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自分らしさと“からだ・あたま・こころ”
 ところがいままでの日本の教育は圧倒的に「あたま」偏重でした。「からだ」のことは体育、給食など多少の配慮をしながらも、こと「こころ」の教育ということになると丸ごとすっぽり落としてきてしまったのではないでしょうか。
 もっとも、こころ優しくやっていたのでは受験戦争には勝ち抜けませんし、「こころ」を脇へおいてこそ利潤追求に徹し、奇跡といわれた経済発展が可能だったという皮肉な面も否定できません。 そしてバブルがはじけたいま、出るわ出るわ、おとなも子どもの世界も「こころない」犯罪、事故、事件の連続です。
 明治時代にヨーロッパの教育をお手本として取り入れたときには前述のキリスト教的人間観が下敷きになっており、これを「知育、体育、徳育」と解釈しました。知育、体育はいいのですが、“スピリット”を徳育とするのはちょっと違います。スピリットが健全であることと道徳教育が徹していることとは別の次元のことなのです。
 躾(しつけ)という字は「身が美しい」と書きます。確かに行き届いた躾から生まれる洗練されたマナーは美しく気持ちのよいものです。
 また、倫理道徳の「倫理」はギリシア語の「エティカ」を訳した言葉ですが、このエティカに「小さな」という意味の「エット」をつけると「エティケット(エチケット)」となります。大ざっぱにいえば、倫理道徳というのはエチケットの拡大版だということです。
 お互いに身だしなみを整え、エチケットを守って躾よく振る舞うことは社会生活を円滑にするうえで有効で、大切なことです。でも、見かけがきちんとしていることと、その人の内面のありようとはほとんど関係がないのです。慇懃無礼(いんぎんぶれい)という言葉もあります。見かけは丁寧で礼儀正しくても、こころの中では舌を出しているなんて人もいるでしょう。詐欺師というのはまさにそこにつけ込んで、好感のもてる身なりでいかにも善人そうに振る舞って人をだますわけです。
 また人生の悩みや病気の苦しみ、死の恐怖といったスピリチュアルな問題、自分という存在の根源にかかわるような深い問いへの答えは、いくらエチケットの知識をふやし倫理道徳を徹底しても得られるものではありません。この両者は次元の違う問題だからです。
 ではスピリットとは何なのか。この英語の言葉は、ラテン語「スピリトゥス」からきています。そしてそのラテン語がお手本にしたのはギリシア語の「プネウマ」で、さらにその元をたどればヘブライ語の「ルーアハ」に行き着きます。ちょっとチンプンカンプンに思われるかもしれませんが、これらの言語は現代ヨーロッパ語に共通のご先祖様です。聖書はヘブライ語とギリシア語で書かれ、中世以来ラテン語訳が用いられていましたから、ルーツをたどるとなるとこれらの言葉に注目せざるを得ないのです。
 
スピリットのルーツ“霊・息・風”
 では「スピリトゥス」と「プネウマ」と「ルーアハ」に共通し一貫していることは何か。どれも「霊」とも「息」とも「風」とも訳せるという事実です。このうちどの訳語をとるかは翻訳者の解釈次第です。
 たとえば旧約聖書の冒頭、創世記1章1節の書き出しはこうなっています。
 初めに、神は天地を創造された。
 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、
 神の霊が水の面を動いていた。
 この最後の「神の霊が」という部分は「神の風が」とも「神の息が」とも訳せるわけです。
 
 次に「人の創造」(創世記2章7節)の記述を見てみましょう。
 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
 その鼻に命の息を吹き入れられた。
 人はこうして生きる者となった。
 「命の息」となっている部分は「命の風」とも「命の霊」ともいいうるわけです。
 
 「息を吹き込まれて生きるものとなった」という発想は日本語の世界にも通じるところがあります。
 「いのち」という言葉ですが、「い」は息のことだそうです。息吹の「息」です。そして「ち」というのは霊力、いのちを支える不思議な霊力のことです。この霊力を感じるものに古代人は畏敬の念を抱いたのは当然でしょう。カミナリとは「神鳴り」のことですが、これを「いかづち」というときの「ち」、あるいは大蛇を「おろち」というときの「ち」もこの霊力と関係があるそうです。生命を支える血液は大和言葉では「ち」ですし、母親から赤ん坊へといのちを受け渡すのが「ちち」。乳飲み子の「ち」でもあります。
 つまり「いのち」とは「息の霊」ということ。生命の霊力を息吹きとして吸って吐いている。その状態が「いのち」なのだというわけです。だからこそ「息している」ことが、「生きている」という「いきもの」の姿であるわけです。
 ついでに「命」という漢字も見ておきましょう。この字は「生命」の命でもあるし、「命令」の命でもあります。生命と命令、いったいこの2つにはどんな共通点があるのでしょうか。
 命の字の成り立ちを調べてみますと、もともとは2つの独立した漢字が合体してできたというのです。よく見ると、左下に「口」があります。それを除くと「令」という部分が残ります。そう、命令の令です。そもそも「命」と、は「口で発せられた命令」という意味なのです。では、誰が命令を下すのか、です。古来、東洋の考え方では「天」です。天が「生きよと命じる」、それが「生命」であり、これを「天命」と呼び習わしています。そして、われわれに生きよと命じた天が、「はい、ご苦労さん。もうこのへんでいいよ」というときまでがわれわれの寿命です。ですから「もういいよ」という命が下った日を「命日」として記憶するわけです。
 この中国古来の考え方も、天を神と置き換えればそのまま聖書の世界に通じます。
 ただ、聖書の違うところは、人格神の意志で自らの息を吹き込んだ結果なのだ、というところでしょう。中国の天にしても易占などで予測可能な法則性をもっており、人間と対話するような人格性はないようです。
 聖書のいう人格的な神なんてたわいないイメージで、納得がいかない、という方があるかもしれません。現代科学ではいのちの誕生は偶然によるということになっているようですし、宇宙の力や自然の精密機械のような働きの結果だという説もあるでしょう。
 ただ、ユダヤ教やキリスト教で人格神というのは、神に人間のような人格や意志があるかないかの問題ではなく、われわれ人間側として、神というのは機械や偶然のように、責任を問題にせず無機質に対応する相手ではなく、全人格的な、責任ある対応を迫られる相手だぞ、というこちら側の認識の前提なのです。
 というわけで、もう一度、創世記2章の「人の創造」の場面に戻ってみましょう。
 この箇所はなかなか味わいがあります。神の息、神の霊が吹き込まれて、初めて人は生きる者となった。つまり人が人間として生きているいちばん中心にいのちのスピリットがある。それを呼吸することで人は生かされている。人を活かすのは神のスピリットだ、というわけです。
 ではこのスピリット、人間だけに与えられた特権なのでしょうか。人間が万物の「霊長」と呼ばれるのはこのスピリットのおかげなのでしょうか。答えは否、です。
 旧約聖書のコヘレトの言葉3章18節にこうあります。
 人の子らに関して、わたしはこうつぶやいた。
 神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎない
 ということを見極めさせるためだ、と。
 人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。
 同じ霊をもっているにすぎず人間は動物に何らまさるところはない。
 ・・・人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。
 
 そうです。人間だけでなく動物もまたスピリットを内包して生きているというのです。「いきもの」同士ひとつながりであるわけです。ただ、聖書ではその息は神のスピリットであるとし、常に神と息を合わせ、呼吸をひとつにして生きることこそ本来のありようなのだという自覚が見てとれます。スピリット、それは私たちの存在を根底で支え続けていてくれるダイナミックないのちの源であり、それを失うと私たちはもはや生きていけないものなのです。







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