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事例1:養親の両親の理解を得た養子縁組 −Non-Reletive Adoption−
 
 近年、日本人夫妻、または夫・妻のいずれかが日本人の夫妻からの国際養子縁組の問い合わせ、申請が増えてきている。日本で旧来から行われていた養子縁組の多くは、家名を継承することを目的としていた。そうした古くからの養子縁組の概念と、様々な事情から実親による養育を受けられない子どもに家庭を与え、子どもの最善の利益を保障しようとするISSJの養子縁組とは、目的が全く異なっている。日本人が関わる国際養子縁組が少しずつではあるが、増えている現状は喜ばしいことである。その一方で、子どもが託置された後、養親候補者が新しい家族を形成し、順調な適応を遂げていく過程では、養親候補者の両親、兄弟姉妹、親戚など周囲の人々からも、国際養子縁組への理解を十分に得られているかどうかが、大きな鍵となってくる。
 日本人夫妻Aは、オリエンテーション、初回面接、個別面接、夫婦面接、家庭訪問を経た一連の家庭調査を終了し、養親候補者として承認された。家庭調査の過程で、この夫婦は夫の両親に対し、国際養子縁組の希望を明らかにしていないことが判明した。子どもの安定した養育環境を保障するため、担当ワーカーは、夫の両親が国際養子縁組についてどのように考えているか、話し合うよう勧めた。話し合いの結果、夫の両親は血縁関係のない子どもが自分たちの家系に入ることに強い抵抗を示し、夫妻の国際養子縁組を反対した。しかしながら、A夫妻の養子縁組への意思は変わらず、夫妻は例え両親の理解が得られなくても、子どもが託置された場合は、自分たちの子どもとして責任を持って養育するとの強い信念をISSJに表明した。その後、ISSJはこの夫妻のもとに韓国籍の子どもの託置を決定した。最初は養子縁組を反対していた夫の両親も、夫妻が子どもに愛情を注ぎ、子どもも夫妻の愛情を一身に受けて、順調に生育していく姿を目の当たりにし、国際養子縁組への理解を示すようになった。今では、夫の両親は子どもを実の孫のように可愛がり、子どもが訪ねてくるのを心待ちにしている。夫妻も子どもが祖父母を慕い、よく懐いていることを心から喜んでいる
 日本社会の国際化、価値観の多様化は、国際養子縁組希望者の裾野を確実に広げている。その一方、日本人家族の国際養子縁組が成立する過程では、家制度に根差した旧来の養子縁組の概念を引きずる風土の一端も浮き彫りとなってくる。日本人家族の国際養子縁組の増加は、養親候補者のみならず、その家族にも、子どもの福祉を前提とした養子縁組への理解を促すために、働きかけていくことの重要性を提示している。
 
事例2:アメリカ人夫とフィリピン人妻の姪の養子縁組−Relative Adoption−
 
 このケースは在日アメリカ人夫とフィリピン人妻のB夫妻が妻の姪二人を養子縁組したケースで、国際養子縁組の中では、Relative Adoptionにあたるケースである。B氏はアメリカ海軍に勤務しており、二人はB氏がフィリピンに勤務していた際に知り合い1994年に結婚した。結婚後夫妻は夫の出身地であるアメリカ南部の州に住んでいた。夫が1998年に日本勤務になり、以来夫妻は日本で暮らしている。夫妻の間には実子の男子もいる。夫人は結婚前フィリピンで働いていて、家族と同居していた。その間にB夫人の弟は結婚し、女児二人に恵まれた。B夫人は姪の二人をとても可愛がり、姪達も夫人によくなついていた。B夫人は結婚後も二人の姪と連絡を取り合っていて、フィリピンにいた頃と同じような、親しい気持ちをもって叔母として姪達の成長を見守っていた。ところが、弟家族が住む地域にあるピナッボ火山が噴火し、弟家族は被災した。
 B夫人の弟は病気で家計にゆとりは無かった所に、噴火による被災により家や家財を失い、政府の被災者住宅に入居し、経済的に困窮した状態に陥った。弟夫妻にはB夫人の結婚後さらに男子三人が生まれており、総勢7人家族である。B夫人の姪二人は就学年に入っていて、勉強を続けたいと強く望んでいたが、被災後はかなわない状態であった。そのような弟家族の窮状を見た夫人は、親しい関係にあった姪二人を、養女に迎え、教育を受けさせたいと考えた。B夫妻は正式に姪達の養子縁組手続を始めるため、1999年にISSJに連絡をとった。ISSJは夫妻の家庭調査を進め、養親として相応しいと判断し、ICABへの申請の援助を行った。ICABでの審査の結果夫妻は養親候補者として認められ、姪達の託置を許可する書類が発行された。二人の姪は2002年、2月に来日した。B夫妻と同居開始後、ISSJは6ヵ月間に3回適応調査を行ったが、姪達の適応は順調で、B夫妻の実子とも仲良くやっていた。適応調査報告書をICABへ送り、最終的に養子縁組が許可された。ISSJでは日本の家庭裁判所において、養子縁組申し立てに必要な書類を全て翻訳し、2002年11月にB夫妻は家庭裁判所に養子縁組の申し立てを行った。申立てを行ってから、家庭裁判所の調査官との連絡、面接が必要となったが、その際ISSJのソーシャルワーカーが通訳として援助した。申し立てを行ってから約2ヵ月後には養子縁組を認める審判が下り、B夫妻はISSJの援助で養子縁組届を役所に提出し受理された。現在夫妻は養子縁組成立に伴う養子の出生証明書の父母欄に自分たちの名前がはいるよう手続を始めた所である。
 
