“ペイン=痛み”とは
次に“ペイン”ということについて考えてみたいと思います。
ペインとは「痛み」のことです。これも英語からラテン語、ギリシア語とたどることができますが、いずれの場合も「罰」ということに関係しています。痛い思いをしたとき、これは何かの罰かもしれないと考える気持ちはよくわかります。日本語で「バチがあたった」というときのバチは漢字で書けば「罰」です。胸に手を当てて考えてみると何か思い当たることがあったりします。そして「あのせいだ、あれが原因に違いない」と考えるわけです。
仏教では因果応報ということをいいますが、ものにはすべて「原因−結果」の因果関係があり、それに応じて報いが与えられるわけで、善因善果、悪因悪果。おまえが痛み苦しむのも故なしとはしないという論理です。これが受くべき罰であるならば、それにあらがい抗するなど天をも恐れぬ所業。かくなる上はこれに甘んじ痛みに耐えよ、ということにもなりかねません。
人は痛みを身に負うとき、往々にして自分が犯したはずの過ちを探り、いまの苦しみはその代価であるという審判のつらさにさらされます。
また、痛みは人を孤独にします。自分で背負うしかない、身体的な痛みに加え、誰にもわかってもらえないという孤独の中でひとり耐えるしかないと感じられるのです。
孤独の源には、しばしば「どうしてこの私が、私だけがこんなめにあわなければならないのだ」という理不尽さへの怒りと情けなさ、絶望感もないまぜになっています。
こうして痛みは、身体的のみならず精神的にも人の存在を根底から深く揺さぶるのです。
聖書と“痛み”
ペインの原義は罰につながっている申しました。およそ物事は因果関係で成り立っており痛みにも原因があるはずで、いま苦しんでいるのはその結果だ、と考えるのは理にかなった、つまり合理的な考え方であります。
しかし聖書では、痛みは必ずしも罪の結果の罰ではないといいます。聖書は因果律をとりません。そういう意味では合理的ではないのです。物事の背後には人知による理解を超えた神の意志が働いているはずだからです。神が全能であるならば因果律にしばられるはずもなく、神の前では因果応報は大原則ではあり得ないのです。
痛みは人を孤独にするということも見てきました。誰にもわかってもらえず、ひとりそれを抱え込んで悶々とする痛み。しかし聖書は、その孤独のどん底でこそ神と出会うことができるといいます。痛みが、孤独が、われわれを神との根源的な関係へと呼び戻すというのです。
確かに人は痛むとき自分の弱さと限界とをいやというほど思い知らされ、神を呼び求めます。「苦しい時の神だのみ」といいますが、痛みを通して人はあらためて自分の存在を意識し、神の前に呼び出されるのかもしれません。
痛みに茫然自失となったとき、苦しみを共にし、悩む自分をあるがままに受けとめてくれる存在は、文字どおり地獄に仏。その優しさと愛に支えられ、痛みの奴隷状態から解放されるきっかけを得ることがあります。
コンパッション=共苦すること
“苦しみ”はラテン語で「パトス」といい、英語のパッション(passion)の語源になっています。パッションというと「情熱」と思われるかもしれませんが、本来は「苦しみ、痛み」という意味です。苦しいほどの思いのたけが情熱というわけです。ジュースの缶に「情熱の果実、パッションフルーツ」と書いてあるのを見かけましたが、あれは勘違いです。パッションフルーツの花は十字架の形で真ん中のオシベがイバラの冠を思わせることにちなんだ名前です。
欧米で上演される「パッション・プレイ(Passion play)」を情熱的なラブロマンスと期待して見に行ったらとんでもなく失望することでしょう。キリストの受難劇のことだからです。
パトスが「苦しみ」ですから、patientは苦しむ人、すなわち患者のことで、苦しみを耐えることがpatience(忍耐)となるわけです。
苦しみは、自分の痛みからくるとは限りません。他人であれ他の生きものであれ、苦しんでいる姿に接するとき、見るものもこころが痛みます。身体的苦痛ではありませんが、スピリチュアル・ペインを感じるわけです。それがわが子のことともなれば親としては自分の場合以上に苦しいものです。人は他者の痛みを身体的に引き受けることはできなくても、こころにおいて共有できるのです。
痛み、苦しみにおいて互いに固く結びつき、それを共に担うことで重荷が軽くなり癒されるきっかけとなり得るのです。「わかちあえば喜びは二倍に、苦しみは半分に」という言葉には真実があります。
苦しみを共にすること、それを英語ではコンパッション(compassion)といいます。コム(com)は「共に」、パッション(passion)は「苦しみ」。文字通りには「共苦」ということですが、字引を見ると「憐れみ、愛、慈悲、同情」などと訳されています。
日本語で「憐れむ」というと、何か高所から見下ろすようなニュアンスがなきにしもあらずですが、「憐れみ深い」ということは苦しみを共にできることであるわけです。漢字の「憐」という字もよく見れば「心を隣におく」と書きますし、「あわれ」という言葉も「ああ、われ!」、つまりもはや他人事ではなく、わがこと、自分のこととして受けとめ、こころふるわせるという共苦する姿が見られる表現です。
この「苦しむものと共にいてその苦しみをわがこととして受けとめる」という姿勢は聖書に通底する大切なモチーフでもあります。カトリックの作家、遠藤周作さんの多くの作品の中心的テーマでもあり、彼はスーパーマンのように強い救世主ではなく、むしろ弱々しいが私たちと共にいて「共に苦しむ神」としてのキリスト像を切なく美しく描き出しました。
その極みが十字架上のキリストのイメージです。神の子であるキリストが、人の罪を身に受けて苦しむ。苦しみを担い、苦しみを共にして、苦しみを通して人を救うという不思議な考え方がそこにあります。
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