、そうなった人をどう処分すべきかということで、新しい法律を作ることにまで発展してしまっている。そういう面倒があるわけです。そういった報道のあり方自体を、我々は問題にしたいと思っているんです。
 マスコミの人たちには、匿名にした断り書きとして書くからいけないのであって、病気と密接な関係があるならもっと書いてくださいとお話ししています。逆に言えば、ちゃんとした医療を受けないと妄想や幻聴が起きて、事件を起こしてしまう場合も確かにあるんだから、医療の必要な病気だということをアピールするような記事を書いてください、という言い方をしています。なかなか、第1報、事件の初期のころは詳しいことは分からないので、どうしても機械的なことになってしまう。むしろそういうことを、我々としては問題にしているわけです。
 それから精神障害に関連した言葉で、「狂う」という言葉があります。これも何かの機会にマスコミの方から聞かれたんですが、「狂う」ということも書けないと言われたことがありました。「狂う」という、言葉自体がいけないというのではないと思っています。時計が狂ったとか、そういうふうに人間以外にも使います。なによりも、文脈の中でどう使われているかということが一番の問題だと思いますから、「狂う」という言葉の問題じゃないですね。
 去年の11月か12月だったと思うんですけども、石原知事が世田谷で起きた警察官が刺し殺された事件の話の中で、「きちがいに刃物という状況があそこでは起きていた」ということを話したらしいんですね。何人かの新聞記者から電話をいただきました。それは確かに差別的な言葉ではあるし、知事が使う言葉としては適切ではないと思いますと。ただ、そういう言葉を使って彼が何を言いたかったかということのほうが問題で、むしろ、石原知事がそういう言葉を使ったというふうにマスコミで大きく取り上げることのほうがおかしいんじゃないかと。でもやっぱり、そういうふうに石原知事が「きちがい」と言ったという見出しで大きく扱った新聞もありました。
 時々政治家がそういうことをいうんですよね。相手を罵倒にするというか、批判することが高じて「だれそれは分裂だ」とかね。そういうことをマスコミが取り上げるほうが、むしろ問題がある気がしますし。もちろん、そういうことを言う政治家の認識なりというのが問題です。品性のない言葉使いというか、そういうのはどうかと思いますけども。しかし、そういう言葉を使ったからすぐいけないという反応になってくるのは、一つの違和感はあります。言葉尻を捉えることを問題だと言っているのではなくて、あくまでも、文脈での書き方での問題です。
 最近テレビドラマなんかで、障害者の方が主役だったり脇役だったりしますが。これはテレビですけども、今まで障害者の方がぜんぜん出てこないというのも、逆におかしな世界だったんだろうと思います。そういうところで、ドラマに登場するときに差別的な現状がありますから、そういうものが邪魔したりするような形になったりするわけで、その場面だけ取り上げれば、テレビ局が差別を追随するようなことをやっていいのかということになるんでしょうけれども。それは、テレビや新聞やプロレス、そういう世界の中だけで差別のないきれいな社会になればいいというのであれば、それはそれでいいと思うんですけども。
 そういう意味で、先ほどEさんがおっしゃっていましたが、折り合いをどうつけていくか、メディアはどうして行くべきか、と言うことをこういった問題で議論してゆくことが大事であって、差別語だということでこの言葉は使わないと考えるのは、思考を停止していることに過ぎないんじゃないかと思います。
進行:最後にSIさんに、この落語会を通じての感想と、25・6年前におきたピノキオ問題を通して、児童文学の中の偏見・差別をどう考え、活動されてきたのか。その辺を含めてご発言いただければと思います。
 
SI氏:名古屋で障害者支援団体を1971年から開いております。会自体が差別というものを一番問題にし、障害者の差別をなくす・差別と闘うというテーマで歩んできました。今回「あゆみかん」の理事長滝沢さんからお話があり、障害者の話が出てくる落語の会に協力してくれと依頼されました。何をやるかよく分からなかったのですが、滝沢さんから頼まれたということで、名古屋でKYさん達に来ていただいて落語会をやりました。
 実は、それが、上演を禁止されているものをやるということで、俄然興味を持ちました。今からお話しをする「ピノキオ問題」というのは、1976年に起きましたが、その当時、差別文化ということで会としても随分やりました。その問題をそのままもう一度思い起こさせる、問題提起というふうに思いました。落語は、テレビやラジオで聞くことはありますが、直接聞いたのは初めてです。実際、聞いてみて、大変すばらしかったというのが率直な印象です。何故、上演できないのか。このこと自体、まったくおかしいのではないか。KYさんのお話を聞くと「障害者のことだけじゃなく、農業や女性や貧困にまつわる用語も使えないので上演できなくなっている」と。これはまさに文化を殺すことだ、と思ったわけです。そこで、この問題はもっと社会に訴えないといけない。上演禁止だけでは差別なんかなくならない、という思いを新たにして参加させていただきました。