事例3:タイ人妻の連れ子の養子縁組 −Step Adoption−
 
 近年、ISSJで援助する養子縁組のなかで、日本国籍の男性とフィリピン国籍、タイ国籍の女性が国際結婚をし、その妻の連れ子を養子縁組したいというケースが増加している。
 日本人夫、タイ人妻のC夫妻は、妻の連れ子であるDちゃんを養子縁組したいという希望があり、夫妻はISSJのタイ国籍の子どもの養子縁組オリエンテーションに参加し、手続きのプロセスを理解した上で申請をするに至った。
 現在、C夫妻の生活の拠点はタイであり、タイには、妻と自分たちの子どもと妻の連れ子Dちゃんが生活しており、ここ数年、C氏は日本とタイを行ったり来たりしていた。C氏が勤務する会社は幸い大企業なので、有給休暇を最大限とってはタイの家族のもとに帰っていたし、夏休みには、日本に子ども達と妻を呼び寄せ、日本の家で生活し、C氏の姉妹の家族に会わせたり、日本の様子をみせたりしている。
 C氏は養子縁組の手続きが完了したら、以前からの計画通り、生活拠点を本格的に日本からタイへ移す予定である。若い時からスキューバーダイビングを趣味としていた彼にとって、タイは一番気にいっている場所となっていた。勿論、日本語を少し理解する妻に出会ったこと、自分の血を分けた子どもが居て、自分を待っている家族がいるということは、働く意欲を高めるし、家族の待つタイは第二の故郷でもあり、すでに家も購入した。
 養子縁組手続きは、子どもが住んでいるタイで児童調査が始まり、日本人のC氏に関する書類と家庭調査書はISSJによってなされた。C氏は乳幼児の時流行っていた風邪がもとで聴覚障害者となったが、学習能力があったので普通学級に入り、中学からは大学付属の学校に入学し大学を卒業した。C氏は父親の死後、残された父の負債を片付けることに翻弄し、彼は、長男として、姉妹と母のために生活に困らないように何とか財産処理をして、自分の居場所をやっと確保した。彼は、障害のため人との細かいやりとりに苦労し、孤独感を味わってきた。このため、自分たちの子どもと同様、妻の連れ子も法的に安定した養子にしたいという気持ちは強く、現在手続きを熱心に進めている。
 タイに在住する妻との連絡には、FAXやEメールを駆使することで、距離的に離れていても家族との緊密な関係を保てているケースである
 
