(2)コミュ二ケーションは表現することだけではなく聞くことでもある
時間をとって相手に耳を傾けることは敬うことを意味しています。カウンセラーは家族間で互いに聞けるようにリスニングスキルを教える必要があります。コミュニケーションというのは両方が交流することです。互いに聞くということが含まれます。先ほど、我慢しきれなくなって話そうとするときにストップをかけて、「いまはご主人の話を聞いているのですよ」と言うと、しぶしぶ聞くようになるということをお話ししましたが、このようにして聞くということを学んでいくことも可能だということです。
私たちは聞くことが専門ですから聞きますが、聞いてもらうことによって相手の話が聞けるというようにもなるのです。ある意味では、モデルになって教えていくということです。普段人の話が聞けない人というのは、自分も聞いてもらっていないことが多いのです。時間をとって相手に耳を傾けるためには意志を働かせる必要があります。意志があると自分が話したくても、意識的に相手の話を聞くという努力をします。意志が働いていないと聞くのはむずかしいということです。
みなさんは、日常の中で自分の話を本当に聞いてもらっているという体験をどの程度しているでしょうか。どんなときにいちばん聞いてもらいますか。聞いてもらえる相手は誰ですか。
(3)批判的なコミュニケーションは利己的な思いから
批判は問題解決の助けにはなりません。どちらかというと私たちは批判的になりがちです。それはどこからくるかというと利己的なところからです。私たちは他人のことを考えていても、まず自分のことから考えてしまうことが多いのではないでしょうか。最終的に自分に返ってくるから、他人のために何かをしてあげるのだということもあるのかもしれません。
私たちは自然な流れからいけば利己的になってしまうかもしれません。そこから物事に対する見方が生まれてくるのです。たとえば何か問題があったときに、自分が悪いというよりも他人が悪いと批判をしてしまう。そうすると、相手も利己的ですから、互いに批判し合うことになるのです。その結果親子喧嘩や夫婦喧嘩になるのです。そういうコミュニケーションになってしまうと、それを打ち破るのはたいへんなことです。そのようなコミュ二ケーションがずっととられていくと、もう話さなくていいのだ、話してもムダだと思うでしょう。どちらかが話しても、黙んまりを決め込むようになってしまうのです。それでは問題は決して解決しません。
(4)怒りなどの態度は人との関係を破壊する
怒りも大事な感情ですから、怒ってはいけないとは言いません。一般的に、怒りは爆発する状態であると非常に破壊的です。ものごとを創造的・生産的に解決するよりは、いままであるものさえ破壊してしまうということです。まさにいまのイスラエルとパレスチナの関係です。怒りが根本にあると、憎しみ合い、いのちを奪い合うところまでいくことがあります。虐待もそのうちの一つですし、保険金目当ての殺人などもそうです。怒りというのは、人と人との関係を破壊してしまいます。
怒りの管理は、押し殺すのではなく、早い段階で表現するということです。まず怒りの種があり、葉が茂り、実を結びますが、早い段階で怒りというものを表に出すことです。それが先ほどのフィーリングをコミュニケートしていくということです。「私はこれが好きではありません」とか、「怒りさえ感じます」というような表現をすれば、ずいぶん効果的ではないでしょうか。それは家族の間だけでなく、あらゆるところで使うことが可能です。そうすると、破壊するまでには至らないですみます。怒りは表現していくことによって、コミュニケーションも可能になっていきます。
(5)和解の重要さ
和解も意志です。みなさんに和解するという意志があるかどうかということです。愛と同じに意志なのです。表面的な和解は必ず後で問題が出てしまいます。これも早い段階で対処しなければなりません。夫婦の間の和解、親子の間の和解は意志なのですから、本気で和解するのだという意志が土台にならなければなりません。和解が表面的なものであるかどうかは時間がたてばわかります。なぜならば何か問題が起こったときに、それが本当の和解かどうかが問われてくるからです。
和解にもいくつかの方法があります。一つは妥協です。それぞれが少しずつ歩み寄ることです。それは一方的にではありません。そこで初めて和解が成立することになります。
いろいろな方法を試みて和解していくのですが、その問にある不一致の内容がどんなものであるかによってシンプルに解決のつくものもあるでしょう。アメリカでは週末に妻が夫と一緒に過ごしたいと思うのに、夫はゴルフに出かけて楽しく飲んで帰ってくる。こういう場合にシンプルな和解の方法は何かというと、土曜か日曜のどちらかを妻と一緒に過ごすことです。そのような妥協はとても大事だと思います。
(6)裁くのはコミュ二ケーションではない
裁くというのは断定することです。気づいていないこともあります。断定するような話し方では効果的なコミュ二ケーションは期待できません。夫婦あるいは親子間で、互いに自分のコミュニケーションについて聞いてみればいいのです。案外裁くような態度でコミュニケーションをとっていることがあります。相手から言われないと自分のコミュ二ケーションの特徴がわかりません。裁くのは断定するようなコミュ二ケーションですから、これではなかなかコミュニケーションを通しての交流は困難です。断定するのではなく、まず相手に耳を傾けることから始めることです。
効果的なコミュニケーションを向上させるには、まず意識的にそのような目標をもつことです。それぞれの家庭の中でコミュニケーションが十分になされればなされるほど、家族としてのシステムは健康なシステムになっていきます。そうすると、問題が生じてもそれが解決されていきますし、ある意味では免疫にもなります。免疫力が強ければ癌細胞が分裂する前にそれを打ち負かしてしまうのと同じです。
コミュニケーションが十分でない家族の場合、多くの人たちがやることは周りを責めることです。利己的になり、批判し、裁いてしまうのです。これでは破壊的になってしまいます。そうではなく、家庭の中で自分自身のニーズ、フィーリング、考えなどを少しずつ自分のほうから話していけばいいのです。批判的ではなく、裁くことではなく、小出しにしてやっていく。それが半年、1年とたつうちにずいぶん違ってくると思います。地道に同じようなパターンで努力をしていくと、少しずつ機能が働いてくるということです。
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