 いかにして差別をなくすかということが私どもの一貫したテーマですが、それは、言葉をただなくするという問題ではないと思っています。では、言葉はどうでもいいのかというと、そうでもありません。そもそも「障害者」という言葉自体が、「害」という表現です。さし障りは「害」という、本当に差別的な言葉です。今や日本は「障害者」という言葉に統一しようとしているわけです。
 アメリカの友達に聞いた話では、昔はハンディキャップという言葉が一般的だったそうです。しかし、そのハンディキャップということも、障害を持つ人自身に問題があるのではなく、社会との関係でハンディを生じるということが問題だから、一方的にハンディキャップとするのはおかしいとなってきたそうです。現在は、ハンディキャップという呼び方よりもディスエイブルという呼び方が一般的になってきようです。さらに、ディスエイブルできないという考え方自体がおかしいわけであって、ディファレントエイブル「違ったでき方をする」と言い方をする。一生懸命やっているアメリカの障害者団体ではそういうニュアンスでやっていると聞いたことがあり、なるほどと思ったんです。
 最近、イタリアとお付き合いが出来まして、そのイタリアの方から聞いた話でもまったく同じ状況のようです。イタリア語ですので、きちんと記憶してないのですが、先進的に取り組んでいる団体では、同じように「違った出来かたをする人」という表現をしているそうです。日本語で直訳すると、異能人とか異能者という言い方になります。そういうと日本ではまるで宇宙人みたいな、ちょっと変になってしまいますが、そういう形で言葉にこだわりを持つということが、是非必要なのかと思います。
 たとえば、ずっと交流しているお隣の韓国に、障害者の問題に取り組んでいる「障碍友権益問題研究所」というグループがあります。その「しょうがい」の「がい」が、日本では「害」を使いますが、碍子の「碍」を使っています。日本でもそういう使い方をするところがあり、そういう形でこだわっています。そして、障害者を「別な人」みたいに突き放すのではなく、仲間であるという意思を込めて友達の「友」を使って「障碍友(しょうがいゆう)」という使い方をしています。そういうふうに気を使っています。日本が一番気を使っていない国だなあと、最近はそんな気がしています。
 それは精神障害者に対しても「精神分裂病」とか、知的障害者に対してもついこの間まで精神薄弱、一般に精神薄弱というのは「精神が薄い」となっちゃうわけですから良くない。正確な表現をして行こうとすると、障害をどう捉えていくかということで価値観が現れてくると思います。昔の言葉は、今では、価値観的におかしい部分がある。今でも、平気で「障害者」という言葉を使っちゃうわけだから。それは時代と共に変わっていくというけども、それには先進的な人々が気が付いて変えていくことが、絶対必要だと思うんです。そのことと、そういう言葉を一切封じたら差別がなくなるかという問題とは、まったく別に考えなくてはいけない。と思うんです。
 それで、昔を思い起こして、「ピノキオ問題」の話の簡単な経過だけを説明させていただきます。1976年、名古屋の友人が自宅で子供に童話を読んでいたら、あるページで「びっこの狐」と「めくらの猫」が出てきました。ピノキオをだまして金を奪うその狐と猫の大きな挿絵の付いた場面に出くわして、「障害者のことをひどく書いているじゃないか」こんなものを子供に聞かせる名作童話といっていいのかといって、その人は率直に疑問を覚えて、出版元である小学館へ連絡をした。
 その話をこちらにしてくれまして、「そういうことは問題にしたほうがいい」ということがきっかけになりました。そこでいろんな経過がありますが「障害者差別の出版物を許さない まずピノキオを洗う会」という会を作りました。会の名称に表れているように、改めて見てみれば、名作だといわれる物の中には歴史的な差別というものがきっちり残っていて、それが何も問題視されずに伝えられている事実がある。それについてはきちっと見直すべきということでその会を作ったんです。
 ところがそこで、今ここで出てきている問題と共通するわけですが、私たちの提起した運動に対して、それを否定しようとする人たちが表れてきました。それは、「びっこ」「めくら」という「言葉そのものを使うことが差別だ」と我々が言っている。という「言葉狩りの問題」にすりかえられ、こういう運動はけしからんという声が沸き起こってきたわけです。そこで、本を出していた小学館が「びっこ」「めくら」のところを、「足が悪い」「目が悪い」という表現に直せば問題ないだろうと居直りをしてくるわけです。小学館は5種類のピノキオの本を出していましたが、そのうち4種類には「びっこ」と「めくら」の表現があるので回収する。ただし、「足が悪い」「目が悪い」と表現が変わっているものについては、なんら問題がないのでそのまま出版するという態度をとった。
 そこで、出版社の自主回収が、「我々が無理矢理回収させた」という形で問題にされていったんです。そこでは「臭いものにはフタをすればいいのか」という逆の批判が生じてきました。