2. 家族との再会援助
 
 何年も長期にわたり、連絡が取れなくなった親、兄弟姉妹あるいは親戚の人捜しに関するケース数は年間それほど多くはないが、ISSJの仕事の範疇である。養子になった子どもが実親との再会を望むケース、ただ文通で近況を交換し、互いに無事を確認し合えれば良いと考えるケース等、人捜しの動機は様々である。
 人捜しを決心させる時、多くの場合そのきっかけとなることが彼らの生活の中に起きている。例えば養子になった子ども達の養親の死、あるいは当人の結婚、そして自分が親になった時などが、それに当たる。また外国人と結婚した女性が、重い病におかされ人生の終えんを迎える時、日本に残した兄弟姉妹あるいは親戚の人々と連絡を取りたいと強く願うこともある。
 日本人を探す場合は、「戸籍」を通して、本人と連絡が取れるか否かは別として、付票から本人の現住所を知ることができる。これは本人と弁護士が入手可能であり、ISSJが正式文書で市町村に依頼をしても、プライバシーを守る立場から入手することは不可能である。したがってISSJの人捜しのケースは、ISSJの理事である弁護士の協力を得ながら行っている。しかし日本にいる人が外国にいる人を捜す場合、何十年も前の住所からたどって行くこともある時には、納税者名簿、あるいは車の運転免許証の登録名簿から捜す場合もある。時間がかかる上、捜しても会いたくないあるいは会えない状況のときもあり困難な活動のひとつである。
 
3. 無国籍児の問題・子どもの送還
 
◆無国籍児・外国籍児・未就籍児の問題◆
 当事業団は東京メソニック協会の助成金を頂いて無国籍状態の子どもの国籍確認や、取得援助を行ってきた。当事業団が最近注目しているのは、日本で生まれて国籍が確認されていない子ども達の問題である。その多くは超過滞在の母親から出生している。たとえ母親が超過滞在であっても子どもは国籍を有する権利を持っている。また、国籍確認手続は、血統主義をとる国であれば例え超過滞在であっても母親が自分の国の大使館に届けることで取得できる。生地主義国の子どもの場合は、母国に帰還することや、在日大使館を通じて本国に届ける等その国の法律を調べていくことで国籍確認の手続方法は知りうる。しかし、実際は無国籍として外国人登録されたり、出生届が出ていなかったり、世界人権宣言あるいは子どもの権利条約にうたわれる〔人は(子どもは)国籍を持つ権利を有する〕権利が与えられていない子どもがたくさん存在している。実親の情報が全く無い場合は、外見がいかようともその子どもには日本国籍が与えられる。しかし実親が行方不明であっても、外国人らしかったという情報があると、それだけで日本国籍が得られなくなる。そのため生まれながらに不法滞在児として、あるいは無国籍児として、拠り所のない不安定な環境に置かれる。そうした子どもには日本国籍を与え、実親が確認された段階で国籍変更をするよう、関係機関にお願いしたい。当事業団では2000年から2001年にかけて実態調査をしたが、当該年度も引き続き国籍確認援助をしながら実情把握を努めてきた。
 