 それに関連すると、その問題提起を受けて名古屋の図書館で、いったん書架から回収するということが起きました。名古屋の図書館は一生懸命取り組みをして、ただ引っ込めるだけではいけないということで、ピノキオコーナーというのを作りました。ピノキオの出版物を並べて、特別なコーナーだということを出来るだけ子供に分かるようにして、また大人向けにもいろんな関係資料を展示して、広く市民の声を聞くというコーナーを設けました。これはずいぶん長いこと開かれていまして、最終的には70年代後半いっぱいかかってこの問題が続いていきました。最後はそのコーナーも撤去されて、元どおりピノキオは閲覧できるようになってしまったんですけれども。
 そこではそういう取り組みをすることで、この問題は何なのかということを広く市民に議論を呼び起こすことができたことは一つ意味があったという気がします。
 それがざっとした流れで、結局、私どもは障害者差別の出版物を洗うという当初の目的は、それ以降全然進展しなくて、特にその問題は児童文学の世界の人にいろいろ問題を発信しましたが、ほとんど反応が起きてきませんでした。先ほどいったように「臭いものにフタ」はいかん、そして「言葉狩り」はけしからんという反応だけはありました。じゃあどう考えるのかという反応は全然起きませんでした。
 私たちの議論の中で出てきた報告は、それこそKYさんがやられているような、現代にマッチした障害者を扱った落語を作ろうということと同じ思いをそのときにしました。すると、障害者のことをきちっと捉えた、新しい時代の童話、児童文学、そういったものを作り出す努力をしなければいけない。そういうことをしないで、安易に子供たちに旧来からの名作というものを、それが売れるからということで出版界に提供してきたという、その安易な態度そのものにこの問題の根本があったということを提起しました。そういう意味で時代にマッチした作品は、すでにいくつか童話や児童文学の中にあったわけですね。そういうことをもっと考えていくようにするべきだということが、最終的にそのときに私たちが達した方向性でした。
 それとまったく同じ方向性を持って、今、KYさんがやられているということが大変うれしかったんです。そういう新しい時代にマッチをした文化、文学、芸術というものを創造することがほんとうの意味で問題にしていくことだろうと思います。それが先ほどの障害者の新しい、正確な表現を作り出していくことと共通している。それが一つの方向性なのかと、確認できたことが一つの成果であったかなと思います。
 ただ、時代の中で出てきた表現というものについては、その言葉ばかりをどうこうというのじゃありません。ピノキオの問題で一番最初にこだわったのは障害者を悪く言っているということだけを問題にしていました。そこからピノキオの原作を読みまして、ピノキオというものが時代を映しているということがよく分かったんです。そのストーリーそのものが障害者に対する因果応報の思想が一貫しております。悪いことをすればこういう障害者になり、そういうものは社会の掃き溜めであるんだというふうなことが、この物語の最初から最後まで貫かれているんですね。それは時代の制約があるからしょうがないだろうと思うけれども、そんなものをありがたがって今日読む必要は全然ないわけです。そういう意味で、ピノキオ童話が差別であると。「びっこ」「めくら」という表現の問題ではなくて、時代というものの持つ問題だろうなというふうに捉えることが出来たのも、一つの成果ではなかったかなという気がします。
 では、江戸時代もそれと同じかというと、そういうことじゃありません。むしろ、そこでわたしは今回お話を聞いてすごくよかったのは、やはりそこには人情というものがあった。それは、現代に失われてしまっているものです。落語を聞くことによって、知的障害の人たちをもう一つ捉えることができるのではないかと。
 昔はそれこそ地域の学校にいたものが、養護学校義務制以降、むしろ締め出してくるという方向になっている。いまも養護学校や特殊学級の数が増え続けているわけでね。そういうことで、障害者を地域から締め出してしまうということのほうがはるかに問題なわけです。社会が包み挙げていくという世界の中で、言葉の問題以上に人情が生かされる社会を作ることこそ差別をなくすことになる。すると江戸時代を否定的に見る必要がない。時代の問題性と時代の意味というものをきちっと捉える必要があるということも、落語を聞いて感じさせられました。
KY氏:僕は身体障害の方、精神障害の方、知的障害の方それぞれにネタをかえれば絶対にお喜びいただけると思っています。以前、寄席では身体障害の方がいらっしゃるときは、目や足の不自由な事に関する話は絶対やりませんでした。そうやって、出来る限り不快にならない話を長年選んできた。そのために上演されなくなっている。もしくは上演されても、そういう言葉を抜いてやるので、とても味わいが薄くなっている作品がたくさんになっている。古典落語は変えることが出来ませんので。
 しかしいずれにしても、その方たちがどういう方たちなのかということを、きちっと私達が理解をすることが大事だと思います。また間に入るお席亭の方たちも、今日はこういう方たちがいらっしゃっていますからこういう話はやめましょうとか、この地域はこういうところですので、こういうのはやめてもっとお喜びいただけるこういうのをしましょうとか。
 そういうテレビ局などの、間にお入りになる方々と演者と受けての方たちとのコミュニケーションをきちっととっていただければ出来るんじゃないかなと。







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