◆国籍取得・確認・送還援助◆
 不法滞在をするフィリピン国籍者の未成年者への送還援助は昨年度に引き続き援助数は多い。ほとんどフィリピン大使館からの依頼であるが、不法滞在で親が入国管理事務所に収監され、その収監者に未成年の子どもがいる場合は入国管理事務所からISSJに援助依頼がされる。この他かつてISSJの援助を受けた人からISSJのことを聞き、本国送還援助の依頼を受けることもある。未成年者が彼らの実母とともに送還する場合を除いて、未成年者の安全保護、誘拐または売買から彼らを守るためにISSJの介入が必要で、我々の仕事を遂行するためにはフィリピン大使館、入管、児童相談所そしてフィリピンの社会福祉開発省(DSWD)の協力が不可欠である。
 援助依頼の未成年者の多くは非嫡出児でかつ未就籍である。彼らが置かれた生活環境は、父母どちらからか、あるいは父母の両者からも遺棄され、フィリピンの友人、知人に養育されていたり、児童相談所に一時保護されていたりする。
 未成年者の唯一の親権者である実母が行方不明の場合、ISSJは未成年者の保護と親権者である母親の権利を守ることを援助過程に組み込んで手続きを開始する。具体的には関係者との面接を通し、出来るだけ多くの正しい情報を集める努力をする。関係者に送還手続きを説明し、いかに実母の存在が、未成年者の出生届さらには子どもの将来の生活設計に必要であるか、繰り返し説明をする。ワーカーの真剣な真摯なかかわりの中でワーカーを信頼し始めると徐々に真実を語り始め、『行方不明』の実母の居所が確認されることは多い。母親のほとんどは、フィリピンに残した家族への経済的援助のために日本で働き続け収入を得なければならないので、本国に帰国することを拒否する。ワーカーは不法滞在することは法律に違反した行為であるから法律に従い本国に帰ることを説得するが、それでも本人が帰国を拒む場合、我々は強制することは出来ない。また、超過滞在者を入管に報告する立場でもない。
 ISSJの母親探しの努力にもかかわらず実母が出現しない場合、未成年者をフィリピン本国に連れて帰る人物のためにDSWDの許可が必要である。また未成年者をフィリピン到着時誰に引き渡すか、受け入れ家庭の社会的調査も必要である。受け入れ家族の精神的、社会的、また経済的能力等々について、我々はDSWDに受け入れ家庭の調査依頼をする。その家庭の受け入れ準備がされなければ未成年者は日本を出国することは出来ない。これら一貫した強制送還手続きに時間はかかるが、フィリピン大使館とDSWDと異なる省庁が互いに連携し、DSWDの調査報告書がない限り、フィリピン大使館では未成年者の渡航書類を発行することはない。未成年者の国境を越えて移動する際、未成年者の安全がフィリピン国の保護で守られている。
 ISSJは、母親の存在が大きく影響する未成年者が母と離れ、フィリピンと日本と別々に生活することに心を痛めるが、最小限、受け入れ家族の準備が事前にされ、到着するまで、国が許可するものが責任持ってエスコートする段取りが、出来て未成年者が日本から出国すること、そして後日、DSWDから未成年者が、フィリピンの新しい環境の中で、どのように適応しているかの報告を受けることに、心をやすめることにしている。
 
事例4:子どもの強制送還ケース
 
 フィリピン大使館からの照会で、実母から置き去りにされた2歳のフィリピン女児Eを本国に連れ帰ることを依頼されたフィリピン女性FからISSJに連絡があった。ISSJのソーシャルワーカーがこの女性と面接した結果、以下のような事情が判明した。Fと実母は1998年に同じクラブで、それぞれコックとエンターテイナーとして働いていた時に会った。Fは実母ともう一人のエンターテイナーとルームメートとして同居していたが、彼女は実母の個人的事情に介入したことはなかった。実母と子の父親との関係にも詳しくなく、実母が日本人の雇用主によって妊娠させられたことしか知らなかった。雇用主は既婚の身分で、実母と結婚することは出来なかった。出産の5ヵ月前、実母の父親は高血圧が原因の心臓発作で死亡した。その結果、実母は精神的な重圧に耐えかねて生まれた子をFのもとに残して、一言の言い訳もなしにフィリピンに帰国した。ずい分経ってから実母はフィリピンから電話をしてきて自分の行為を詫び、その後しばしばFと娘に電話してくるようになった。子どもの同行者のFは彼女自身約14年間日本に超過滞在していた。長年にわたる辛い労働と家族から遠く離れている寂しさから、彼女は愛する老母に再会するため、入国管理事務所に自身の身柄を引き渡す決心をした。帰国に際して彼女は子どもを同伴して、実母に会わせたいと思った。子どもの出生登録がフィリピン大使館にされていなかったので、Fは大使館の勧めで書式をフィリピンの実母のもとに送付して署名を貰い、出生届をすることが出来た。ISSJはFに対し (1) 子の出生届、(2)実母の出生証明書、(3)エスコートのパスポート、ビザ、 またはそれ以外の旅行許可書(トラベル・ドキュメント)を揃えるよう依頼した。ISSJの担当ワーカーは児童調査報告書を作成し、フィリピン政府に送付し、同時にフィリピン側のソーシャルワーカーが実母の子育て能力や家族の受け入れ態勢について調査・評価し、また実母の扶養引受宣誓供述書を取得するよう要請した。フィリピンの担当ワーカーが作成した調査報告書により、現地の家族が子どもを引き受ける能力があることが判明したので、「エスコート許可書」が発行され、FおよびEはフィリピン大使館から旅行許可書を取得して、入国管理事務所に提出した。その結果、子どもは実母や親族と再会することが出来た。現在ISSJは子どもの最上の福祉を確かめるため、フィリピン政府当局からの子どもの現況報告が届くのを待っている。
家族の愛情のもと、のびのびと







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